昨晩の第4回若潮スプリント。沢田騎手が4レースで落馬し,腸骨骨折などの傷を負ったためモノノフブラックは野畑騎手に変更。
ゲートの中で何度か立ち上がっていたエイムフォーエースは発馬でも1馬身の不利。大外からオーソレリカが瞬く間にハナに立っての逃げ。2番手にスピネーカーとエドノフェニックスとリノディスティーノ。5番手にモノノフブラック。2馬身差でトーセンヴィオラとギガース。8番手にザイデルバストとフクノフードゥル。2馬身差でヘリアンフォラ。11番手がエイムフォーエースとなり最後尾にビッグショータイム。前半の600mは35秒5のハイペース。
3コーナーでは2番手がエドノフェニックスとリノディスティーノの併走となり,3馬身差でギガースが4番手に上昇。2馬身差で後退したスピネーカーとモノノフブラックが併走。直線に入るとリノディスティーノは脱落しエドノフェニックスが単独の2番手に。その外からギガースが差してきて2番手に上がると,フィニッシュにかけて逃げ粘るオーソレリカを追い詰め,最後は差し切って優勝。逃げ粘ったオーソレリカが半馬身差で2着。3番手となったエドノフェニックスの外からモノノフブラック,ザイデルバスト,ヘリアンフォラの3頭が並んで追い込んできて3着争い。真中のザイデルバストが5馬身差の3着で外のヘリアンフォラがアタマ差で4着。モノノフブラックが半馬身差で5着。
優勝したギガースはネクストスター東日本以来の勝利で南関東重賞3勝目。距離が短縮して苦しんだ感はありましたが,速力を生かして軽快に逃げたオーソレリカを,58キロを背負いながら捻じ伏せたのは底力の証明で,この距離でもこのメンバーなら力が抜けていたということでしょう。レースのしやすさという観点からは,もう少し距離があった方がいいのではないでしょうか。母の父はジャングルポケット。祖母がダイヤモンドビコーで3代母がステラマドリッド。Gigasはギリシア神話の巨人族のひとつ。複数形はギガンテス。
騎乗した船橋の森泰斗騎手はプラチナカップ以来の南関東重賞61勝目。若潮スプリントは初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞13勝目。若潮スプリントは初勝利。
この國分の指摘は,僕がこれまでに考察したことと関連させることができます。それは,フロムErich Seligmann Frommが『愛するということThe Art of Loving』において,スピノザの哲学について指摘していたことです。フロムはそこで,自分の外部にある目標に向かって邁進する人は,活発に活動しているようにみえ,椅子に座って沈思黙考する人は逆に不活発にみえるけれど,スピノザの哲学においては前者が受動passioであり,後者が能動actioであるという意味のことをいっていました。ここでも活発にみえるかそうでないかということは,その人が能動状態にあるか受動状態にあるかということと無関係であるということがいわれているのであり,これは國分がこの部分で指摘していることと同じであるといえるでしょう。
國分はここではねたみinvidiaという,悲しみtristitiaの一種である感情affectusを例として指摘していますが,こうしたことは悲しみとだけ関係するのではありません。たとえば過度な金銭欲avaritiaを満たすためあくせくと働く人は,活発に活動しているようにみえるでしょう。金銭欲は欲望cupiditasの一種ですから,これは悲しみとは無関係です。しかし國分のいい方に倣うのであれば,この活動をより多く表示している力potentiaは,それほどその人間の欲望を満たそうとする金銭の力である,もっと正確にいうなら,その人が表象している金銭の力なのであって,その人自身の力ではないということになるでしょう。その活動をより多く表示しているのが,その人が表象している金銭の力であるのならば,その活動はその人の能動ではなくて受動なのです。
第四部定理四系でいわれているように,現実的に存在する人間は常に何らかの受動に隷属しています。國分が,その力を表示しているといわずに,より多く表示しているといっているのは,このことと関連しています。すなわち,現実的に存在している人間は,自分の力だけを表示するということはありません。ただ,外部の力よりも自分の力をより多く表示するということはあるのであって,その場合はその人間の能動といわれるのです。逆にいえば,たとえねたみや金銭欲によって活発に活動するときも,活発している当人の力がまったく表示されていないというわけではありません。
