スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&人格の剥奪

2015-02-17 19:36:39 | 将棋
 浦和で指された第64期王将戦七番勝負第四局。
 郷田真隆九段の先手で渡辺明王将の角交換四間飛車。棋譜からみる限り,中盤では差がついていたのではないかと思われます。
                          
 3一にいた金が逃げて歩が成った局面。後手は△6四銀と引きました。▲2一角成とされるので損だと思えるのですが,次の△5五角を打つための手順でしょう。
 先手としても△9九角成は許せないので▲6六桂と受けました。後に攻めに役立つかもしれないので,受けるならこう打ちたい気がします。△1九角成は気が利かないような印象もありますが,角を打った以上は当然の手ではないでしょうか。
 先手は▲2二龍と金取りに侵入し,△5二金寄に▲4三歩と垂らしました。これで攻めは確実になりましたので,それ以上に早く寄せられさえしなければ勝てる局面に。
 後手は△2九馬と桂馬を入手。先手は▲4二歩成△6二金寄という交換を入れてから▲7九金と自陣に手を入れました。
                          
 と金で攻めれば駒は入手できますので,金を自陣に使っても攻めには影響がありません。逆に後手からは手の出し方が難しくなり,この局面は先手の勝勢に近いくらいではないかと思います。第1図以降の後手の手順が仕方ないものであったのなら,すでに第1図の時点で先手が大きくリードをしていたということでしょう。
 郷田九段が勝って2勝2敗。第五局は来月12日と13日です。

 おそらくスピノザは,多くの人びとが神Deusを十全に認識することが困難であるのは,そうした人びとが,神を人間であるかのように表象するからだと考えていたのだと推測します。だから神から人格を剥奪することが,人びとが神を十全に認識するために,最も必要な条件であると考えたのではないでしょうか。
 これも推測ですが,たぶんスピノザは,人びとが神を人間のように表象するのは,その表象をしているのが人間であるからだと考えていたと思います。たとえば馬が人間と同じように神を表象することができるとすれば,馬は神を馬のように表象するでしょうし,三角形に表象が可能であったとすれば,三角形は神を三角形のように表象するであろうとスピノザは考えていたのだと思います。スピノザは完全性perfectioという概念conceptusにおいては,人間にも馬にも三角形にも差を与えませんでした。逆にいえばそれは,人間には神を人間のように表象する特権が与えられてはいないということでもあるのです。
 スピノザによる神からの人格の剥奪は,とても徹底しているように僕には感じられます。たとえば神は人間のような身体corpusを有さないというなら,それはたとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにも同意可能な人格の剥奪であったと思います。それと同様に,スピノザは神が人間と同じようには思惟しないという意味でも神から人格を剥奪します。そしてそればかりでなく,おおよそ神に関する事柄を,人間的なものから理解することを否定するという意味でも神からの人格の剥奪を行っています。たとえばスピノザは神の力というものを,王の力,いい換えれば主権者の力であるかのように理解することも否定します。主権というのは人間にだけ関連するような概念なのであり,神の力とは何も関係がないからです。第一部定理三四は,神の力というのを,神の本性essentiaと同一視します。これは当然のことなのです。なぜなら完全性すなわち実在性realitasというのは,力という観点から把握される限りで,事物の本性そのものだからです。神の力と人の力は,各々の本性が異なる分だけ異なります。新約聖書に倣っていうならば,皇帝のものは皇帝に,神のものは神に,とスピノザはいっているのです。

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