昨日の小松島記念の決勝。並びは山崎‐和田の北日本,南‐渡辺の近畿,太田‐久米‐小倉の徳島で簗田と山田は単騎。
和田がスタートを取って山崎の前受け。3番手に太田,6番手に山田,7番手に南,最後尾に簗田で周回。残り2周のバックから南が上昇。簗田も続きました。コーナーでは太田に蓋をした南はホームに入ってからさらに上昇。山崎を叩き誘導を斬りました。続いた簗田が3番手,叩かれた山崎が4番手,切り替えた山田が6番手,引いた太田が7番手になって一列棒状。南はそのまま緩めずに打鐘。太田はホームから発進。南も抵抗しましたがバックで太田が前に。一旦は離れそうだった久米も何とか続き,小倉まで出きりました。山田,山崎と外から捲ってきましたが,これは太田のスピードに追い付けず,直線でも粘った太田が優勝。内を回って直線では太田と久米の間を突いた簗田が半車輪差で2着。太田マークの久米は8分の1車輪差で3着。
優勝した徳島の太田竜馬選手は2月の高松記念以来の優勝で記念競輪2勝目。このレースは自力型では太田と南の力が現状では上と思われました。ただ,場合によっては先行争いも考えられ,そうなればほかの選手にも勝機はでてくると見立てていました。結果的に南が太田を強く意識したようなレースをしたため,早い段階から全力で駆けていくことに。太田の位置を悪くしたのは南にとって成功でしたが,太田は積極的に巻き返していったことで,位置取りの悪さをカバーする形に。久米が完全に離れてしまっていれば苦しかったかもしれませんが,何とか食らいついたことで,太田もぎりぎりでしたが粘り込むことができました。久米にはチャンスがあった筈で,完全にマークしきれなかったのは悔いが残るところかもしれません。
スピノザの哲学における学知scientiaが,無限知性intellectus infinitusのうちにある観念ideaのすべてであるということは,認識cognitioのすべてが学知であるということを必ずしも意味するのではありません。第二部定理五は,観念の形相的有esse formaleの原因causaが神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumであるといっています。第一部公理四によれば,結果effectusの認識は原因の認識を含んでいなければなりません。そして第二部定理七系の意味により,神のうちにある観念はすべて十全adaequatumです。ですからこの点からみると,すべての認識は学知になります。ですが,第二部定理一一系によって無限知性の一部である人間の精神mens humanaは,無限知性の一部であるということを離れ,それ単独でみられる場合には,すべての事物を十全に認識するcognoscereわけではなく,混乱して認識する場合もあります。十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,真理veritasと虚偽falsitasの関係であると同時に有と無の関係ですから,混乱した観念というのは,それがたとえばある人間の知性のうちにあるものとしてだけみられるなら,他面からいえばその人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念とみられないのであれば,無です。よってこの認識は学知ではありません。
したがって,神が何事かを認識するといういい方をすれば,そのすべてが学知です。ですが現実的に存在する人間が何かを認識するということだけでみれば,そこには学知であるような認識もあれば,学知とはいえないような認識もあるわけです。たとえば第二部定理三八の様式である人間が共通概念notiones communesを認識するなら,この認識は学知です。しかし第二部定理一七の様式である人間が外部の物体corpusを表象するimaginari場合には,その観念は学知とはいえません。つまり,人間が何かを十全にあるいは同じことですが真に認識する場合は,そのすべての認識は学知です。しかし人間が何かを混乱してあるいは同じことですが誤って認識する場合には,そのすべての認識は学知とはいえないのです。
よって,人間が事物を混乱して認識する場合,つまり第一種の認識cognitio primi generisによって何かを認識するなら,それは学知ではありません。しかし第二種の認識cognitio secundi generisおよび第三種の認識cognitio tertii generisで認識するなら,それは学知というべきなのです。
和田がスタートを取って山崎の前受け。3番手に太田,6番手に山田,7番手に南,最後尾に簗田で周回。残り2周のバックから南が上昇。簗田も続きました。コーナーでは太田に蓋をした南はホームに入ってからさらに上昇。山崎を叩き誘導を斬りました。続いた簗田が3番手,叩かれた山崎が4番手,切り替えた山田が6番手,引いた太田が7番手になって一列棒状。南はそのまま緩めずに打鐘。太田はホームから発進。南も抵抗しましたがバックで太田が前に。一旦は離れそうだった久米も何とか続き,小倉まで出きりました。山田,山崎と外から捲ってきましたが,これは太田のスピードに追い付けず,直線でも粘った太田が優勝。内を回って直線では太田と久米の間を突いた簗田が半車輪差で2着。太田マークの久米は8分の1車輪差で3着。
優勝した徳島の太田竜馬選手は2月の高松記念以来の優勝で記念競輪2勝目。このレースは自力型では太田と南の力が現状では上と思われました。ただ,場合によっては先行争いも考えられ,そうなればほかの選手にも勝機はでてくると見立てていました。結果的に南が太田を強く意識したようなレースをしたため,早い段階から全力で駆けていくことに。太田の位置を悪くしたのは南にとって成功でしたが,太田は積極的に巻き返していったことで,位置取りの悪さをカバーする形に。久米が完全に離れてしまっていれば苦しかったかもしれませんが,何とか食らいついたことで,太田もぎりぎりでしたが粘り込むことができました。久米にはチャンスがあった筈で,完全にマークしきれなかったのは悔いが残るところかもしれません。
スピノザの哲学における学知scientiaが,無限知性intellectus infinitusのうちにある観念ideaのすべてであるということは,認識cognitioのすべてが学知であるということを必ずしも意味するのではありません。第二部定理五は,観念の形相的有esse formaleの原因causaが神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumであるといっています。第一部公理四によれば,結果effectusの認識は原因の認識を含んでいなければなりません。そして第二部定理七系の意味により,神のうちにある観念はすべて十全adaequatumです。ですからこの点からみると,すべての認識は学知になります。ですが,第二部定理一一系によって無限知性の一部である人間の精神mens humanaは,無限知性の一部であるということを離れ,それ単独でみられる場合には,すべての事物を十全に認識するcognoscereわけではなく,混乱して認識する場合もあります。十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,真理veritasと虚偽falsitasの関係であると同時に有と無の関係ですから,混乱した観念というのは,それがたとえばある人間の知性のうちにあるものとしてだけみられるなら,他面からいえばその人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念とみられないのであれば,無です。よってこの認識は学知ではありません。
したがって,神が何事かを認識するといういい方をすれば,そのすべてが学知です。ですが現実的に存在する人間が何かを認識するということだけでみれば,そこには学知であるような認識もあれば,学知とはいえないような認識もあるわけです。たとえば第二部定理三八の様式である人間が共通概念notiones communesを認識するなら,この認識は学知です。しかし第二部定理一七の様式である人間が外部の物体corpusを表象するimaginari場合には,その観念は学知とはいえません。つまり,人間が何かを十全にあるいは同じことですが真に認識する場合は,そのすべての認識は学知です。しかし人間が何かを混乱してあるいは同じことですが誤って認識する場合には,そのすべての認識は学知とはいえないのです。
よって,人間が事物を混乱して認識する場合,つまり第一種の認識cognitio primi generisによって何かを認識するなら,それは学知ではありません。しかし第二種の認識cognitio secundi generisおよび第三種の認識cognitio tertii generisで認識するなら,それは学知というべきなのです。