小鹿の雑感は,グレート・小鹿,ザ・グレート・カブキ,天龍源一郎の3人による対談でした。この中では天龍がプロレスラーとしては最も日本では格上なので,多くのインタビュー記事が残されています。今回から,ジャンボ・鶴田に関係するものを紹介していきます。ただしここから書いていくことは,『1964年のジャイアント馬場』で,天龍がSWSに移籍したときの山本の決断の中で触れた,天龍からあたかも利益提供を受けたかのように書かれている記者のうちのひとりによるインタビューが中心です。鶴田は全日本に残り,天龍は離脱したのですから,いくらかのバイアスを掛ける必要はあるかもしれません。
天龍が鶴田の試合を始めて生で見たのは1976年6月11日。蔵前国技館でのテリー・ファンクとのシングルマッチでした。このとき天龍はまだ関取でしたが,プロレスに転向することはすでに心の中で決まっていて,この試合も馬場夫人の元子さんから誘われたといっています。天龍がプロレスへの転向を考えたとき,最初から全日本に入団することだけを考えていたのかは不明ですが,大きな契機となったのが鶴田であったのは事実のようです。
天龍は同年の10月15日に全日本プロレスに入団します。その2日後には巡業に合流。バスの座席が決まってなかったときに鶴田が席を譲ってくれ,これが天龍と鶴田のファーストコンタクトでした。当時のふたりは25歳前後。普通の25歳前後の若者がするような雑談をバスの中ではしていて,同年代の仲間という意識があったと天龍は語っています。小鹿やカブキ(当時は高千穂)は年上という雰囲気が出ていてとっつきにくかったそうです。
この巡業中,受け身の練習中に鶴田にボディスラムで投げられたそうです。その受け身で吐きそうになったというのは天龍のエピソードの中でわりと知られているものだと思いますが,これはカブキが危ないと怒鳴ったそうなので,鶴田の投げ方もまずかったというのが真相のようです。
第四部定義八は,人間が十全な原因causa adaequataとなって何事かをなすとき,認識cognitioに限定すれば,人間の精神mens humanaが十全な原因となって何事かを認識するcognoscereとき,それは人間にとっての徳virtusであるといっています。第三部定義二から分かるように,これは人間の精神の能動actio Mentisが人間の徳であるといっているのと同じです。そして第三部定理三から,それは十全な観念idea adaequataによって生じます。
理性ratioは第二種の認識cognitio secundi generisですから第二部定理四一によって必然的にnecessario真verumすなわち十全adaequatumです。よって理性によって何かを認識するなら,それは人間の徳です。ただし第四部定理二八は,最高の徳は神Deusの認識であるといっていますから,理性による認識が直ちに最高の徳であるわけではありません。理性によって神を認識するならそれは最高の徳ですが,神以外のものを認識するならそれは徳ではあっても最高の徳ではありません。
第四部定理五二は,自己満足acquiescentia in se ipsoは理性から生じ得るといっています。ですがこれは自己満足が必然的に徳である,最高の徳であるかどうかと関係なく徳であることを意味するわけではありません。理性から生じ得るというのは,理性以外の認識からも生じ得るということを前提としているからです。このことは第三部諸感情の定義二五から明らかであって,僕たちは自己の働く力agendi potentiaを理性によって認識する場合もあるでしょうが,表象imaginatioによって,いい換えれば第一種の認識cognitio primi generisによって認識する場合もあるであろうからです。したがって自己満足は直ちに最高の満足ではあり得ませんし,同時に徳でもあり得ません。もしも僕たちが第一種の認識によって自己満足を感じるのなら,これは先述の第三部定理三により,僕たちが受動passioによって自己満足を感じるならというのと同じ意味ですが,この場合にはそれは最高の満足ではありませんし徳でもありません。しかしもしも僕たちが理性によって自己満足を感じるのなら,それは最高の満足であると同時に徳です。したがって僕たちが理性に従う限りでは,最高の満足は同時に徳です。ただし最高の徳であるかどうかは,理性による認識の対象が神であるか否かによって判断されることになります。そして徳は受動ではあり得ませんが,自己満足は受動でもあり得ます。
天龍が鶴田の試合を始めて生で見たのは1976年6月11日。蔵前国技館でのテリー・ファンクとのシングルマッチでした。このとき天龍はまだ関取でしたが,プロレスに転向することはすでに心の中で決まっていて,この試合も馬場夫人の元子さんから誘われたといっています。天龍がプロレスへの転向を考えたとき,最初から全日本に入団することだけを考えていたのかは不明ですが,大きな契機となったのが鶴田であったのは事実のようです。
天龍は同年の10月15日に全日本プロレスに入団します。その2日後には巡業に合流。バスの座席が決まってなかったときに鶴田が席を譲ってくれ,これが天龍と鶴田のファーストコンタクトでした。当時のふたりは25歳前後。普通の25歳前後の若者がするような雑談をバスの中ではしていて,同年代の仲間という意識があったと天龍は語っています。小鹿やカブキ(当時は高千穂)は年上という雰囲気が出ていてとっつきにくかったそうです。
この巡業中,受け身の練習中に鶴田にボディスラムで投げられたそうです。その受け身で吐きそうになったというのは天龍のエピソードの中でわりと知られているものだと思いますが,これはカブキが危ないと怒鳴ったそうなので,鶴田の投げ方もまずかったというのが真相のようです。
第四部定義八は,人間が十全な原因causa adaequataとなって何事かをなすとき,認識cognitioに限定すれば,人間の精神mens humanaが十全な原因となって何事かを認識するcognoscereとき,それは人間にとっての徳virtusであるといっています。第三部定義二から分かるように,これは人間の精神の能動actio Mentisが人間の徳であるといっているのと同じです。そして第三部定理三から,それは十全な観念idea adaequataによって生じます。
理性ratioは第二種の認識cognitio secundi generisですから第二部定理四一によって必然的にnecessario真verumすなわち十全adaequatumです。よって理性によって何かを認識するなら,それは人間の徳です。ただし第四部定理二八は,最高の徳は神Deusの認識であるといっていますから,理性による認識が直ちに最高の徳であるわけではありません。理性によって神を認識するならそれは最高の徳ですが,神以外のものを認識するならそれは徳ではあっても最高の徳ではありません。
第四部定理五二は,自己満足acquiescentia in se ipsoは理性から生じ得るといっています。ですがこれは自己満足が必然的に徳である,最高の徳であるかどうかと関係なく徳であることを意味するわけではありません。理性から生じ得るというのは,理性以外の認識からも生じ得るということを前提としているからです。このことは第三部諸感情の定義二五から明らかであって,僕たちは自己の働く力agendi potentiaを理性によって認識する場合もあるでしょうが,表象imaginatioによって,いい換えれば第一種の認識cognitio primi generisによって認識する場合もあるであろうからです。したがって自己満足は直ちに最高の満足ではあり得ませんし,同時に徳でもあり得ません。もしも僕たちが第一種の認識によって自己満足を感じるのなら,これは先述の第三部定理三により,僕たちが受動passioによって自己満足を感じるならというのと同じ意味ですが,この場合にはそれは最高の満足ではありませんし徳でもありません。しかしもしも僕たちが理性によって自己満足を感じるのなら,それは最高の満足であると同時に徳です。したがって僕たちが理性に従う限りでは,最高の満足は同時に徳です。ただし最高の徳であるかどうかは,理性による認識の対象が神であるか否かによって判断されることになります。そして徳は受動ではあり得ませんが,自己満足は受動でもあり得ます。