大垣記念の決勝。並びは平原に佐藤,和田真久留‐和田健太郎の南関東,浅井‐北野の中部,古性‐村上の近畿で宮本は単騎。
スタートは取り合いの末に浅井が誘導の後ろを確保して前受け。3番手に古性,5番手に和田真久留,7番手に平原,最後尾に宮本で周回。残り3周のバックを過ぎると平原が上昇。佐藤の後ろに和田真久留がスイッチ。宮本は和田健太郎の後ろを追いました。ホームでこの5人の隊列で浅井を叩いて誘導が退避。すぐに和田真久留が上昇して平原を叩くと,宮本も上がって和田真久留の前に。バックでは古性が宮本を叩いて打鐘から先行。3番手に宮本,4番手に和田真久留,6番手に平原,8番手に浅井の一列棒状に。ホームから平原が踏み上げていきましたが,和田真久留と和田健太郎の車間が開いたところに入っていき,内から上昇していく形に。バックに入ると3番手の宮本が発進し,それを平原が追う形に。楽に捲り切った宮本とマークになった平原が3番手以下を引き離してマッチレース。うまく立ち回った宮本が追い込みを封じて優勝。平原が4分の3車身差で2着。古性マークの村上が5車身差で3着に流れ込みました。
優勝した山口の宮本隼輔選手は前々回出走の佐世保のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは実力では浅井と平原ですが,近況から好調とは思えなかったので,波乱の目も大いにありそうだと思えました。結果的に実力上位のふたりが後ろに置かれる展開に。それでも平原はうまく立ち回って宮本マークというところまではいったのですが,差すまでには至りませんでした。宮本は今年の1月にS級に特別昇級。5月に入って勝ち星を量産し始め,近況の好調さがこの結果に結び付いたという面もあったでしょう。ですがまだ24歳ですから,今後も相当に有望な選手だと思います。
各々の最高の満足を,スピノザがどの観点から導き出しているかを確認しておきます。

第四部定理五二で,理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoが最高の満足であるといわれるときに,スピノザがその根拠にしているのは第三部定義二と第三部定理三です。したがって,僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなっているとき,僕たちの精神は働いている,すなわち能動actioという状態にあるということと,この精神の能動は十全な観念idea adaequataから生じるということのふたつです。これについてはすでに検討したことですので,ここではこれ以上の説明はしません。理性による認識cognitioが十全な認識であるということと,それが精神の能動であることが重要であるということだけ押さえておけば十分です。
第五部定理二七で,第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足が最高の満足であるといわれるときは,第四部定理二八と第五部定理二五が根拠とされています。したがってここでは,最高の徳virtusは神Deusの認識であるということと,第三種の認識によって個物res singularisを認識するcognoscereほど神を認識するということが根拠になっています。これもすでに検討しましたから多くの説明は要さないでしょう。スピノザはここでは徳を満足と等置しているのです。
ここから分かるように,もし徳と満足とを明確に分離しようというのであれば,実際に最高の満足について述べているのは第四部定理五二で,第五部定理二七では満足ではなく徳について語られているとみるのが妥当です。これもすでに説明したように,第三種の認識による認識は必ず最高の徳ですが,理性による認識は徳ではあっても最高の徳ではない場合があるので,少なくとも第三種の認識による認識は最高の徳であることは間違いありません。基本的に僕はまずこの考え方をこの考察の出発点に据えます。このために事前に徳と満足との関係を検証しておいたのです。
ですが,だから第五部定理二七が,最高の満足について語り得ないということにはならないと僕は考えます。というのは,そもそもスピノザは第三種の認識が最高の徳であるということについては第五部定理二五でいっているのですから,ここではそれとは別のことをいわんとしていたことは間違いないからです。
スタートは取り合いの末に浅井が誘導の後ろを確保して前受け。3番手に古性,5番手に和田真久留,7番手に平原,最後尾に宮本で周回。残り3周のバックを過ぎると平原が上昇。佐藤の後ろに和田真久留がスイッチ。宮本は和田健太郎の後ろを追いました。ホームでこの5人の隊列で浅井を叩いて誘導が退避。すぐに和田真久留が上昇して平原を叩くと,宮本も上がって和田真久留の前に。バックでは古性が宮本を叩いて打鐘から先行。3番手に宮本,4番手に和田真久留,6番手に平原,8番手に浅井の一列棒状に。ホームから平原が踏み上げていきましたが,和田真久留と和田健太郎の車間が開いたところに入っていき,内から上昇していく形に。バックに入ると3番手の宮本が発進し,それを平原が追う形に。楽に捲り切った宮本とマークになった平原が3番手以下を引き離してマッチレース。うまく立ち回った宮本が追い込みを封じて優勝。平原が4分の3車身差で2着。古性マークの村上が5車身差で3着に流れ込みました。
優勝した山口の宮本隼輔選手は前々回出走の佐世保のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは実力では浅井と平原ですが,近況から好調とは思えなかったので,波乱の目も大いにありそうだと思えました。結果的に実力上位のふたりが後ろに置かれる展開に。それでも平原はうまく立ち回って宮本マークというところまではいったのですが,差すまでには至りませんでした。宮本は今年の1月にS級に特別昇級。5月に入って勝ち星を量産し始め,近況の好調さがこの結果に結び付いたという面もあったでしょう。ですがまだ24歳ですから,今後も相当に有望な選手だと思います。
各々の最高の満足を,スピノザがどの観点から導き出しているかを確認しておきます。

第四部定理五二で,理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoが最高の満足であるといわれるときに,スピノザがその根拠にしているのは第三部定義二と第三部定理三です。したがって,僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなっているとき,僕たちの精神は働いている,すなわち能動actioという状態にあるということと,この精神の能動は十全な観念idea adaequataから生じるということのふたつです。これについてはすでに検討したことですので,ここではこれ以上の説明はしません。理性による認識cognitioが十全な認識であるということと,それが精神の能動であることが重要であるということだけ押さえておけば十分です。
第五部定理二七で,第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足が最高の満足であるといわれるときは,第四部定理二八と第五部定理二五が根拠とされています。したがってここでは,最高の徳virtusは神Deusの認識であるということと,第三種の認識によって個物res singularisを認識するcognoscereほど神を認識するということが根拠になっています。これもすでに検討しましたから多くの説明は要さないでしょう。スピノザはここでは徳を満足と等置しているのです。
ここから分かるように,もし徳と満足とを明確に分離しようというのであれば,実際に最高の満足について述べているのは第四部定理五二で,第五部定理二七では満足ではなく徳について語られているとみるのが妥当です。これもすでに説明したように,第三種の認識による認識は必ず最高の徳ですが,理性による認識は徳ではあっても最高の徳ではない場合があるので,少なくとも第三種の認識による認識は最高の徳であることは間違いありません。基本的に僕はまずこの考え方をこの考察の出発点に据えます。このために事前に徳と満足との関係を検証しておいたのです。
ですが,だから第五部定理二七が,最高の満足について語り得ないということにはならないと僕は考えます。というのは,そもそもスピノザは第三種の認識が最高の徳であるということについては第五部定理二五でいっているのですから,ここではそれとは別のことをいわんとしていたことは間違いないからです。