第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三から,希望spesと不安metusは共に過去の物の観念ideaだけから発生するわけではなく,未来の物の観念からも発生します。ですが,だから何らかの感情affectusが希望ないしは不安から発生するとき,それは過去の物の観念からも未来の物の観念からも発生しなければならないとは限りません。たとえば未来の物の観念からは発生し得なくても,過去の物の観念から発生し得るなら,その感情は希望あるいは不安から発生しているとみることはできるからです。
一方,希望も不安も,単に過去の物あるいは未来の物の観念を伴っている感情ではなく,そうした観念から発生するすなわちその観念を原因causaとする感情なのですから,希望や不安から何らかの感情が発生するなら,それもまた過去あるいは未来の観念をただ伴っているだけでは不十分なのであって,そうしたものの観念が原因となっていなければならないと僕は考えます。ですから,もし未来の物の観念からは発生し得ないけれど,過去の物の観念からは発生し得るようなある感情があるとすれば,それは希望ないしは不安から生じる感情ではあり得ると僕は考えますが,過去の物の観念を伴うだけでなく,未来の物の観念を伴うこともできるある感情があるとすれば,いい換えれば過去とも未来とも関連し得るけれど,そうしたものの観念を原因とすることはできないようなある感情があるなら,そうした感情は希望や不安からは発生し得ない感情であると考えます。
したがって,過去と未来と原因性の関係でいえば,歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusが,過去の物の観念だけとしか関連し得ず,未来の物の観念とは関係し得ない感情だからといって,僕はそのことだけでは歓喜も落胆も希望や不安からは発生し得ないとはいいません。ですが歓喜も落胆も,過去の物の観念を伴った喜びあるいは悲しみなのであり,過去の物の観念から発生する喜びや悲しみではありませんから,僕はこの点において,これらふたつの感情が希望や不安からは発生し得ない感情であると考えます。
実はここにも畠中説の不都合が存在します。畠中は,安堵securitas,絶望desperatio,歓喜,落胆を,すべて希望および不安からの派生感情であるとみているのですが,これだと派生のあり方が,安堵および絶望と,歓喜および落胆とでは異なることになってしまうからです。
『エチカ』は人間にとっての最高の徳virtusをそれ自体で示すことはできません。このことが『エチカ』自体に含まれています。ただし,人間にとって最高の徳となる認識cognitioが確かに存在するということ,かつ人間はそれを認識し得るということについては,『エチカ』の中で,いい換えれば第二種の認識cognitio secundi generisによって人間は知ることができます。このことも『エチカ』に含まれています。
カヴァイエスJean Cavaillèsにとっての数理哲学は,カヴァイエスにとっての,あるいはカヴァイエスがその正当性を保証しようとした数学にとっての,第三種の認識cognitio tertii generisの問題であったということを,近藤和敬が肯定しているということはすでに説明しました。このときカヴァイエスは,第二種の認識すなわちカヴァイエスがいうところの学知scientiaによっては数学の正当性を証明することはできないけれども,それ以外の認識があるということ,いい換えれば公理系の内部の証明Demonstratioによっては把握することができない認識があるのであって,そのこと自体は第二種の認識によって把握できると考えていました。スピノザの場合はそれとは異なり,カヴァイエスにとっての第三種の認識があるということ,あるいは人間がそういう認識をすることが可能であるということも,第二種の認識によって僕たちは把握することができるといっていることになります。
ただし,この根拠となるような認識についてはスピノザは「あるものaliquid」という語句で示しています。これは,僕たちは第三種の認識によって何事かを認識するcognoscereことができるということは第二種の認識によって認識することができるのだけれども,その根拠となる「あるもの」については,そのものの観念ideaが無限知性intellectus infinitusのうちにあるということは人間は理解できるけれど,それ自体を十全に認識するということは人間には不可能であるということが影響しています。つまり人間はそれを十全に認識することができないので,それを特定のある事物の観念というようにはいわず,十全に認識することはできない,何であるか分からないような「あるもの」といういい方をしてるのだと僕は思います。
