谷川の辞任が突然のことであったため,佐藤の新会長の就任も突然の事態ではあったものの,それは既定路線から外れるものではありませんでした。そのときに被害者であった三浦が,佐藤の就任を許容した,もっといえば好ましいこととも受け取れるような表現で発言したのも,谷川が辞任する決意を固めた時点で,おおよその流れが将棋連盟の中で決定していた,個々の棋士の胸の内で決定していたということを証しするひとつの事実であったのかもしれません。

これ以降は現在まで佐藤が会長を続けているわけですが,河口が記したような棋士間での評価というのは,現在でもあまり変わっていないようです。今期の叡王戦の第一局について解説したコラムの中で勝又清和は,将棋連盟の現況は佐藤のおかげというようないい方をしていますし,先崎学も先日のtweetで,棋士一同が佐藤に感謝しているというようなことを呟いています。僕は将棋連盟の現況を佐藤ひとりのおかげであるということはできないだろうと思っていますし,とりわけ藤井聡太の出現という強い追い風なしにそれを語ることはできないだろうとも思っていますが,女流棋戦の増設やスポンサーの増加はともかく,将棋会館の移転という長年にわたっての大きな課題に目途を立てたのですから,棋士の間での佐藤の評価が概ね変わっていないであろうことは,容易に推測できますし,むしろその評価が高まっていたとしてもおかしくはないだろうと思います。
一方で,だから大きな課題が残っているとも思うのです。いうまでもなくそれは,佐藤の後継者はだれになるのかということです。米長から谷川,そして谷川から佐藤というのは,既定路線であったわけです。しかし佐藤の次の会長に関しては,既定といえるような路線が定まっているようには僕には思えないのです。もちろん佐藤は予定していたよりも早くに会長に就任したのですから,予定よりも長きにわたって会長を務めることになるのだろうと推測されます。とはいえ谷川の辞任が突然であったように,予期せぬことが起こる可能性は0ではないのです。早期に佐藤の後継者を育成するということがは,実は今の将棋連盟の最大の課題なのではないでしょうか。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で具体的に示されている例を用いるなら,理性ratioに従って神Deusを愛しまた隣人を愛する者は敬虔pietasです。これと同様に,聖書の教えに従って神を愛しまた隣人を愛する人も敬虔です。しかし,徳virtusという観点からみるならこうはいえません。理性に従って神を愛しまた隣人を愛する者は有徳的であることになりますが,聖書に従って神を愛しまた隣人を愛する者は,有徳的であるとはいわれ得ず,無力impotentiaであるといわれなければならないのです。
なお,こうしたことをいうためには,現実的に存在する人間は,能動actioによっても受動passioによっても同じ行為をするに至る場合があるということが成立しなければなりません。これについては第四部定理五九を参照すれば十分でしょう。この定理Propositioは,現実的に存在する人間が能動によってなすすべての行動を,受動によってもなすことがあるということを示すものではありません。しかし,受動感情によって決定されるすべての行動は,理性に従っても決定され得るのであれば,少なくとも受動によっても能動によっても同じ行動に決定される場合があることは明白でしょう。そしてその場合に,その行動が能動によって決定されるのであれば有徳的であるといわれ,受動によって決定されている場合は無力であるといわれるのです。
ふたつめの解釈上の注意点は以上になります。もうひとつありますので,そちらの説明に移ります。
現実的に存在する人間の身体humanum corpusの状況について,第四部定理二〇は,身体が健康であるなら有徳的で,身体が何らかの病気に罹患しているなら無力であるといっているというように解する余地があると思います。何らかの病気に罹患している身体は,自己の有を維持することを放棄している身体であって,健康である身体は,それに対していえば自己の有を維持することに努めている身体であるとみることができるからです。ですがこの定理が示しているのはそのようなことではありません。つまりスピノザがここでそのようなことをいっているのではないという点に,解釈上の注意を要すると僕は考えています。
第三部定理六により,現実的に存在するどのようなものも,自己の有を維持することには努めますsuo esse perseverare conatur。

これ以降は現在まで佐藤が会長を続けているわけですが,河口が記したような棋士間での評価というのは,現在でもあまり変わっていないようです。今期の叡王戦の第一局について解説したコラムの中で勝又清和は,将棋連盟の現況は佐藤のおかげというようないい方をしていますし,先崎学も先日のtweetで,棋士一同が佐藤に感謝しているというようなことを呟いています。僕は将棋連盟の現況を佐藤ひとりのおかげであるということはできないだろうと思っていますし,とりわけ藤井聡太の出現という強い追い風なしにそれを語ることはできないだろうとも思っていますが,女流棋戦の増設やスポンサーの増加はともかく,将棋会館の移転という長年にわたっての大きな課題に目途を立てたのですから,棋士の間での佐藤の評価が概ね変わっていないであろうことは,容易に推測できますし,むしろその評価が高まっていたとしてもおかしくはないだろうと思います。
一方で,だから大きな課題が残っているとも思うのです。いうまでもなくそれは,佐藤の後継者はだれになるのかということです。米長から谷川,そして谷川から佐藤というのは,既定路線であったわけです。しかし佐藤の次の会長に関しては,既定といえるような路線が定まっているようには僕には思えないのです。もちろん佐藤は予定していたよりも早くに会長に就任したのですから,予定よりも長きにわたって会長を務めることになるのだろうと推測されます。とはいえ谷川の辞任が突然であったように,予期せぬことが起こる可能性は0ではないのです。早期に佐藤の後継者を育成するということがは,実は今の将棋連盟の最大の課題なのではないでしょうか。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で具体的に示されている例を用いるなら,理性ratioに従って神Deusを愛しまた隣人を愛する者は敬虔pietasです。これと同様に,聖書の教えに従って神を愛しまた隣人を愛する人も敬虔です。しかし,徳virtusという観点からみるならこうはいえません。理性に従って神を愛しまた隣人を愛する者は有徳的であることになりますが,聖書に従って神を愛しまた隣人を愛する者は,有徳的であるとはいわれ得ず,無力impotentiaであるといわれなければならないのです。
なお,こうしたことをいうためには,現実的に存在する人間は,能動actioによっても受動passioによっても同じ行為をするに至る場合があるということが成立しなければなりません。これについては第四部定理五九を参照すれば十分でしょう。この定理Propositioは,現実的に存在する人間が能動によってなすすべての行動を,受動によってもなすことがあるということを示すものではありません。しかし,受動感情によって決定されるすべての行動は,理性に従っても決定され得るのであれば,少なくとも受動によっても能動によっても同じ行動に決定される場合があることは明白でしょう。そしてその場合に,その行動が能動によって決定されるのであれば有徳的であるといわれ,受動によって決定されている場合は無力であるといわれるのです。
ふたつめの解釈上の注意点は以上になります。もうひとつありますので,そちらの説明に移ります。
現実的に存在する人間の身体humanum corpusの状況について,第四部定理二〇は,身体が健康であるなら有徳的で,身体が何らかの病気に罹患しているなら無力であるといっているというように解する余地があると思います。何らかの病気に罹患している身体は,自己の有を維持することを放棄している身体であって,健康である身体は,それに対していえば自己の有を維持することに努めている身体であるとみることができるからです。ですがこの定理が示しているのはそのようなことではありません。つまりスピノザがここでそのようなことをいっているのではないという点に,解釈上の注意を要すると僕は考えています。
第三部定理六により,現実的に存在するどのようなものも,自己の有を維持することには努めますsuo esse perseverare conatur。