スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
別府競輪場 で行われた昨晩の第15回サマーナイトフェスティバルの決勝 。並びは吉田‐平原の関東に佐藤,渡辺に村上,松浦‐小倉の中国四国,中川‐園田の九州。
中川がスタートを取って前受け。3番手に松浦,5番手に吉田,8番手に渡辺で周回。残り2周のホームの手前から渡辺が発進。吉田が続こうとしましたが松浦がそれを阻止。ホームで中川は引いて誘導は退避。松浦に阻止された吉田はバックに入って外を上昇。渡辺を叩いて打鐘から先行。松浦がすぐに反撃。捲るかに思えましたが,吉田が抵抗。バックにかけて激しい競り合いに。引いた中川が発進しましたが,先んじて出た渡辺の外から行ききることができず,最終コーナーで外に浮いて失速。先に動いた渡辺が激しく競り合う吉田ラインと松浦ラインを捲ってマークの村上と直線勝負。村上が僅かに差して優勝。渡辺が8分の1車輪差で2着。先行の吉田ライン3番手から直線で外を伸びた佐藤と,中川マークから大外を追いこんできた園田の3着争いはさらに接戦で写真判定。4分の3車身差の3着は園田で佐藤は微差の4着。
優勝した京都の村上博幸選手は2月の奈良記念 以来の優勝。ビッグは2014年の全日本選抜競輪 以来の7勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは吉田の先行が濃厚で,すんなりとしたレースになれば平原が有利で,あとは脚力から中川がどこまでかというレースになるのではないかと想定。吉田は先行はできたのですが,松浦の反撃が思いのほか早かったため,実質的には先行争いのようなレースに。これは中川の出番かと思ったのですが,前にいた渡辺の前に出ることができませんでした。結果的には中川の仕掛けるタイミングが悪かったということでしょう。逆に渡辺は程よいタイミングで駆けていくことができたということになり,これが大波乱を産む要素となりました。
自分の身体corpusの現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaを僕たちは知ることができないということは,ここまでの前提を踏まえれば次のことから明白です。
第二部定理一九 は,自分の身体が外部の物体corpusから刺激される様式を通してのみ,自分の身体を認識し,自分の身体が現実的に存在することを知るといっています。これは自分の身体の現実的存在についての認識cognitioですから,同時に自分の身体の現実的本性の認識でもあるわけです。そしてこの定理Propositioは,この様式を通してのみ,といっているのですから,僕たちはこの様式以外のいかなる様式によっても,自分の身体が現実的に存在することを認識し得ないし,また自分の身体の現実的本性を認識し得ないということを意味します。
次に第二部定理二七 は,この様式を通して認識される自分の身体の認識は,人間の身体の十全な認識を含んでいないといっています。よってこれらのことを合わせれば,僕たちは第二部定理一九の様式を通してのみ自分の身体が現実的に存在するということを認識するcognoscereのですが,第二部定理二七により,それは自分の身体の現実的存在の十全な認識あるいは同じことですが十全な観念idea adaequataではありません。観念は本来的特徴 denominatio intrinsecaからみられるとき,十全でないなら混乱しているので,それは混乱した観念idea inadaequataであることになります。よって僕たちは自分の身体の現実的存在を十全には認識することができず,混乱してしか認識することができません。よって自分の身体の現実的本性についても,混乱して認識することはあっても,十全に認識することはないのです。
さらに第二部定理四一は ,人間にとって虚偽falsitasの唯一の原因causaは第一種の認識cognitio primi generisであり,第二種の認識cognitio secundi generisおよび第三種の認識cognitio tertii generisは真verumであるといっています。よって,もし僕たちが自分の身体の現実的存在ならびに現実的本性を第二種の認識ないしは第三種の認識で認識するなら,それは真にいい換えれば十全に認識することになりますが,すでに明らかなように僕たちは自分の身体の現実的存在ならびに現実的本性を十全には認識し得ないのですから,僕たちは第一種の認識でのみ,自分の身体の現実的本性と現実的存在とを認識するということになります。
メイセイオペラ記念の第23回マーキュリーカップ 。
グリム,ノーブルサターン,テルペリオン,コパノチャーリー,ロードゴラッソの5頭が前に。先手を取ったのはコパノチャーリー。2番手にテルペリオン。3番手にグリムとロードゴラッソ。5番手にノーブルサターンという並びになりました。大きく離れて6番手のスランジバール,7番手のチェリーピッカー,8番手のコミュニティの3頭は一団。また離れてコスモマイギフト,ムゲンノカノウセイと続き併走のレッドダニエルとセンティグレードの4頭も一団。離れてイッセイイチダイ。また離れた最後尾にデジタルフラッシュと,とても長い隊列。ミドルペースでした。
3コーナーを回るところでコパノチャーリー,テルペリオン,ロードゴラッソの3頭が雁行に。グリム,ノーブルサターンも離されずついていきました。コーナーの途中でコパノチャーリーは苦しくなり,直線では内からテルペリオン,ロードゴラッソ,グリム,ノーブルサターンの4頭が並んでの競り合いに。ここから抜け出したグリムが優勝。大外のノーブルサターンが2馬身差で2着。最内のテルペリオンが4分の3馬身差の3着でロードゴラッソは1馬身差で4着。5着以下とは大差がつきました。