「あるもの」が最初に出てくるのは第五部定理二三です。少し検討してみましょう。
一方,希望も不安も,単に過去の物あるいは未来の物の観念を伴っている感情ではなく,そうした観念から発生するすなわちその観念を原因causaとする感情なのですから,希望や不安から何らかの感情が発生するなら,それもまた過去あるいは未来の観念をただ伴っているだけでは不十分なのであって,そうしたものの観念が原因となっていなければならないと僕は考えます。ですから,もし未来の物の観念からは発生し得ないけれど,過去の物の観念からは発生し得るようなある感情があるとすれば,それは希望ないしは不安から生じる感情ではあり得ると僕は考えますが,過去の物の観念を伴うだけでなく,未来の物の観念を伴うこともできるある感情があるとすれば,いい換えれば過去とも未来とも関連し得るけれど,そうしたものの観念を原因とすることはできないようなある感情があるなら,そうした感情は希望や不安からは発生し得ない感情であると考えます。
したがって,過去と未来と原因性の関係でいえば,歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusが,過去の物の観念だけとしか関連し得ず,未来の物の観念とは関係し得ない感情だからといって,僕はそのことだけでは歓喜も落胆も希望や不安からは発生し得ないとはいいません。ですが歓喜も落胆も,過去の物の観念を伴った喜びあるいは悲しみなのであり,過去の物の観念から発生する喜びや悲しみではありませんから,僕はこの点において,これらふたつの感情が希望や不安からは発生し得ない感情であると考えます。
実はここにも畠中説の不都合が存在します。畠中は,安堵securitas,絶望desperatio,歓喜,落胆を,すべて希望および不安からの派生感情であるとみているのですが,これだと派生のあり方が,安堵および絶望と,歓喜および落胆とでは異なることになってしまうからです。
『エチカ』は人間にとっての最高の徳virtusをそれ自体で示すことはできません。このことが『エチカ』自体に含まれています。ただし,人間にとって最高の徳となる認識cognitioが確かに存在するということ,かつ人間はそれを認識し得るということについては,『エチカ』の中で,いい換えれば第二種の認識cognitio secundi generisによって人間は知ることができます。このことも『エチカ』に含まれています。
カヴァイエスJean Cavaillèsにとっての数理哲学は,カヴァイエスにとっての,あるいはカヴァイエスがその正当性を保証しようとした数学にとっての,第三種の認識cognitio tertii generisの問題であったということを,近藤和敬が肯定しているということはすでに説明しました。このときカヴァイエスは,第二種の認識すなわちカヴァイエスがいうところの学知scientiaによっては数学の正当性を証明することはできないけれども,それ以外の認識があるということ,いい換えれば公理系の内部の証明Demonstratioによっては把握することができない認識があるのであって,そのこと自体は第二種の認識によって把握できると考えていました。スピノザの場合はそれとは異なり,カヴァイエスにとっての第三種の認識があるということ,あるいは人間がそういう認識をすることが可能であるということも,第二種の認識によって僕たちは把握することができるといっていることになります。
ただし,この根拠となるような認識についてはスピノザは「あるものaliquid」という語句で示しています。これは,僕たちは第三種の認識によって何事かを認識するcognoscereことができるということは第二種の認識によって認識することができるのだけれども,その根拠となる「あるもの」については,そのものの観念ideaが無限知性intellectus infinitusのうちにあるということは人間は理解できるけれど,それ自体を十全に認識するということは人間には不可能であるということが影響しています。つまり人間はそれを十全に認識することができないので,それを特定のある事物の観念というようにはいわず,十全に認識することはできない,何であるか分からないような「あるもの」といういい方をしてるのだと僕は思います。
「あるもの」が最初に出てくるのは第五部定理二三です。少し検討してみましょう。