8日にいわき平競輪場で争われた第76回日本選手権競輪の決勝。並びは真杉‐平原の関東に佐藤,脇本‐古性‐東口の近畿,清水‐荒井の西国で守沢は単騎。
若干の牽制が入りましたが,古性と脇本がスタートを取りにいき,脇本の前受け。4番手に清水,6番手に真杉,最後尾に守沢の隊列。守沢は結果的にこのラインを追走するレースになりました。残り3周のバックの出口から真杉が上昇開始。脇本はペースを落として誘導との車間を開けたので,残り2周のホームの入口では真杉が前に。守沢の後ろに清水がスイッチしたので,脇本が7番手になっての一列棒状に。バックまで誘導を使った真杉が打鐘前から発進。脇本は残り1周のホームから発進しました。バックでは脇本に合わせて清水が発進。さらに平原も番手捲り。脇本は外を回る形になったので古性がマークしきれず,さらに佐藤の牽制もあったために単騎となりましたが,直線の入口までに清水と平原を捲り切りました。そのまま直線はさらに差を広げた脇本が優勝。2着は番手捲りの平原と平原マークの佐藤,平原と佐藤の間を突いた守沢で接戦。外からうまく守沢の勢いを殺した佐藤が1車身半差で2着。守沢が4分の1車輪差の3着で平原が4分の1車輪差で4着。

優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。グレードレースは3月の玉野記念以来。ビッグは一昨年の寛仁親王牌以来で7勝目。GⅠは6勝目で日本選手権は2019年以来の2勝目。2018年のオールスター競輪を当地で制しています。このレースは真杉の先行が有力。ただ真杉の先行で平原の番手捲りであれば,脇本が乗り越えることができるのではないかとみていました。清水にも発進されて楽ではありませんでしたが,見事に捲り切りましたので,これが現状の力量だとみていいでしょう。今年は競輪に専念しますので,大きな活躍が見込めるものと思います。
僕が定義した良心の呵責conscientiae morsusは,第三部諸感情の定義二七の後悔poenitentiaの類似感情です。自由な決意decretumによってなしたかどうかとは関係ないとはいえ,自分のなした行為の観念ideaを伴った悲しみtristitiaである点では,一致するからです。そしてこの後悔は,自己満足acquiescentia in se ipsoの反対感情なのです。厳密にいうと,スピノザは自己満足の反対感情はふたつあるといっていて,ひとつは第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasで,もうひとつが後悔なのですが,それは自己満足をどのような観点からみるのかということによって相違してきます。したがって,後悔が自己満足の反対感情であるという点は間違いありません。よって良心の呵責が後悔の類似感情である限り,スピノザの哲学の文脈では,この種の良心の呵責の反対感情は自己満足であることになるのです。
スピノザは,自己満足は喜びlaetitiaであるとしても,全面的に推奨はしません。このことはスピノザが自己満足と自己愛philautiaを分けて記述しているということから明白です。スピノザがいう自己愛は,第三部諸感情の定義二五の感情affectusにほかなりません。このときスピノザは,推奨することができるような自己満足については自己満足というのに対し,推奨することができないような自己満足については,自己満足とはいわずに自己愛というのです。これは必ずそうなっているというわけではないかもしれませんが,基本的にスピノザはこのラインで自己満足と自己愛を使い分けていると理解して間違いありません。たとえば高慢superbiaは自己満足の一種ですが,スピノザの分類でいえば,高慢は自己満足ではなく自己愛であるということになるのです。これに対して理性ratioから生じる自己満足は,人間が得ることができる最高の喜びであるといっても差し支えなく,こうした自己満足は確かに自己満足であり,自己愛ではないということになります。
したがって,この種の良心の呵責の反対感情を歓喜gaudiumというとするなら,歓喜は自己満足の一種になるのですが,それは自己愛の一種でもあり得るのです。そしてもしも自己愛の一種であるような歓喜は推奨され得ないことになるでしょう。逆に,もしもそれが自己愛ではない自己満足の一種であるときは,その歓喜は推奨されます。
