『ドストエフスキイその生涯と作品』の第五章で埴谷雄高は,ドストエフスキーの作品における男女の関係の原型は平行四辺形であったといっています。これは分かりやすくいえば,三角形ではなく平行四辺形であるという意味です。小説に多くある恋愛の関係は,ひとりの人間をふたりの人間で奪い合うというものが多く,この関係が三角関係といわれるように,三角形です。基本的に夏目漱石の作品はこの三角形を構図としているといえるでしょう。それがドストエフスキーの場合は,ふたりの男とふたりの女という関係で描かれることが多く,これを埴谷は平行四辺形と形容したのです。ただしこれはあくまでも構図であって,そこに恋愛感情が存在するかどうかはあまり関係がありません。ドストエフスキーにとっての人間関係は,ひとりの人間を巡ってふたりの人間が争うという形ではなく,二対二という形であったというのが埴谷のいわんとしているところです。
『ドストエフスキイその生涯と作品』は論評であると同時に伝記でもあるので,埴谷はこのことをドストエフスキー自身の経験から説明しています。ただしこれは僕がいう作家論と作品論における作家論に該当するので,僕はあまり関心をもちません。ただ,人間関係の原型が三角形ではなく平行四辺形であるという点は,納得がいくものでした。
平行四辺形が最もよく表出しているのは,『白痴』におけるムイシュキンとロゴージン,そしてナスターシャとアグラーヤということになるでしょう。ですがこれは分かりやすい例なのであって,いわれてみればこの二対二という関係が,ドストエフスキーの作品にはわりと多くあるのです。『虐げられた人びと』も『白痴』と同様に分かりやすい例といえるかもしれません。また『悪霊』のスタヴローギンとマリヤの関係は,シャートフとダーシャを加えた平行四辺形というべきなのかもしれませんし,『カラマーゾフの兄弟』も,ドミートリーとイワンの関係は,カテリーナとグルーシェニカを加えた平行四辺形とみることができそうです。
これで,第五部定理二二でいわれている身体corpusの本性essentiaは,現実的に存在する個々の人間の身体humanum corpusの本性であることが分かります。他面からいえば,現実的に存在するどの人間にもその人間に固有の現実的本性actualis essentiaが存在することが分かります。このことは,この定理Propositioにおいてスピノザが人間の身体の本性を形容するときに,このとかかのといった語を用い,個別的に峻別しようとしていることだけを根拠とするのではないのです。
次に,この定理はそのような個々の人間の身体の本性が,神Deusの中にあり,かつそれは永遠の相species aeternitatisの下に表現されているといっています。このときに重要なのは,これが定理であって,証明されていることです。いい換えれば僕たちはこのことを,第二種の認識cognitio secundi generisによって理解する,理解し得るということです。したがってたとえば僕は,僕の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現するexprimere観念ideaが神の中にあるということを,理性ratioによって認識します。もちろんこのこともまた僕に特有のことではありません。第四部定理三五にあるように,人間は理性に従う限りで一致するのですから,現実的に存在するすべての人間は,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあることを理解するのです。少なくとも理解し得るのです。
ただし注意しなければならないのは,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあることを知ることと,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を知るということは別のことだということです。前者はすでに述べたように,僕たちにとって第二種の認識によって知ることができることです。しかし後者は,第二種の認識によっては認識し得ないことだし,かといって第三種の認識cognitio tertii generisによっても認識し得ないことなのです。人間が事物を十全に認識するcognoscereのは第二種の認識によってであるか第三種の認識によってであるかのどちらかです。したがってそれを第二種の認識でも第三種の認識でも認識し得ないとしたら,僕たちはそれを十全に認識することができないといわなければなりません。すなわち僕たちは,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識できません。
『ドストエフスキイその生涯と作品』は論評であると同時に伝記でもあるので,埴谷はこのことをドストエフスキー自身の経験から説明しています。ただしこれは僕がいう作家論と作品論における作家論に該当するので,僕はあまり関心をもちません。ただ,人間関係の原型が三角形ではなく平行四辺形であるという点は,納得がいくものでした。
平行四辺形が最もよく表出しているのは,『白痴』におけるムイシュキンとロゴージン,そしてナスターシャとアグラーヤということになるでしょう。ですがこれは分かりやすい例なのであって,いわれてみればこの二対二という関係が,ドストエフスキーの作品にはわりと多くあるのです。『虐げられた人びと』も『白痴』と同様に分かりやすい例といえるかもしれません。また『悪霊』のスタヴローギンとマリヤの関係は,シャートフとダーシャを加えた平行四辺形というべきなのかもしれませんし,『カラマーゾフの兄弟』も,ドミートリーとイワンの関係は,カテリーナとグルーシェニカを加えた平行四辺形とみることができそうです。
これで,第五部定理二二でいわれている身体corpusの本性essentiaは,現実的に存在する個々の人間の身体humanum corpusの本性であることが分かります。他面からいえば,現実的に存在するどの人間にもその人間に固有の現実的本性actualis essentiaが存在することが分かります。このことは,この定理Propositioにおいてスピノザが人間の身体の本性を形容するときに,このとかかのといった語を用い,個別的に峻別しようとしていることだけを根拠とするのではないのです。
次に,この定理はそのような個々の人間の身体の本性が,神Deusの中にあり,かつそれは永遠の相species aeternitatisの下に表現されているといっています。このときに重要なのは,これが定理であって,証明されていることです。いい換えれば僕たちはこのことを,第二種の認識cognitio secundi generisによって理解する,理解し得るということです。したがってたとえば僕は,僕の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現するexprimere観念ideaが神の中にあるということを,理性ratioによって認識します。もちろんこのこともまた僕に特有のことではありません。第四部定理三五にあるように,人間は理性に従う限りで一致するのですから,現実的に存在するすべての人間は,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあることを理解するのです。少なくとも理解し得るのです。
ただし注意しなければならないのは,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあることを知ることと,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を知るということは別のことだということです。前者はすでに述べたように,僕たちにとって第二種の認識によって知ることができることです。しかし後者は,第二種の認識によっては認識し得ないことだし,かといって第三種の認識cognitio tertii generisによっても認識し得ないことなのです。人間が事物を十全に認識するcognoscereのは第二種の認識によってであるか第三種の認識によってであるかのどちらかです。したがってそれを第二種の認識でも第三種の認識でも認識し得ないとしたら,僕たちはそれを十全に認識することができないといわなければなりません。すなわち僕たちは,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識できません。