二冠を死守したい清水市代女流王位に,二冠を目指す甲斐智美女王が挑戦する第21期女流王位戦五番勝負の第一局。対戦成績は清水女流王位が5勝,甲斐女王が2勝。
振駒で甲斐女王の先手。先手中飛車,後手居飛車の対抗形はこうなれば予想された通り。持久戦に進展しました。
ここからようやく本格的な戦いに突入。後手は△9五歩と催促。先手は▲7五歩。△6六歩▲同銀としてから△8四飛と受けたのに対し,▲8五歩△同桂▲8九飛。△9六歩の取り込みに▲8五飛△同桂▲同桂で先手は桂得しながら飛車交換。後手は△6七歩の垂らしを入れ,▲8一飛△6九飛と打ち合い,先手は▲2六桂(第2図)と設置しました。
得した桂馬を急所とされる地点に打ったわけですが,この手は急ぎすぎで,△6八歩成を受けておく方がよかったとのこと。戦いになっても元の流れを持続させておいた方がこの場合はよかったということになり,将棋というのは本当に難しいものだと思います。
実戦はこの後,双方が決定的な決め手を与えないような指し方で大混戦に。最後は徹底抗戦で埋め尽くされた後手陣の駒を,手筋も駆使して剥がすことに成功した先手が勝っています。
甲斐女王が先勝。この方がシリーズ自体は面白くなったといえるのではないでしょうか。第二局は20日です。
僕たちが尿意を意識する場合にはそれを観念として意識し,逆に排尿という運動を我慢することを意識する場合にはむしろそれを意志作用として意識する理由は何かということは,今回の考察を少し離れるかもしれませんが,ひとつ興味深いことではあります。そこで単に意識のレベルの面だけでもこのことを考えてみたいのですが,しかしそれがはたしてなぜなのか,はっきりとしたことはわからないというのが僕の正直なところです。
ただし,次のように考えることはできると思います。人間の身体にとって排尿という運動は,自身の完全性を維持する行為,いい換えれば自己保存の法則に適合した行為です。したがって僕たちはそれを意識する場合には,これを力として意識する必然性はあまりないということになるでしょう。この場合には僕たちにとっては,自分の身体がどのような状態にあるのかということを知ること,意識することが重要なのであって,それがどのような力であるのかということを知ることは,それに比べれば重要ではないからです。
一方,排尿を我慢するということは,第一義的に考えるなら,自己保存の法則に反します。いい換えればこれは自然の法則に反した行為であるといえます。もちろん僕たちははっきりとした理由,つまり具体的に我慢の秩序として説明され得るような秩序によってこうした運動をなすわけですが,この場合には観念としてはそうした秩序の背景としてあるような事柄が意識されることが重要で,第二部定理九で説明されるような観念の連結は,そのゆえにそうした力が発揮されなければならないという方向に進んでいくでしょう。したがってこの場合には,我慢することはそれ自体の観念としてより,そうした意志作用として意識される方が自然であるということになります。
これはひとつに説明の仕方であって,正しいと主張しようとしているわけではありません。論理的には個々の観念と個々の意志作用とは同一のものだということがすでに明らかになっていますから,この点についてはそもそも今回の考察は正しい解答を必要とはしていないということもまた事実であると思います。
振駒で甲斐女王の先手。先手中飛車,後手居飛車の対抗形はこうなれば予想された通り。持久戦に進展しました。
ここからようやく本格的な戦いに突入。後手は△9五歩と催促。先手は▲7五歩。△6六歩▲同銀としてから△8四飛と受けたのに対し,▲8五歩△同桂▲8九飛。△9六歩の取り込みに▲8五飛△同桂▲同桂で先手は桂得しながら飛車交換。後手は△6七歩の垂らしを入れ,▲8一飛△6九飛と打ち合い,先手は▲2六桂(第2図)と設置しました。
得した桂馬を急所とされる地点に打ったわけですが,この手は急ぎすぎで,△6八歩成を受けておく方がよかったとのこと。戦いになっても元の流れを持続させておいた方がこの場合はよかったということになり,将棋というのは本当に難しいものだと思います。
実戦はこの後,双方が決定的な決め手を与えないような指し方で大混戦に。最後は徹底抗戦で埋め尽くされた後手陣の駒を,手筋も駆使して剥がすことに成功した先手が勝っています。
甲斐女王が先勝。この方がシリーズ自体は面白くなったといえるのではないでしょうか。第二局は20日です。
僕たちが尿意を意識する場合にはそれを観念として意識し,逆に排尿という運動を我慢することを意識する場合にはむしろそれを意志作用として意識する理由は何かということは,今回の考察を少し離れるかもしれませんが,ひとつ興味深いことではあります。そこで単に意識のレベルの面だけでもこのことを考えてみたいのですが,しかしそれがはたしてなぜなのか,はっきりとしたことはわからないというのが僕の正直なところです。
ただし,次のように考えることはできると思います。人間の身体にとって排尿という運動は,自身の完全性を維持する行為,いい換えれば自己保存の法則に適合した行為です。したがって僕たちはそれを意識する場合には,これを力として意識する必然性はあまりないということになるでしょう。この場合には僕たちにとっては,自分の身体がどのような状態にあるのかということを知ること,意識することが重要なのであって,それがどのような力であるのかということを知ることは,それに比べれば重要ではないからです。
一方,排尿を我慢するということは,第一義的に考えるなら,自己保存の法則に反します。いい換えればこれは自然の法則に反した行為であるといえます。もちろん僕たちははっきりとした理由,つまり具体的に我慢の秩序として説明され得るような秩序によってこうした運動をなすわけですが,この場合には観念としてはそうした秩序の背景としてあるような事柄が意識されることが重要で,第二部定理九で説明されるような観念の連結は,そのゆえにそうした力が発揮されなければならないという方向に進んでいくでしょう。したがってこの場合には,我慢することはそれ自体の観念としてより,そうした意志作用として意識される方が自然であるということになります。
これはひとつに説明の仕方であって,正しいと主張しようとしているわけではありません。論理的には個々の観念と個々の意志作用とは同一のものだということがすでに明らかになっていますから,この点についてはそもそも今回の考察は正しい解答を必要とはしていないということもまた事実であると思います。
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