スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ワンダーランドカップ&良心

2022-05-23 19:20:01 | 競輪
 昨日の宇都宮記念の決勝。並びは真杉‐金子‐吉田の栃木茨城,松浦‐小倉の中四国,中川‐中本‐坂本の九州で大槻は単騎。
 中本がスタートを取って中川の前受け。4番手に真杉,7番手に松浦,最後尾に大槻で周回。残り2周のバックの出口から松浦がゆっくりと上昇を開始。大槻も追走しました。松浦は中川を叩きにはいかず,真杉の外で併走。その隊列のまま打鐘。真杉を内に封じ込んだ松浦はそれからスピードを上げ,ペースを落としていた中川を叩きました。ここから外に出すことができた真杉の巻き返し。松浦は飛びつくことも想定していたようですが,バックでは吉田までの3人が前に。後方になった中川が捲りを打つと,真杉との車間を開けていた金子が牽制。金子の牽制で前が開いた吉田が直線で突き抜けて優勝。よい仕事をした金子が1車身半差の2着に続いて栃木茨城のワンツー。吉田を追うようなレースになった松浦が半車輪差で3着。牽制された中川は4分の1車輪差の4着まで。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は1月の立川記念以来の優勝。記念競輪は4勝目で宇都宮記念は初優勝。このレースは真杉の先行が有力。自力型の3人がラインを結成した栃木茨城勢が,脚力では上位の松浦および中川にどのように抵抗するのかというレース。中川の捲り脚は強烈で,何もなければおそらく捲って中川の中本の争いになっていたことでしょう。そういう意味では真杉との車間を開けて厳しく牽制した金子の役割が大きく,それが吉田の優勝に大きく貢献したといえるでしょう。吉田も松浦に競られそうなところで,きちんと3番手を確保したことで優勝をもぎ取りました。松浦の走行はやや中途半端だったかもしれません。

 フロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』の中で,良心について考察している事柄のうち,最も重要なのは,それがスピノザの哲学にマッチしているという点にあるのではありません。もちろんこれはこれで重要であることは間違いありません。フロムによれば良心というのは可能的なものとして人間に備わっているのではなく,現実的なものとして存在していたり存在していなかったりするようなあるものだということになり,おそらくスピノザも良心がそのようなものであるというであろうからです。スピノザは可能的知性intellectus potentiaを神Deusに対しても認めず,知性は常に現実的知性intellectus actuであるという主旨のことをいっていますが,良心についても同じことをいうことになるだろうと僕は考えています。
                                        
 それでももっと重要なのは,フロムがいう良心というのは,それ自体がある種の感情affectusであるという点です。いい換えればそれは,ある種の欲望cupiditasであるという点です。そしてそれが感情であるとすれば,上述の,可能的な良心などは存在せず,現実的良心だけが存在するということも,容易に理解することができるでしょう。なぜならたとえば可能的な愛amorというものが人間に備わっていて,あるときにはあるいはある人にはその愛に従って行動するけれども,別のときあるいは別の人には愛に従わないで行動するというようには僕たちはみなしません。ある人に対しては愛がある,愛という感情が生じるけれども,ある人に対しては愛はない,愛という感情は生じないというように僕たちはみなします。つまり可能的な愛などというものがあるのではなくて,現実的な愛だけがあるのです。良心もまたこれと同じようにみられるべきであって,あるときには良心はあるけれども,それとは別のあるときには良心はないというように把握されるべきなのです。つまり,良心というのが現実的なものであって可能的なものではないということも同時に帰結させるという点において,良心をそれ自体で感情の一種とみなしているという点が,フロムの考察の中で最も重要な点となるのです。スピノザは良心について積極的に語っているわけではありませんが,それを欲望の一種とみなすことを,強くは否定しないでしょう。
コメント
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