日本時間で今日の朝にアメリカのチャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキーダービーGⅠダート11/4マイル。
クラウンプライドは少しばかり押して2番手に。向正面では逃げた馬との差がクビから半馬身くらいの間で推移しました。3コーナーの手前で逃げた馬とクラウンプライドの間に1頭が入ってきました。ここで逃げた馬は一杯になって後退。クラウンプライドは上がってきた馬の外を併走。コーナーの途中では一旦は少しばかり前に出たようにみえます。しかしその外からもう1頭が捲り上げてきて,直線の入口ではそちらが先頭に。直線では鞭が入れられましたが余力がなく,馬群に飲み込まれることに。勝ち馬からはおよそ18馬身4分の1差の13着でした。
逃げた馬が早々に一杯になったように,先行馬には苦しいペースでしたから,もう少し控えていればもっと上位の着順はあったかもしれません。ただその場合はレースに参加することもできずに惨敗というケースもあり得たでしょう。ダート競馬の本場といえるアメリカの,3歳馬の最高峰のレースに挑戦したわけですから,しっかりとレースに参加した内容は,僕は悪くなかったと思います。先行して一杯になったのですから,力不足であったということでいいのではないでしょうか。
ある種の悲しみtristitiaは,人間の現実的本性actualis essentiaに反し,非道徳であったとしても,推奨される場合があります。したがって,ある種の歓喜gaudiumは非道徳的であるだけでは全面的に推奨されないということの根拠としてやや弱い面があります。そこで,歓喜が推奨されない場合を,もっと具体的に考察していきます。この場合,それがどのように解されるとしても,歓喜が良心の呵責conscientiae morsusの反対感情であるということに注意してください。
まず良心の呵責を第三部諸感情の定義一七の感情affectusであるとした場合は,その反対感情が第三部諸感情の定義一六の感情であることになります。この場合の歓喜は,憎しみodiumと結びつくことによって,推奨されない場合というのを容易に説明することができます。たとえば,Aという人間が現実的に存在しているとして,BがAに対して危害を与えてくるに違いないという不安metusを感じていたとしましょう。このとき,たとえばBが大けがをして入院したとなれば,とりあえずその不安は解消するでしょう。よってAはこのときに歓喜することになります。これは,Bのけが,感情でいえばこれは悲しみに違いありませんから,Bの悲しみがAの喜びlaetitiaの原因causaとなっています。このことは第三部定理二三によって,AがBを憎んでいるという意味なのです。なのでこの種の歓喜は推奨され得ません。これは,自分の悲しみが他人の悲しみと結びつくとき,その悲しみは人を敬虔pietasにさせるので推奨されるということから考えればよく理解できるでしょう。ちょうどそれとは逆に,他人の悲しみが自分の喜びに結び付く場合,またその反対に,他人の喜びが自分の悲しみと結びつくような感情は,スピノザの哲学では推奨されないのです。前者の場合は喜びを感じている人は他人の悲しみを維持また促進させるように作用させますし,後者の場合は悲しみを感じている人は他人の喜びを阻害あるいは除去させるように作用させるからです。これらはどちらの場合も人と人とを対立的にさせることは明白でしょう。
次に,僕が定義した場合の良心の呵責の反対感情としての歓喜について考えます。歓喜も一般的には,第三部諸感情の定義一六の場合だけに成立するものではありません。
クラウンプライドは少しばかり押して2番手に。向正面では逃げた馬との差がクビから半馬身くらいの間で推移しました。3コーナーの手前で逃げた馬とクラウンプライドの間に1頭が入ってきました。ここで逃げた馬は一杯になって後退。クラウンプライドは上がってきた馬の外を併走。コーナーの途中では一旦は少しばかり前に出たようにみえます。しかしその外からもう1頭が捲り上げてきて,直線の入口ではそちらが先頭に。直線では鞭が入れられましたが余力がなく,馬群に飲み込まれることに。勝ち馬からはおよそ18馬身4分の1差の13着でした。
逃げた馬が早々に一杯になったように,先行馬には苦しいペースでしたから,もう少し控えていればもっと上位の着順はあったかもしれません。ただその場合はレースに参加することもできずに惨敗というケースもあり得たでしょう。ダート競馬の本場といえるアメリカの,3歳馬の最高峰のレースに挑戦したわけですから,しっかりとレースに参加した内容は,僕は悪くなかったと思います。先行して一杯になったのですから,力不足であったということでいいのではないでしょうか。
ある種の悲しみtristitiaは,人間の現実的本性actualis essentiaに反し,非道徳であったとしても,推奨される場合があります。したがって,ある種の歓喜gaudiumは非道徳的であるだけでは全面的に推奨されないということの根拠としてやや弱い面があります。そこで,歓喜が推奨されない場合を,もっと具体的に考察していきます。この場合,それがどのように解されるとしても,歓喜が良心の呵責conscientiae morsusの反対感情であるということに注意してください。
まず良心の呵責を第三部諸感情の定義一七の感情affectusであるとした場合は,その反対感情が第三部諸感情の定義一六の感情であることになります。この場合の歓喜は,憎しみodiumと結びつくことによって,推奨されない場合というのを容易に説明することができます。たとえば,Aという人間が現実的に存在しているとして,BがAに対して危害を与えてくるに違いないという不安metusを感じていたとしましょう。このとき,たとえばBが大けがをして入院したとなれば,とりあえずその不安は解消するでしょう。よってAはこのときに歓喜することになります。これは,Bのけが,感情でいえばこれは悲しみに違いありませんから,Bの悲しみがAの喜びlaetitiaの原因causaとなっています。このことは第三部定理二三によって,AがBを憎んでいるという意味なのです。なのでこの種の歓喜は推奨され得ません。これは,自分の悲しみが他人の悲しみと結びつくとき,その悲しみは人を敬虔pietasにさせるので推奨されるということから考えればよく理解できるでしょう。ちょうどそれとは逆に,他人の悲しみが自分の喜びに結び付く場合,またその反対に,他人の喜びが自分の悲しみと結びつくような感情は,スピノザの哲学では推奨されないのです。前者の場合は喜びを感じている人は他人の悲しみを維持また促進させるように作用させますし,後者の場合は悲しみを感じている人は他人の喜びを阻害あるいは除去させるように作用させるからです。これらはどちらの場合も人と人とを対立的にさせることは明白でしょう。
次に,僕が定義した場合の良心の呵責の反対感情としての歓喜について考えます。歓喜も一般的には,第三部諸感情の定義一六の場合だけに成立するものではありません。