スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&徳と敬虔

2022-05-27 19:25:28 | 将棋
 25日に旧伊藤伝右衛門邸で指された第33期女流王位戦五番勝負第三局。
 西山朋佳白玲・女王の先手で三間飛車から向飛車。後手の里見香奈女流王位はなかなか態度を明確にせず,居飛車で居玉のまま仕掛けていく将棋になりました。
                                        
 第1図から先手は☗8五歩☖同歩と突き捨てて☗6五歩と取りました。☖同桂が角と金の両取りになってしまうのですが☗9五角が王手。☖4二王に☗6六金と逃げて大丈夫とみていたようです。
 しかしこれには☖5六歩☗同銀に☖4五銀と出る強手がありました。
                                        
 第2図となってしまうと大差で,あとは一方的に後手が攻め倒す将棋に。第1図で仕掛けていくのは無理で,もう少し慎重に駒組を進めなければいけなかったようです。
 里見女流王位が勝って2勝1敗。第四局は来月7日に指される予定です。

 Aという人間が現実的に存在して,このAがXという行為をなしたとします。そしてそのためにAが有徳的であるといわれ得ると仮定しましょう。同じようにBという人間が現実的に存在していて,BもXという行為をなしたと仮定します。このとき,BもAと同じように有徳的であるといわれ得るかといえば,必ずしもそうではありません。むしろBのなしたXという行為はBの無力impotentiaを示す,あるいは同じことですがBの不徳を表すという場合もあり得るのです。なぜなら,第四部定義八によれば,徳virtutemは現実的に存在する人間の力potentiam,いい換えれば能動actioのことを意味するのであって,働きを受けている限りでは人間が有徳的であるということはあり得ないからです。第四部定理二〇は,自己の利益を追求することと自己の利益を放棄することを比べて,前者が有徳的であり後者は無力であるといっているのですが,実際にそのことが意味しているのは,自己の利益を追求するということは人間の能動であり,自己の利益を放棄するとは人間の受動passioへの隷属であるということなのです。これがこの定理Propositioを解釈する上での注意点のふたつめになります。Aが能動的にXという行為をなすがゆえに有徳的であるといわれているのに対して,もしもBが働きを受けるpatiことによってXという行為をなしているなら,Bは有徳的であるとはいわれ得ず,むしろ無力であるとか不徳であるといわれなければならないのです。
 これは,少し前に考察した,スピノザは何をもって敬虔pietasといい,何をもって不敬虔impietasというのかということとの対比で考えれば分かりやすいでしょう。スピノザは敬虔と不敬虔については,態度や振る舞いすなわち行為によって分節するのです。したがって,Aが能動的にXという行為をなすなら,なされたその行為によってAは敬虔であるといわれます。一方,Bが働きを受けることによってXという行為をなした場合にも,Bは不敬虔とはいわれずに敬虔といわれるのです。人間が能動的になすすべての行為は敬虔であり,それと同じ行為は受動的になされても敬虔であるからです。しかしこの場合,Aは敬虔でありかつ有徳的ですが,Bは敬虔ではあっても有徳的ではないのです。
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