若干の牽制が入りましたが,古性と脇本がスタートを取りにいき,脇本の前受け。4番手に清水,6番手に真杉,最後尾に守沢の隊列。守沢は結果的にこのラインを追走するレースになりました。残り3周のバックの出口から真杉が上昇開始。脇本はペースを落として誘導との車間を開けたので,残り2周のホームの入口では真杉が前に。守沢の後ろに清水がスイッチしたので,脇本が7番手になっての一列棒状に。バックまで誘導を使った真杉が打鐘前から発進。脇本は残り1周のホームから発進しました。バックでは脇本に合わせて清水が発進。さらに平原も番手捲り。脇本は外を回る形になったので古性がマークしきれず,さらに佐藤の牽制もあったために単騎となりましたが,直線の入口までに清水と平原を捲り切りました。そのまま直線はさらに差を広げた脇本が優勝。2着は番手捲りの平原と平原マークの佐藤,平原と佐藤の間を突いた守沢で接戦。外からうまく守沢の勢いを殺した佐藤が1車身半差で2着。守沢が4分の1車輪差の3着で平原が4分の1車輪差で4着。

優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。グレードレースは3月の玉野記念以来。ビッグは一昨年の寛仁親王牌以来で7勝目。GⅠは6勝目で日本選手権は2019年以来の2勝目。2018年のオールスター競輪を当地で制しています。このレースは真杉の先行が有力。ただ真杉の先行で平原の番手捲りであれば,脇本が乗り越えることができるのではないかとみていました。清水にも発進されて楽ではありませんでしたが,見事に捲り切りましたので,これが現状の力量だとみていいでしょう。今年は競輪に専念しますので,大きな活躍が見込めるものと思います。
僕が定義した良心の呵責conscientiae morsusは,第三部諸感情の定義二七の後悔poenitentiaの類似感情です。自由な決意decretumによってなしたかどうかとは関係ないとはいえ,自分のなした行為の観念ideaを伴った悲しみtristitiaである点では,一致するからです。そしてこの後悔は,自己満足acquiescentia in se ipsoの反対感情なのです。厳密にいうと,スピノザは自己満足の反対感情はふたつあるといっていて,ひとつは第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasで,もうひとつが後悔なのですが,それは自己満足をどのような観点からみるのかということによって相違してきます。したがって,後悔が自己満足の反対感情であるという点は間違いありません。よって良心の呵責が後悔の類似感情である限り,スピノザの哲学の文脈では,この種の良心の呵責の反対感情は自己満足であることになるのです。
スピノザは,自己満足は喜びlaetitiaであるとしても,全面的に推奨はしません。このことはスピノザが自己満足と自己愛philautiaを分けて記述しているということから明白です。スピノザがいう自己愛は,第三部諸感情の定義二五の感情affectusにほかなりません。このときスピノザは,推奨することができるような自己満足については自己満足というのに対し,推奨することができないような自己満足については,自己満足とはいわずに自己愛というのです。これは必ずそうなっているというわけではないかもしれませんが,基本的にスピノザはこのラインで自己満足と自己愛を使い分けていると理解して間違いありません。たとえば高慢superbiaは自己満足の一種ですが,スピノザの分類でいえば,高慢は自己満足ではなく自己愛であるということになるのです。これに対して理性ratioから生じる自己満足は,人間が得ることができる最高の喜びであるといっても差し支えなく,こうした自己満足は確かに自己満足であり,自己愛ではないということになります。
したがって,この種の良心の呵責の反対感情を歓喜gaudiumというとするなら,歓喜は自己満足の一種になるのですが,それは自己愛の一種でもあり得るのです。そしてもしも自己愛の一種であるような歓喜は推奨され得ないことになるでしょう。逆に,もしもそれが自己愛ではない自己満足の一種であるときは,その歓喜は推奨されます。