昨日の第15期マイナビ女子オープン五番勝負第四局。
西山朋佳女王の先手で三間飛車。すぐに自ら角を交換して,角交換型の相向飛車に進展しました。後手の里見香奈女流四冠から仕掛けていく将棋で,一旦はよくなったように思えるのですが,踏み込みを欠くところがあり,ここのところ西山女王が連続して採用している玉型が生きる展開に。

第1図は先手玉の左側が広いのですでに有利。どのように攻めていくのかというところですが,一気に決めました。
まず☗2二歩☖同飛で後手の飛車の位置を変えます。そして☗3一角の飛車取り。☖3二飛に☗6四桂と打つのが強烈な一手。☖6二玉は☗4一銀と打たれてしまうので☖同歩の一手ですが,☗同角成が詰めろとなり,大勢が決しました。

この後,打った駒を取られるポカが出て投了となりましたが,第2図で将棋は決まっていますので,勝敗に影響したわけではありません。
西山女王が勝って2勝2敗。第五局は来月13日に指される予定です。
シュトラウスLeo Straussが抱いたであろう疑問のうち,最初のものについては,スピノザがどう考えるか分かりませんが,僕は強く否定しません。それは以下の事情によります。
一般に,現実的に存在する人間が何事かをなすと仮定して,そのことをXと命名したとしましょう。このとき,もしXが,現実的に存在する人間にとってなし得ないことであるなら,つまりそれが現実的に存在する人間にとって不可能であるなら,そのことをXということ自体が無意味であるといえます。しかしそうでなく,それがどれほど困難なことであったとしても,現実的に存在する人間にとってなし得ることであるなら,つまり現実的に存在する人間にとって不可能なことではないなら,それをXということには意味があると僕は考えます。むしろこの場合,人間がなすそのことを,Xというべきであると考えられる場合は,そのことを積極的にXというべきであると僕は考えるのです。
『人間における自由Man for Himself』でフロムErich Seligmann Frommは,多くの人びとにおいては良心の声がきわめて弱く,それを聞くことができないので,良心が働くこともないといっていて,それを良心の性質に帰していました。しかしこれは,現実的に存在する人間は良心の声を聞くことができず,したがって良心が働くということもないということを意味しているわけではありません。確かに良心というものの性質自体が,その声を聞いたり,またそれを聞くことによって良心が働いたりすることを,現実的に存在する人間に対して極度に困難にしているとフロムは考えているといえますが,だからといって良心の声を聞いてそれを働かせることが不可能だといっているわけではないからです。なので,もしフロムがそういう性質を有するもののことを良心というべきであると考えるなら,そうした性質のことを良心というべきであると僕は考えるのです。それが存在する人間にとって困難であるか容易であるかということと,それを良心というべきか否かということとに間には,何の関係もないと僕は思うからです。他面からいえば,だれでも容易にそれを聞き,それを働かせることができる性質を,良心といわなければならない理由はないからです。
西山朋佳女王の先手で三間飛車。すぐに自ら角を交換して,角交換型の相向飛車に進展しました。後手の里見香奈女流四冠から仕掛けていく将棋で,一旦はよくなったように思えるのですが,踏み込みを欠くところがあり,ここのところ西山女王が連続して採用している玉型が生きる展開に。

第1図は先手玉の左側が広いのですでに有利。どのように攻めていくのかというところですが,一気に決めました。
まず☗2二歩☖同飛で後手の飛車の位置を変えます。そして☗3一角の飛車取り。☖3二飛に☗6四桂と打つのが強烈な一手。☖6二玉は☗4一銀と打たれてしまうので☖同歩の一手ですが,☗同角成が詰めろとなり,大勢が決しました。

この後,打った駒を取られるポカが出て投了となりましたが,第2図で将棋は決まっていますので,勝敗に影響したわけではありません。
西山女王が勝って2勝2敗。第五局は来月13日に指される予定です。
シュトラウスLeo Straussが抱いたであろう疑問のうち,最初のものについては,スピノザがどう考えるか分かりませんが,僕は強く否定しません。それは以下の事情によります。
一般に,現実的に存在する人間が何事かをなすと仮定して,そのことをXと命名したとしましょう。このとき,もしXが,現実的に存在する人間にとってなし得ないことであるなら,つまりそれが現実的に存在する人間にとって不可能であるなら,そのことをXということ自体が無意味であるといえます。しかしそうでなく,それがどれほど困難なことであったとしても,現実的に存在する人間にとってなし得ることであるなら,つまり現実的に存在する人間にとって不可能なことではないなら,それをXということには意味があると僕は考えます。むしろこの場合,人間がなすそのことを,Xというべきであると考えられる場合は,そのことを積極的にXというべきであると僕は考えるのです。
『人間における自由Man for Himself』でフロムErich Seligmann Frommは,多くの人びとにおいては良心の声がきわめて弱く,それを聞くことができないので,良心が働くこともないといっていて,それを良心の性質に帰していました。しかしこれは,現実的に存在する人間は良心の声を聞くことができず,したがって良心が働くということもないということを意味しているわけではありません。確かに良心というものの性質自体が,その声を聞いたり,またそれを聞くことによって良心が働いたりすることを,現実的に存在する人間に対して極度に困難にしているとフロムは考えているといえますが,だからといって良心の声を聞いてそれを働かせることが不可能だといっているわけではないからです。なので,もしフロムがそういう性質を有するもののことを良心というべきであると考えるなら,そうした性質のことを良心というべきであると僕は考えるのです。それが存在する人間にとって困難であるか容易であるかということと,それを良心というべきか否かということとに間には,何の関係もないと僕は思うからです。他面からいえば,だれでも容易にそれを聞き,それを働かせることができる性質を,良心といわなければならない理由はないからです。