昨日の第65期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明九段が13勝,斎藤慎太郎八段が6勝。
振駒で渡辺九段の先手。相掛りから9筋の位を取った先手が横歩も取る将棋。欲張った指し方のように思えましたが,後手の齋藤八段から咎める手段がなかったようで,先手の作戦勝ちだったのではないでしょうか。
第1図で☖8六歩☗同歩☖2九飛と攻め合いにいきました。ただ☗3八銀☖8九飛成☗7九金☖8六龍となったときに☗1一角成と取られ,☖3三桂に☗8七歩と打たれました。
取ると☗8八香があるので引き上げるほかありませんが,攻め合って勝つのは見込めなくなってしまいました。第1図は後手が駒得をしていますので,すぐに攻め合いにいくのではなく,手数を伸ばしていくような指し方が求められていたようです。
渡辺九段が勝って挑戦者に。王位戦七番勝負は初出場。第一局は7月6日と7日に指される予定です。
ねたみinvidiaに駆られて相手を打ち負かそうと活動するのであれ,金銭欲に駆られて収入を得るための活動をするのであれ,活動をしている当人の力potentiaがまったく表示されていないわけではありません。しかしより多く表示されているのは,前者の場合でいえばそれほどまでに当人をねたませる相手の力であり,後者の場合はそれほどまでに当人を欲望させる金銭nummusの力です。このために,ねたみも金銭欲も能動actioとはいわれずに受動passioといわれることになるのです。すなわち,どのような作用を現実的に存在する人間がするのであれ,その作用をより多く表示している力が,当人の力であればそれはその当人の能動であるのですが,その当人の力ではなく何らかの外部のものの力である場合は,受動であるといわれます。よって,その作用がどれほど活発に,あるいは同じことですが活動的にみえるとしても,そのことはその当人の能動であるか受動であるかを決定するような材料とはなりません。つまりそのような方法で能動と受動を判断することはできませんし,もしもそのことで能動と受動を判断するのであれば,能動を受動と,受動を能動と,誤って判断する場合が生じることになるでしょう。
第三部定義二は,僕たちが僕たち自身の作用の十全な原因causa adaequataとなっている場合が能動で,僕たちが僕たち自身の作用の部分的原因causa partialisである場合は受動であるといっています。ただ,受動の場合はともかく,僕たちにとってこの意味での純粋な能動というのはほぼ存在しないと考えておいた方がよいでしょう。僕たちはほとんどの作用について,部分的原因として作用するのですが,僕たち自身はその部分的原因の一部を構成します。そのとき,ほかの部分的原因に対して自分自身の力がより多く表示されているのなら,それは僕たちにとっての能動であって,たとえ僕たちが常に部分的原因の一部を構成していたとしても,他の部分的原因が表示する力に凌駕されているなら,それは僕たちの受動であると解しておくのがよいと思います。第三部定理一は,それを十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataに関連付けていますが,僕たちの精神mensのうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,同時に存在し得るのです。
振駒で渡辺九段の先手。相掛りから9筋の位を取った先手が横歩も取る将棋。欲張った指し方のように思えましたが,後手の齋藤八段から咎める手段がなかったようで,先手の作戦勝ちだったのではないでしょうか。
第1図で☖8六歩☗同歩☖2九飛と攻め合いにいきました。ただ☗3八銀☖8九飛成☗7九金☖8六龍となったときに☗1一角成と取られ,☖3三桂に☗8七歩と打たれました。
取ると☗8八香があるので引き上げるほかありませんが,攻め合って勝つのは見込めなくなってしまいました。第1図は後手が駒得をしていますので,すぐに攻め合いにいくのではなく,手数を伸ばしていくような指し方が求められていたようです。
渡辺九段が勝って挑戦者に。王位戦七番勝負は初出場。第一局は7月6日と7日に指される予定です。
ねたみinvidiaに駆られて相手を打ち負かそうと活動するのであれ,金銭欲に駆られて収入を得るための活動をするのであれ,活動をしている当人の力potentiaがまったく表示されていないわけではありません。しかしより多く表示されているのは,前者の場合でいえばそれほどまでに当人をねたませる相手の力であり,後者の場合はそれほどまでに当人を欲望させる金銭nummusの力です。このために,ねたみも金銭欲も能動actioとはいわれずに受動passioといわれることになるのです。すなわち,どのような作用を現実的に存在する人間がするのであれ,その作用をより多く表示している力が,当人の力であればそれはその当人の能動であるのですが,その当人の力ではなく何らかの外部のものの力である場合は,受動であるといわれます。よって,その作用がどれほど活発に,あるいは同じことですが活動的にみえるとしても,そのことはその当人の能動であるか受動であるかを決定するような材料とはなりません。つまりそのような方法で能動と受動を判断することはできませんし,もしもそのことで能動と受動を判断するのであれば,能動を受動と,受動を能動と,誤って判断する場合が生じることになるでしょう。
第三部定義二は,僕たちが僕たち自身の作用の十全な原因causa adaequataとなっている場合が能動で,僕たちが僕たち自身の作用の部分的原因causa partialisである場合は受動であるといっています。ただ,受動の場合はともかく,僕たちにとってこの意味での純粋な能動というのはほぼ存在しないと考えておいた方がよいでしょう。僕たちはほとんどの作用について,部分的原因として作用するのですが,僕たち自身はその部分的原因の一部を構成します。そのとき,ほかの部分的原因に対して自分自身の力がより多く表示されているのなら,それは僕たちにとっての能動であって,たとえ僕たちが常に部分的原因の一部を構成していたとしても,他の部分的原因が表示する力に凌駕されているなら,それは僕たちの受動であると解しておくのがよいと思います。第三部定理一は,それを十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataに関連付けていますが,僕たちの精神mensのうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,同時に存在し得るのです。
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