スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大成建設杯清麗戦&第四部定理二〇

2022-05-24 19:02:39 | 将棋
 昨日の第4期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流四冠が18勝,西山朋佳白玲・女王が18勝。これは叡王戦とNHK杯での対戦を含んでいます。
 振駒で西山白玲・女王の先手で三間飛車から向飛車。後手の里見女流四冠はなかなか態度を明らかにしませんでしたが,三間飛車にしての相振飛車。序盤で差がついてしまう将棋でした。
                                        
 先手はここで☗8六角と上がりましたが,これが敗着に近い手に。後手がすぐに☖5五歩と仕掛けたのが機敏でした。先手は一旦は☗5八飛と受けて☖5二飛に☗7七桂と跳ねました。これが狙いの手だったようですが☖6四歩で継続の手段が難しかったようです。
                                        
 このまま戦いに入ってしまうと陣形の差で後手が有利。なので先手はこの形を狙いにするのであれば,もっとしっかりと玉を囲っておくべきだったということになるでしょう。
 里見四冠が挑戦権を獲得。第3期に失ったタイトルへの挑戦。第一局は7月8日に指される予定です。

 良心の呵責を巡る諸々の探求はこれで終了です。今日からは別の考察です。
 『スピノザ〈触発の思考〉』の第2章はシュトラウスLeo Straussを主軸とした論考ですが,僕はここではシュトラウスについては何も語りません。この章の中で,コナトゥスconatusと徳virtusの関連性が触れられていますので,そのことを考察します。
 スピノザは第四部定理二〇で次のようにいっています。
 「各人は自己の利益を追求することに,言いかえれば自己の有を維持することに,より多く努めかつより多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である。また反対に,各人は自己の利益を,言いかえれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である」。
 この定理Propositioは,現実的に存在する人間が自己の利益を追求すると有徳であるといわれ,それを放棄すると有徳的ではないといっています。浅野によれば,シュトラウスはその点に対して批判的だそうです。もしスピノザのいう通りであるとすれば,徳というのは諸個人が自己の利益を追求するように生きることを意味することになるので,各人の利益が対立する限りでは各人が対立的であることになります。よって社会的な観点からみれば,徳というのがプラスになるとは限りません。というか,マイナスに働く可能性の方が高いでしょう。なのでこの定理に対して批判があり得るということは理解することができるのではないかと思います。なので僕はなぜスピノザがそこのようなことをいうのかということを詳しく説明することにします。実際のところシュトラウスがしている批判,正確にいえば浅野によればシュトラウスがしているというその批判は,見当違いのものです、なぜ見当違いであるのかということも僕の説明によって理解できるでしょう。
 まず最初に留意しておかなければならないのは,スピノザは徳というのを,いわゆる道徳のようなものとは考えていないことという点です。第四部定義八から理解できるように,スピノザは徳を力potentiamと等置します。ここでいう力というのは能動actioのことです。それは定義Definitioの全文から明白だといえるでしょう。なので徳の反対は無力impotentiaであって,第四部定理二〇は有徳と無力が対置されているのです。
コメント
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