スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&ひとつの観念

2019-07-26 19:15:04 | 将棋
 昨日の第67期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は豊島将之名人が2勝,永瀬拓矢叡王が0勝。
 振駒で永瀬叡王の先手となり相矢倉。後手の豊島名人が積極的に構えました。
                                     
 先手が端歩を突いた局面。ここで☖9四歩と受けたのですが,これが緩手で敗着に近い一手となってしまいました。後手はじっくりと指す駒組にはなっていないので,ここで☖6五歩と仕掛けていかなければならなかったようです。それでよくできたわけではありませんが,悪くなるわけでもないので,仕掛ける価値は十分にあったということになると思います。
 後手が端を受けたので先手から☗3五歩と仕掛けました。☖同歩☗同銀☖同銀☗同角で銀交換。次は☗2四歩があるので☖3三金と受けましたが先手はすぐに☗2二銀と打っていきました。
 後手は☖3四金と上がり☗6八角と引かせてから☖6五歩を決行。しかしすでに遅く☗2一銀成と桂馬を取られました。
 後手は☖6六歩☗同銀☖6五歩☗7七銀と形を決めた上で☖5一王と戦線から遠ざかりましたが☗1一成銀で先手の桂香得に。
                                     
 成銀が働くわけではないので,純粋に桂馬と香車を損したというのとは違うものの,この駒損を補うだけの代償が後手にあるわけではなく,ここでは差が開いてしまっているようです。
 永瀬叡王が挑戦者に。王座戦五番勝負は初出場。第一局は9月2日です。

 現実的に存在する人間の精神mens humanaは,それ自体が思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisです。ところで,第二部公理三でスピノザがいいたかったのは,思惟の様態cogitandi modiとして第一のものは観念ideaであるということでした。したがって,人間の精神というのは有限個ではあったとしてもきわめて多くの観念によって組織されているのですが,そうして組織された精神もまたひとつの観念であるとみられなければなりません。ある観念と別の観念が組み合わさることによってひとつの観念が組織されるということは,もしかしたら分かりにくいかもしれません。ですが,ある物体corpusと別の物体が組み合わさってひとつの物体が組織されるというなら,これはさほど分かりにくくはないでしょう。ごく単純にいえば,コーヒーとミルクが組み合わさってミルクコーヒーが構成されるというような場合です。このとき,第二部定理七系によって,ミルクの観念もコーヒーの観念も,そしてミルクコーヒーの観念も,無限知性intellectus infinitusのうちにあるのです。よってミルクの観念とコーヒーの観念によって組織されたミルクコーヒーの観念は,それ自体がひとつの観念とみなされなければなりません。人間の精神というのもこれと同じように,しかしもっと複雑に構成されている,ひとつの観念であるとみなすことができるのです。実際にスピノザは人間の精神はその人間の身体の観念であるというのですから,人間の身体humanum corpusがきわめて多くの物体によって構成されているとはいえ,それ自体でひとつの物体とみなすことができるように,この身体の観念である精神もまた,きわめて多くの観念によって組織されているとはいっても,やはりひとつの観念であることになるのです。
 このとき,ひとつの観念とみなされる人間の精神が何らかの思惟作用をなすとき,この精神が十全な原因causa adaequataであるといわれる場合には,実はふたつの様式があるのです。そしてこの様式の差異が,そのまま第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisの差異となるのです。
 ひとつは,それ自体でひとつの観念とみなすことができる人間の精神が,十全な原因となって働くagere場合です。もうひとつは,精神というひとつの観念を構成しているある観念が十全な原因となって働く場合です。
コメント
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