メイセイオペラ記念の第23回マーキュリーカップ。
グリム,ノーブルサターン,テルペリオン,コパノチャーリー,ロードゴラッソの5頭が前に。先手を取ったのはコパノチャーリー。2番手にテルペリオン。3番手にグリムとロードゴラッソ。5番手にノーブルサターンという並びになりました。大きく離れて6番手のスランジバール,7番手のチェリーピッカー,8番手のコミュニティの3頭は一団。また離れてコスモマイギフト,ムゲンノカノウセイと続き併走のレッドダニエルとセンティグレードの4頭も一団。離れてイッセイイチダイ。また離れた最後尾にデジタルフラッシュと,とても長い隊列。ミドルペースでした。
3コーナーを回るところでコパノチャーリー,テルペリオン,ロードゴラッソの3頭が雁行に。グリム,ノーブルサターンも離されずついていきました。コーナーの途中でコパノチャーリーは苦しくなり,直線では内からテルペリオン,ロードゴラッソ,グリム,ノーブルサターンの4頭が並んでの競り合いに。ここから抜け出したグリムが優勝。大外のノーブルサターンが2馬身差で2着。最内のテルペリオンが4分の3馬身差の3着でロードゴラッソは1馬身差で4着。5着以下とは大差がつきました。
優勝したグリムは前々走の名古屋大賞典以来の重賞4勝目。このメンバーでは明らかに実績上位でしたので,順当な優勝といえるでしょう。やや控えてのレースで結果を出したのは収穫といえそうです。ただトップクラスとはまだ少しの差がありそうに思えます。父はゼンノロブロイ。母の父はサクラバクシンオー。4代母がバーブスボールド。
騎乗した武豊騎手と管理している野中賢二調教師はマーキュリーカップ初勝利。
僕たちが自分の身体corpusの現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaを十全に認識するcognoscereことはできないということも,『エチカ』に示されています。したがってそのことを僕たちは,第二種の認識cognitio secundi generisによって知り得るのです。十全に認識し得ないということを知り得るというのは複雑ですが,何を知ることができて何を知ることができないのかは重要なことです。人間の精神mens humanaは有限なfinitum思惟の様態cogitandi modi,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisなので,無限に多くのinfinita事柄を十全に認識することができないということはそれ自体で明らかです。ですがそのうち,少なくともある事柄については十全に認識することができないということを知り得るとすれば,僕たちの精神が有限finitumであるといわれるときの有限性すなわち有限の限界の一端を知ることができるということを意味するからです。
このことを論証するために,すでに説明した次のことを前提としてください。それは,ある人間の身体humanum corpusが現実的に存在するならその人間の身体に固有の,つまりほかのだれでもないその人間の身体の現実的本性が存在するのであり,このときこの人間の身体の現実的存在はその人間の身体の現実的本性なしにはあることも考えるconcipereこともできず,逆にある人間の身体に固有の現実的本性はその人間の現実的存在なしにはあることも考えることもできないということです。このことから,ある人間が自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識するということと,ある人間が自分の身体の現実的存在を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識するということが同じであるということが分かるからです。
またこのことは,スピノザが定義Definitioの条件として示している事柄からも明らかです。すなわち事物の定義からはその事物から流出する特質proprietasのすべてが含まれていなければならず,このために定義には定義されるものの本性が含まれていなければなりません。一方で定義されるものと定義内容は一対一で対応し合わなければなりません。よって事物の本性と事物は一対一で対応し合うことになり,事物を十全に認識することとその事物の本性を十全に認識することは同じことを意味することになるからです。
グリム,ノーブルサターン,テルペリオン,コパノチャーリー,ロードゴラッソの5頭が前に。先手を取ったのはコパノチャーリー。2番手にテルペリオン。3番手にグリムとロードゴラッソ。5番手にノーブルサターンという並びになりました。大きく離れて6番手のスランジバール,7番手のチェリーピッカー,8番手のコミュニティの3頭は一団。また離れてコスモマイギフト,ムゲンノカノウセイと続き併走のレッドダニエルとセンティグレードの4頭も一団。離れてイッセイイチダイ。また離れた最後尾にデジタルフラッシュと,とても長い隊列。ミドルペースでした。
3コーナーを回るところでコパノチャーリー,テルペリオン,ロードゴラッソの3頭が雁行に。グリム,ノーブルサターンも離されずついていきました。コーナーの途中でコパノチャーリーは苦しくなり,直線では内からテルペリオン,ロードゴラッソ,グリム,ノーブルサターンの4頭が並んでの競り合いに。ここから抜け出したグリムが優勝。大外のノーブルサターンが2馬身差で2着。最内のテルペリオンが4分の3馬身差の3着でロードゴラッソは1馬身差で4着。5着以下とは大差がつきました。
優勝したグリムは前々走の名古屋大賞典以来の重賞4勝目。このメンバーでは明らかに実績上位でしたので,順当な優勝といえるでしょう。やや控えてのレースで結果を出したのは収穫といえそうです。ただトップクラスとはまだ少しの差がありそうに思えます。父はゼンノロブロイ。母の父はサクラバクシンオー。4代母がバーブスボールド。
騎乗した武豊騎手と管理している野中賢二調教師はマーキュリーカップ初勝利。
僕たちが自分の身体corpusの現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaを十全に認識するcognoscereことはできないということも,『エチカ』に示されています。したがってそのことを僕たちは,第二種の認識cognitio secundi generisによって知り得るのです。十全に認識し得ないということを知り得るというのは複雑ですが,何を知ることができて何を知ることができないのかは重要なことです。人間の精神mens humanaは有限なfinitum思惟の様態cogitandi modi,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisなので,無限に多くのinfinita事柄を十全に認識することができないということはそれ自体で明らかです。ですがそのうち,少なくともある事柄については十全に認識することができないということを知り得るとすれば,僕たちの精神が有限finitumであるといわれるときの有限性すなわち有限の限界の一端を知ることができるということを意味するからです。
このことを論証するために,すでに説明した次のことを前提としてください。それは,ある人間の身体humanum corpusが現実的に存在するならその人間の身体に固有の,つまりほかのだれでもないその人間の身体の現実的本性が存在するのであり,このときこの人間の身体の現実的存在はその人間の身体の現実的本性なしにはあることも考えるconcipereこともできず,逆にある人間の身体に固有の現実的本性はその人間の現実的存在なしにはあることも考えることもできないということです。このことから,ある人間が自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識するということと,ある人間が自分の身体の現実的存在を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識するということが同じであるということが分かるからです。
またこのことは,スピノザが定義Definitioの条件として示している事柄からも明らかです。すなわち事物の定義からはその事物から流出する特質proprietasのすべてが含まれていなければならず,このために定義には定義されるものの本性が含まれていなければなりません。一方で定義されるものと定義内容は一対一で対応し合わなければなりません。よって事物の本性と事物は一対一で対応し合うことになり,事物を十全に認識することとその事物の本性を十全に認識することは同じことを意味することになるからです。