日本時間で昨日の深夜にイギリスのアスコット競馬場で行われたキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスGⅠ芝1マイル3フィート211ヤード。
シュヴァルグランは後ろから3頭目という位置取りに。ヨーロッパの長距離レースにしてはやや長めの隊列でした。最初のコーナーで内に入り,直線の入口では内から2頭目となりましたが,位置取りはそのまま。直線は伸びるというほどではありませんでしたがばてるといったこともなく,流れ込むような形で勝ち馬から概ね13馬身差の6着でした。
このレースは直線に入るとフィニッシュまで競り合いを演じた上位2頭が,世界最強クラスの2頭。そうした馬たちを相手にヨーロッパに遠征してのレースでは,勝ち負けをするのは厳しいだろうと思えました。とはいえここまで離されるほどの実力差があるというようには思えませんので,雨が降って悪くなった馬場状態の影響も受けたのだろうと推測されます。それでもこの着差ですから,仮に良い馬場状態でレースができたとしても,上位入線は難しかったのではないでしょうか。強い馬が長く競り合うという,とても内容が濃いレースでした。
第二種の認識cognitio secundi generisからも第三種の認識cognitio tertii generisからも自己満足acquiescentia in se ipsoが発生する,発生し得ることは間違いありません。第三部諸感情の定義二五から明らかなように,僕たちは僕たち自身の働く力agendi potentiaを観想するcontemplariなら,混乱してであれ十全にであれそれを観想しさえすれば,自己満足を感じます。このとき,働くというのは能動actioを意味します。第二種の認識も第三種の認識も,僕たちの精神mensを十全な原因causa adaequataとして発生します。よって第三部定義二によりどちらも精神の能動actio Mentisです。そして第二部定理四三から,僕たちは精神の能動によって何かを認識するcognoscereとき,精神の能動によって自分が何かを認識したことを同時に知ります。よって僕たちに精神の能動が発生すれば,僕たちは僕たち自身の働く力を観想する,この場合には十全に認識することになります。したがって第二種の認識からも第三種の認識からも,自己満足は発生する,少なくとも発生し得ることになります。

第四部定理五二と第五部定理二七がいっているのは,この種の満足が僕たちにとっての最高の満足であるということです。ですからこれは繰り返しになりますが,僕たちが僕たち自身の働く力を十全に認識することによって生じる喜びlaetitiaすなわち自己満足が,僕たちにとっての最高の満足であるということを前提とすれば,第二種の認識によって生じる自己満足も第三種の認識による自己満足も,同じように最高の満足といえるでしょう。いい換えればこれらふたつの定理Propositioは両立し得るでしょう。ですがすでにいったように,スピノザは第二種の認識と第三種の認識については,それが必ず最高の徳virtusであるのかそれとも必ず徳ではあり得ても最高の徳ではない場合もあるのかということによってだけ分節しているわけではなく,原因causaの相違によっても分節しているのです。なので僕はふたつの定理は矛盾しているという解釈を採用します。
では,もしも僕たちに最高の満足というものがあるとすれば,それは第二種の認識によって発生する自己満足なのでしょうかそれとも第三種の認識によって発生する自己満足なのでしょうか。他面からいえば,僕が矛盾していると判断する第四部定理五二と第五部定理二七は,どちらが正しいのでしょうか。
シュヴァルグランは後ろから3頭目という位置取りに。ヨーロッパの長距離レースにしてはやや長めの隊列でした。最初のコーナーで内に入り,直線の入口では内から2頭目となりましたが,位置取りはそのまま。直線は伸びるというほどではありませんでしたがばてるといったこともなく,流れ込むような形で勝ち馬から概ね13馬身差の6着でした。
このレースは直線に入るとフィニッシュまで競り合いを演じた上位2頭が,世界最強クラスの2頭。そうした馬たちを相手にヨーロッパに遠征してのレースでは,勝ち負けをするのは厳しいだろうと思えました。とはいえここまで離されるほどの実力差があるというようには思えませんので,雨が降って悪くなった馬場状態の影響も受けたのだろうと推測されます。それでもこの着差ですから,仮に良い馬場状態でレースができたとしても,上位入線は難しかったのではないでしょうか。強い馬が長く競り合うという,とても内容が濃いレースでした。
第二種の認識cognitio secundi generisからも第三種の認識cognitio tertii generisからも自己満足acquiescentia in se ipsoが発生する,発生し得ることは間違いありません。第三部諸感情の定義二五から明らかなように,僕たちは僕たち自身の働く力agendi potentiaを観想するcontemplariなら,混乱してであれ十全にであれそれを観想しさえすれば,自己満足を感じます。このとき,働くというのは能動actioを意味します。第二種の認識も第三種の認識も,僕たちの精神mensを十全な原因causa adaequataとして発生します。よって第三部定義二によりどちらも精神の能動actio Mentisです。そして第二部定理四三から,僕たちは精神の能動によって何かを認識するcognoscereとき,精神の能動によって自分が何かを認識したことを同時に知ります。よって僕たちに精神の能動が発生すれば,僕たちは僕たち自身の働く力を観想する,この場合には十全に認識することになります。したがって第二種の認識からも第三種の認識からも,自己満足は発生する,少なくとも発生し得ることになります。

第四部定理五二と第五部定理二七がいっているのは,この種の満足が僕たちにとっての最高の満足であるということです。ですからこれは繰り返しになりますが,僕たちが僕たち自身の働く力を十全に認識することによって生じる喜びlaetitiaすなわち自己満足が,僕たちにとっての最高の満足であるということを前提とすれば,第二種の認識によって生じる自己満足も第三種の認識による自己満足も,同じように最高の満足といえるでしょう。いい換えればこれらふたつの定理Propositioは両立し得るでしょう。ですがすでにいったように,スピノザは第二種の認識と第三種の認識については,それが必ず最高の徳virtusであるのかそれとも必ず徳ではあり得ても最高の徳ではない場合もあるのかということによってだけ分節しているわけではなく,原因causaの相違によっても分節しているのです。なので僕はふたつの定理は矛盾しているという解釈を採用します。
では,もしも僕たちに最高の満足というものがあるとすれば,それは第二種の認識によって発生する自己満足なのでしょうかそれとも第三種の認識によって発生する自己満足なのでしょうか。他面からいえば,僕が矛盾していると判断する第四部定理五二と第五部定理二七は,どちらが正しいのでしょうか。