「五才の頃」というのはある種のノスタルジーを感じさせる楽曲なので,僕にとってこれと似た雰囲気を感じる楽曲は「ホームにて」です。一方,「ノスタルジア」という楽曲にはノスタルジーを感じる要素が僕にはありません。これはあくまでも僕がノスタルジーという語句あるいは記号に対して抱いている印象から生じていることなので,僕のいわんとしてることが分かるという人もいればまったく分からないという人もいるでしょう。
「五才の頃」が収録されている「みんな去ってしまった」というアルバムには,「うそつきが好きよ」という楽曲も収録されています。僕が「ノスタルジア」に近い印象を抱くとすれば,「みんな去ってしまった」の中ではこちらになります。ただし僕はこの楽曲はそんなには聴きませんし,口ずさむこともほとんどありません。「ノスタルジア」というのは僕にとってはとても特別な楽曲であって,それと似た雰囲気を感じる楽曲を僕は必要としていないからだと思います。
夜露まじりの 酒に浮かれて
嘘がつけたら すてきだわ
裏切られた 思い出も
口に出せば わらいごと
これがこの楽曲の冒頭部分ですが,僕がこの楽曲に「ノスタルジア」と似た雰囲気を感じるのは,たぶんこの一節が含まれているからです。ですがこの部分はタイトルからも分かるように,楽曲の主題とはあまり関係がない一節でもあります。このこともまた,僕がこの楽曲をそう多くは聴かずまた口ずさんだりもしないことの一因といえるでしょう。
第五部定理二三のスピノザによる証明Demonstratioによると,この定理Propositioでいわれている「あるものaliquid」は,第五部定理二二でいわれている,個々の人間の身体humanum corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaであるということ,少なくともそうした観念と強力な関係を有していることが分かります。第五部定理二二は,その観念が神Deusの中に必然的にnecessario存在するといっています。
このとき,個々の人間の身体の本性というのは,たとえば僕の身体の本性のことであり,またあなたの身体の本性であると解するべきです。つまり,現実的に存在するすべての人間の身体の本性と解するべきであり,かつそれらはすべてが異なった本性であると解さなければなりません。僕の身体の本性とあなたの身体の本性は異なった本性であるからです。このことは,もし僕の身体の本性とあなたの身体の本性が完全に一致するのであれば,第二部定義二によって僕の身体とあなたの身体は同一の身体であるといわなければなりませんが,それをいうのは不条理であるからです。
なお,ここでは少し説明をつけ加えなければならないかもしれません。第二部定義二でスピノザが本性というとき,それがどういう意味の本性であるのかということについて,識者の間で見解の相違があるようだからです。この定義Definitioは,一般的な本性,現状の考察でいうなら,一般に人間の身体といわれる意味での本性,他面からいえば,すべての人間において合致するような人間の身体の本性について定義しているのであり,あの個物res singularisこの個物と峻別できるような意味での個別的な事物の本性の定義ではないという見解がそれなりにあるようなのです。ですが僕は,この定義は本性といわれるものであれば,それがどんなに個別的なものの本性であったとしても,たとえばあるひとりの特定の人間を抽出したときの,その人間の現実的本性actualis essentiaという意味での本性についても妥当しなければならない定義であると考えます。というのは,僕の身体の本性は僕の身体がなければあることも考えることもできないのは当然で,逆に僕の身体,ほかのだれでもない僕の身体は,ほかのだれでもない僕の身体の本性なしにあることも考えることもできない筈だからです。
「五才の頃」が収録されている「みんな去ってしまった」というアルバムには,「うそつきが好きよ」という楽曲も収録されています。僕が「ノスタルジア」に近い印象を抱くとすれば,「みんな去ってしまった」の中ではこちらになります。ただし僕はこの楽曲はそんなには聴きませんし,口ずさむこともほとんどありません。「ノスタルジア」というのは僕にとってはとても特別な楽曲であって,それと似た雰囲気を感じる楽曲を僕は必要としていないからだと思います。
夜露まじりの 酒に浮かれて
嘘がつけたら すてきだわ
裏切られた 思い出も
口に出せば わらいごと
これがこの楽曲の冒頭部分ですが,僕がこの楽曲に「ノスタルジア」と似た雰囲気を感じるのは,たぶんこの一節が含まれているからです。ですがこの部分はタイトルからも分かるように,楽曲の主題とはあまり関係がない一節でもあります。このこともまた,僕がこの楽曲をそう多くは聴かずまた口ずさんだりもしないことの一因といえるでしょう。
第五部定理二三のスピノザによる証明Demonstratioによると,この定理Propositioでいわれている「あるものaliquid」は,第五部定理二二でいわれている,個々の人間の身体humanum corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaであるということ,少なくともそうした観念と強力な関係を有していることが分かります。第五部定理二二は,その観念が神Deusの中に必然的にnecessario存在するといっています。
このとき,個々の人間の身体の本性というのは,たとえば僕の身体の本性のことであり,またあなたの身体の本性であると解するべきです。つまり,現実的に存在するすべての人間の身体の本性と解するべきであり,かつそれらはすべてが異なった本性であると解さなければなりません。僕の身体の本性とあなたの身体の本性は異なった本性であるからです。このことは,もし僕の身体の本性とあなたの身体の本性が完全に一致するのであれば,第二部定義二によって僕の身体とあなたの身体は同一の身体であるといわなければなりませんが,それをいうのは不条理であるからです。
なお,ここでは少し説明をつけ加えなければならないかもしれません。第二部定義二でスピノザが本性というとき,それがどういう意味の本性であるのかということについて,識者の間で見解の相違があるようだからです。この定義Definitioは,一般的な本性,現状の考察でいうなら,一般に人間の身体といわれる意味での本性,他面からいえば,すべての人間において合致するような人間の身体の本性について定義しているのであり,あの個物res singularisこの個物と峻別できるような意味での個別的な事物の本性の定義ではないという見解がそれなりにあるようなのです。ですが僕は,この定義は本性といわれるものであれば,それがどんなに個別的なものの本性であったとしても,たとえばあるひとりの特定の人間を抽出したときの,その人間の現実的本性actualis essentiaという意味での本性についても妥当しなければならない定義であると考えます。というのは,僕の身体の本性は僕の身体がなければあることも考えることもできないのは当然で,逆に僕の身体,ほかのだれでもない僕の身体は,ほかのだれでもない僕の身体の本性なしにあることも考えることもできない筈だからです。