スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&第四部定理二〇証明

2022-05-25 19:38:49 | 将棋
 柏の葉カンファレンスホールで指された昨日の第7期叡王戦五番勝負第三局。
 藤井聡太叡王の先手で相掛り。中盤まではほぼ互角。終盤に入って先手が優位を得たようですが,1分将棋に入ってからミスが出て,後手の出口若武六段にも瞬間的にチャンスが訪れていました。
                                        
 第1図で☖4二銀と受け,☗2二龍に☖8八角と詰めろを掛けましたが☗3五桂で後手玉が即詰みに討ち取られることとなりました。
                                        
 第1図では☖4二角と受ける手が最善で,それに対して☗2二龍は☖8六角と王手をする手があります。逃げると詰みなので7七に合駒をすることになりますが,それだと後手玉が詰まないので攻め合って後手の勝ちです。よって☖4二角には☗同龍と取ることになりそうですが,その攻め合いは後手に分があったようです。また,第1図で☖7五角と打つと後手玉が詰んでしまうのですが,☖5八金☗7九王とすれば,後手玉が5七に逃げることができるようになって詰みません。そこで☖7五角は詰めろ龍取りで,その順も後手にとって有力でした。
 3連勝で藤井叡王が防衛第6期に続く連覇で2期目の叡王となります。

 浅野によれば,シュトラウスLeo Straussは自身が忠実なユダヤ教徒であるということを公言していたそうです。そのことがシュトラウスのスピノザに対する批判に影響しているのかもしれません。ただそういうこととは関係なく,スピノザがいう徳virtusが,人間の力potentiaであるということ,あるいは同じことですが,人間の能動actioであるということには十分に気を付けておかなければなりません。たとえば僕たちは徳を積むというようないい方を日常的にすることがありますが,それは善行をするというようなことを意味するのであって,人間が能動的に何かをなすということを意味するわけではないからです。
 次に注意しておかなければならないのは,第四部定理二〇で自己の有esseを維持するというとき,それは人間の現実的本性actualis essentiaを意味しているという点です。このことは第三部定理七から明白だといえます。この定理Propositio自体は人間に限定された定理ではありませんが,人間についても妥当するということはいうまでもありません。一方でこのことは各人が利益を追求するということと等置されているわけですから,スピノザはそもそも人間が利益を追求するということが,人間の現実的本性であるとみていると解さなければなりません。他面からいえば,自己の有を維持するということが自己の利益を追求するということなのであって,自己の有を維持しないとすれば,それは自己の利益を追求していないということになるのです。したがって,利益を追求するということを,たとえば金銭的な利益を追求するというような意味に限定して解してはいけません。この点にも注意しておかなければなりません。
 このふたつの注意点から,第四部定理二〇がなぜ帰結するのかということだけは容易に理解することができるでしょう。スピノザがいう徳というのは第四部定義八によって,人間の能動を意味しますが,それは能動的な限りにおける人間の現実的本性です。そして第三部定理七によって,その現実的本性は自己の有を維持すること,つまり自己の利益を追求することなのです。なので自己の利益を追求するならそれは有徳的であることになり,逆に自己の利益を放棄するなら無力impotentiaあるいは不徳なのです。
コメント
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