スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

感情&現実的良心

2022-05-21 19:09:44 | 哲学
 感情の総括的定義と,その説明の中で僕が重要と考えている点,すなわち第一に冒頭部分,第二に感情の形相に関する部分,第三に精神の移行に関連する部分,そして第四に欲望の本性に関する部分についての僕の考え方は示すことができました。なので,僕がこのブログで感情affectusというとき,何を意味させているのかということを,ここで改めて説明しておきましょう。
                                   
 僕が感情というとき,それは第三部定義三にいわれている感情のことを意味します。このときにとくに気を付けておいてほしいのは,以下の二点になります。
 まず,僕が感情というとき,それはこの定義Definitioにあるように,人間の身体humanum corpusのある状態と,その人間の精神mens humanaのうちにあるその状態の観念ideaとの両方を意味します。スピノザの哲学では,人間の身体とその人間の精神は実在的にrealiter区別され,よって第三部定理二にあるように,一方が他方の原因causaであったり結果effectusであったりすることはありません。なので,本来は身体のある状態とその観念を同じ語で示すのはあまり好ましくありません。ただ感情は,一般的には確かに人間の身体のある状態でもありその状態の観念でもあると僕は思いますので,特例としてこのような使い方をします。感情の総括的定義にあるように,ある観念のことだけを感情というのではないということに留意してください。感情は思惟の様態cogitandi modiであると同時に延長Extensioの様態あるいは延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisである物体corpusに生じる運動motusでもあります。つまり,客観的有esse objectivumであると同時に形相的有esse formaleでもあるのです。
 次に,僕が感情というとき,その感情を観念としてみたときには,必ずしも混乱した観念idea inadaequataであるわけではなく,十全な観念idea adaequataである場合もあります。第三部定理五八により,能動的な欲望cupiditasおよび喜びlaetitiaがありますが,それは観念としてみれば十全な観念です。感情が混乱した観念であるのは,受動的である場合です。いい換えれば僕は,感情の総括的定義にあるように,受動感情のことだけを感情というわけではありません。

 良心conscientiaが働くagereか働かないかの相違を,人間の能動actioと受動passioとに帰するフロムErich Seligmann Frommの見解から,良心はいかなるものであるかということの特徴が帰結します。もしフロムの見解に従うなら,たとえば現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに,前もって良心というべき思惟の様態cogitandi modiが存在して,その人間はその良心に従ったり従わなかったりするということはできないといわなければなりません。むしろ現実的に存在するその人間が能動に傾いているならば,その人間の精神のうちには確かに良心というべき思惟の様態があるのであって,その人間がその良心に従っているようにみえるのですが,その人間が良心に従っていないようにみえるという場合は,単にその人間は働きを受けているのであって,その場合はその人間の精神のうちには良心というべき思惟の様態は存在しないというべきなのです。つまり良心という思惟の様態がある人間の精神のうちにあるかないかということが,その人間が働いているか働きを受けているかということから決定されるのであって,前もって良心があり,それに従ったり従わなかったりするわけではないのです。
 このフロムの見解は,スピノザの哲学の考え方とかなりマッチしているといえます。スピノザは良心について何かを積極的に語っているわけではありませんが,たとえば理性ratioについていえば,人間には前もって理性というものがあるのではなくて,理性的であるとき,いい換えれば精神の能動actio Mentisという状態がその人間に生じているときにその人間には理性があるといわれるべきであり,そうでなくその人間が働きを受けているときには,その人間には理性がないというべきだという考え方をしています。もっと一般的にいえば,スピノザは可能的なものがある人間のうちにあるというようにみるべきでなく,現実的なものだけがあるとみるべきだといっているのです。なので,もしもスピノザが良心について何かを語るならば,それと同じ路線で語ることになるでしょう。つまり良心は可能的なものではなく,現実的なものであるというでしょう。それは良心が働いているときは良心はあるけれども,そうでないときには良心はないということになります。
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