ゲートの中で何度か立ち上がっていたエイムフォーエースは発馬でも1馬身の不利。大外からオーソレリカが瞬く間にハナに立っての逃げ。2番手にスピネーカーとエドノフェニックスとリノディスティーノ。5番手にモノノフブラック。2馬身差でトーセンヴィオラとギガース。8番手にザイデルバストとフクノフードゥル。2馬身差でヘリアンフォラ。11番手がエイムフォーエースとなり最後尾にビッグショータイム。前半の600mは35秒5のハイペース。
3コーナーでは2番手がエドノフェニックスとリノディスティーノの併走となり,3馬身差でギガースが4番手に上昇。2馬身差で後退したスピネーカーとモノノフブラックが併走。直線に入るとリノディスティーノは脱落しエドノフェニックスが単独の2番手に。その外からギガースが差してきて2番手に上がると,フィニッシュにかけて逃げ粘るオーソレリカを追い詰め,最後は差し切って優勝。逃げ粘ったオーソレリカが半馬身差で2着。3番手となったエドノフェニックスの外からモノノフブラック,ザイデルバスト,ヘリアンフォラの3頭が並んで追い込んできて3着争い。真中のザイデルバストが5馬身差の3着で外のヘリアンフォラがアタマ差で4着。モノノフブラックが半馬身差で5着。
優勝したギガースはネクストスター東日本以来の勝利で南関東重賞3勝目。距離が短縮して苦しんだ感はありましたが,速力を生かして軽快に逃げたオーソレリカを,58キロを背負いながら捻じ伏せたのは底力の証明で,この距離でもこのメンバーなら力が抜けていたということでしょう。レースのしやすさという観点からは,もう少し距離があった方がいいのではないでしょうか。母の父はジャングルポケット。祖母がダイヤモンドビコーで3代母がステラマドリッド。Gigasはギリシア神話の巨人族のひとつ。複数形はギガンテス。
騎乗した船橋の森泰斗騎手はプラチナカップ以来の南関東重賞61勝目。若潮スプリントは初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞13勝目。若潮スプリントは初勝利。
この國分の指摘は,僕がこれまでに考察したことと関連させることができます。それは,フロムErich Seligmann Frommが『愛するということThe Art of Loving』において,スピノザの哲学について指摘していたことです。フロムはそこで,自分の外部にある目標に向かって邁進する人は,活発に活動しているようにみえ,椅子に座って沈思黙考する人は逆に不活発にみえるけれど,スピノザの哲学においては前者が受動passioであり,後者が能動actioであるという意味のことをいっていました。ここでも活発にみえるかそうでないかということは,その人が能動状態にあるか受動状態にあるかということと無関係であるということがいわれているのであり,これは國分がこの部分で指摘していることと同じであるといえるでしょう。
國分はここではねたみinvidiaという,悲しみtristitiaの一種である感情affectusを例として指摘していますが,こうしたことは悲しみとだけ関係するのではありません。たとえば過度な金銭欲avaritiaを満たすためあくせくと働く人は,活発に活動しているようにみえるでしょう。金銭欲は欲望cupiditasの一種ですから,これは悲しみとは無関係です。しかし國分のいい方に倣うのであれば,この活動をより多く表示している力potentiaは,それほどその人間の欲望を満たそうとする金銭の力である,もっと正確にいうなら,その人が表象している金銭の力なのであって,その人自身の力ではないということになるでしょう。その活動をより多く表示しているのが,その人が表象している金銭の力であるのならば,その活動はその人の能動ではなくて受動なのです。
第四部定理四系でいわれているように,現実的に存在する人間は常に何らかの受動に隷属しています。國分が,その力を表示しているといわずに,より多く表示しているといっているのは,このことと関連しています。すなわち,現実的に存在している人間は,自分の力だけを表示するということはありません。ただ,外部の力よりも自分の力をより多く表示するということはあるのであって,その場合はその人間の能動といわれるのです。逆にいえば,たとえねたみや金銭欲によって活発に活動するときも,活発している当人の力がまったく表示されていないというわけではありません。
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