スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

施設整備等協賛競輪in青森&悲しみの原因

2022-05-02 20:56:15 | 競輪
 青森競輪場で行われた昨日の縄文小牧野杯の決勝。並びは嵯峨‐根本‐新山の北日本,吉田‐山岸‐中田‐武藤の関東,河端‐阿竹の中四国。
 嵯峨がスタートを取って前受け。4番手に河端,6番手に吉田で周回。残り3周のバックを出ると吉田が上昇を開始。しかしホームで嵯峨が突っ張り,周回中の隊列に戻りました。バックに入ってまた吉田が上昇。しかしここも打鐘から嵯峨が突っ張りました。吉田は外に浮く形となり,河端の外あたりでバックまで頑張りましたがそこで一杯となり不発。その吉田をどかすように河端が発進。根本は番手捲りを敢行しましたが,その外から捲り切った河端が優勝。マークの阿竹が1車身半差の2着に続いて中四国のワンツー。番手から捲った根本マークの新山が4分の3車身差で3着。
 優勝した岡山の河端朋之選手は昨年9月の防府のFⅠ以来の優勝。グレードレースは初優勝。このレースは嵯峨も吉田も先行意欲が高そうで,先行した方のラインが有利になるのではないかと思っていました。ただ当然ながら先行争いもあり得るところで,その場合は河端の一発もあるだろうと予想。競り合いの先行争いではありませんでしたが,前受けをした嵯峨が吉田を出させないために早めの突っ張り先行となったので,展開が河端に向きました。脚力はありますが持久力にはやや欠けている印象で,そのあたりが課題といえるでしょう。もっともここは日本選手権に出走しないメンバーでの争いで,通常のFⅠよりももしかしたら全体のレベルが低いGⅢだったかもしれません。

 前もっていっておいたように,受動感情とりわけ悲しみtristitiaに属する感情affectusが,理性ratioに従う人と同じような行動へと人を誘う場合には,ある条件が『スピノザ〈触発の思考〉』では設定されています。実はそのことは,悲しみの積極性といくらかの関係を有しています。僕の方からその点を説明しておきましょう。
                                   
 スピノザの哲学において,喜びlaetitiaが肯定され悲しみが否定される理由のひとつに,喜びは人間の現実的本性actualis essentiaに即した感情であるのに対し,悲しみは人間の現実的本性に反する感情であるということがありました。このことから,人間は悲しみは忌避し,喜びは希求することになります。他面からいえば,現実的に存在する人間の欲望cupiditasは,喜びを希求することと悲しみを忌避することへ向かうのです。これは第三部定理二八から明らかだといえます。悲しみを忌避しようとすること,あるいは悲しみを感じたならそれを除去しようとすることは,悲しみの積極性のひとつと解してもよいでしょうから,これは悲しみの積極性といくらか関係を有していると僕はいったのです。
 ここから容易に理解できるように,もしも自分の悲しみの原因causaが他人の悲しみにあると表象した場合,その人はその他人の悲しみを除去しようとするでしょう。自分の悲しみが他人の悲しみを原因としているのであれば,悲しみを感じている人間は自分の悲しみを除去しようとするのですから,その悲しみの原因となっている他人の悲しみを除去しようとするからです。このとき,その行動は,理性に従っている人の行動と重なるのです。理性に従う人は,能動的に他人の悲しみを除去しようとするのに対し,他人の悲しみが自分の悲しみの原因となっている人は,受動的に他人の悲しみを除去しようとするのです。あるいは同じことですが,理性に従う人は能動的に敬虔pietasであるのに対し,自分の悲しみの原因が他人の悲しみの原因であると表象するimaginari人は,受動的に敬虔になるのです。
 他人の悲しみが自分の悲しみの原因となるということは,フラットな状況でも現実的に存在する人間には生じ得ます。これは第三部定理二七でいわれている種類の感情の模倣affectum imitatioが,現実的に存在する人間には生じるからです。
コメント
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