スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

様態的区別&第四部定理五二の論拠

2019-07-24 19:18:29 | 哲学
 第一部定理四における区別distinguereの説明が『エチカ』ではやや不足しているというのが僕の現在の考え方です。つまり属性attributumの相違によって区別される場合が実在的区別で,変状affectioの相違によって区別される場合が様態的区別であるとそのまま解釈しない方がよいと僕は考えています。実在的区別をいかなる区別であると考えるべきなのかということについてはすでに説明しましたから,今度は様態的区別についても説明しておきます。
                                     
 第一部定理四は,説明が不足しているとはいえ,区別がふたつしかないという点は間違いありません。第一部公理一により,それ自身のうちにあるesse in seものすなわち実体substantiaと,ほかのもののうちにあるものすなわち実体の変状substantiae affectio以外には何も存在しないからです。ですから実体の属性の相違によって区別され得ないものは変状の相違によってしか区別することができません。ですから区別が実在的区別と様態的区別しかなければ,実在的に区別できないものは様態的に区別されるほかありません。つまり様態的区別とは,実在的区別に属さない区別のすべてです。
 もしAとBがあって,AとBが同一属性の様態modiである場合,AとBは様態的に区別されます。ただしこれはAとBが区別できることを前提としたものです。あるものと別のものは記号によっては区別することはできません。スピノザの哲学ではこの点は重要です。たとえAとBというように記号として区別されていても,実在的にも様態的にも区別できなければ,単に記号で区別されているにすぎず,AとBは同一のものです。
 ただし,AとBが思惟の様態cogitandi modiである場合は,条件が変わります。第二部公理三により,思惟の様態の第一のものは観念ideaです。このとき,Aの観念の対象ideatumとBの観念の対象が様態的に区別される場合,Aの観念とBの観念は様態的に区別されます。しかしAの観念の対象とBの観念の対象が実在的に区別される場合は,Aの観念とBの観念も実在的に区別されます。つまり観念については,それ自身の変状の相違,すなわち思惟の様態としてすべからく様態的に区別されるわけではなく,観念対象の区別の相違によって様態的にも実在的にも区別されることになるのです。

 第五部定理二七では第五部定理二五とは異なることをスピノザはいおうとしているということより僕にとって気になるのは,第四部定理五二の論拠としてスピノザが据えていることです。
 ここでは第三部定義二第三部定理三が論拠になっていました。すなわち,僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなるときに精神の能動actio Mentisが発生するということと,その精神の能動は十全な観念idea adaequataを原因とするということです。理性ratioによる認識cognitioの基礎は共通概念notiones communesで,共通概念は十全な観念ですから,これを論拠に理性から生じる自己満足acquiescentia in se ipsoが最高の満足であるということを論証することは可能です。しかしそれが可能であれば,第三種の認識cognitio tertii generisについても同じように論証することが可能なのです。
 第三種の認識の形相的原因formali causaは,第五部定理三一において,永遠aeternaである限りにおいての精神であるといわれています。僕たちの精神のうちにはその十全な観念はあることができません。しかしそれは確かに神Deusの中に永遠の相species aeternitatisの下に表現されているということは僕たちは理性によって認識するcognoscereことができます。すなわち現実的に存在する僕たちの精神が,永遠である限りでの精神でもあるということを僕たちは認識します。そしてその精神が第三種の認識の形相的原因であるということは,それ以外の原因を第三種の認識はもたないということであり,この精神が十全な原因であるということを意味します。そしてそれは僕たちが十全には認識できないとしても,神の中では十全な観念であるのです。よって第三種の認識は,僕たちの精神を十全な原因としているので精神の能動であり,かつそれは神の中には確実に表現されている十全な観念から発生していることになるでしょう。ですから,第四部定理五二のような論証によって理性による認識による自己満足が最高の満足であるといわれ得るなら,同じ論拠によって第三種の認識から生じる自己満足も最高の満足であるといわれなければなりません。ですからスピノザは第五部定理二七では,明らかに徳と満足を等置している,本来は等置することができないふたつの概念を等置していると僕は考えますが,第五部定理二七の内容は正しくなければならないと考えます。
コメント
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