優勝したグリム は前々走の名古屋大賞典 以来の重賞4勝目。このメンバーでは明らかに実績上位でしたので,順当な優勝といえるでしょう。やや控えてのレースで結果を出したのは収穫といえそうです。ただトップクラスとはまだ少しの差がありそうに思えます。父はゼンノロブロイ 。母の父はサクラバクシンオー 。4代母がバーブスボールド 。
騎乗した武豊騎手 と管理している野中賢二調教師はマーキュリーカップ初勝利。
僕たちが自分の身体corpusの現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaを十全に認識するcognoscereことはできないということも,『エチカ』に示されています。したがってそのことを僕たちは,第二種の認識cognitio secundi generisによって知り得るのです。十全に認識し得ないということを知り得るというのは複雑ですが,何を知ることができて何を知ることができないのかは重要なことです。人間の精神mens humanaは有限なfinitum思惟の様態cogitandi modi,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisなので,無限に多くのinfinita事柄を十全に認識することができないということはそれ自体で明らかです。ですがそのうち,少なくともある事柄については十全に認識することができないということを知り得るとすれば,僕たちの精神が有限finitumであるといわれるときの有限性すなわち有限の限界の一端を知ることができるということを意味するからです。
このことを論証するために,すでに説明した次のことを前提としてください。それは,ある人間の身体humanum corpusが現実的に存在するならその人間の身体に固有の,つまりほかのだれでもないその人間の身体の現実的本性が存在するのであり,このときこの人間の身体の現実的存在はその人間の身体の現実的本性なしにはあることも考えるconcipereこともできず,逆にある人間の身体に固有の現実的本性はその人間の現実的存在なしにはあることも考えることもできないということです。このことから,ある人間が自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識するということと,ある人間が自分の身体の現実的存在を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識するということが同じであるということが分かるからです。
またこのことは,スピノザが定義 Definitioの条件として示している事柄からも明らかです。すなわち事物の定義からはその事物から流出する特質proprietasのすべてが含まれていなければならず,このために定義には定義されるものの本性が含まれていなければなりません。一方で定義されるものと定義内容は一対一で対応し合わなければなりません。よって事物の本性と事物は一対一で対応し合うことになり,事物を十全に認識することとその事物の本性を十全に認識することは同じことを意味することになるからです。
『ドストエフスキイその生涯と作品 』の第五章で埴谷雄高は,ドストエフスキーの作品における男女の関係の原型は平行四辺形であったといっています。これは分かりやすくいえば,三角形ではなく平行四辺形であるという意味です。小説に多くある恋愛の関係は,ひとりの人間をふたりの人間で奪い合うというものが多く,この関係が三角関係といわれるように,三角形です。基本的に夏目漱石の作品はこの三角形を構図としているといえるでしょう。それがドストエフスキーの場合は,ふたりの男とふたりの女という関係で描かれることが多く,これを埴谷は平行四辺形と形容したのです。ただしこれはあくまでも構図であって,そこに恋愛感情が存在するかどうかはあまり関係がありません。ドストエフスキーにとっての人間関係は,ひとりの人間を巡ってふたりの人間が争うという形ではなく,二対二という形であったというのが埴谷のいわんとしているところです。
『ドストエフスキイその生涯と作品』は論評であると同時に伝記でもあるので,埴谷はこのことをドストエフスキー自身の経験から説明しています。ただしこれは僕がいう作家論と作品論 における作家論に該当するので,僕はあまり関心をもちません。ただ,人間関係の原型が三角形ではなく平行四辺形であるという点は,納得がいくものでした。
平行四辺形が最もよく表出しているのは,『白痴』におけるムイシュキンとロゴージン,そしてナスターシャとアグラーヤということになるでしょう。ですがこれは分かりやすい例なのであって,いわれてみればこの二対二という関係が,ドストエフスキーの作品にはわりと多くあるのです。『虐げられた人びと 』も『白痴』と同様に分かりやすい例といえるかもしれません。また『悪霊 』のスタヴローギンとマリヤの関係は,シャートフとダーシャを加えた平行四辺形というべきなのかもしれませんし,『カラマーゾフの兄弟 』も,ドミートリーとイワンの関係は,カテリーナとグルーシェニカを加えた平行四辺形とみることができそうです。
これで,第五部定理二二 でいわれている身体corpusの本性essentiaは,現実的に存在する個々の人間の身体humanum corpusの本性であることが分かります。他面からいえば,現実的に存在するどの人間にもその人間に固有の現実的本性actualis essentiaが存在することが分かります。このことは,この定理Propositioにおいてスピノザが人間の身体の本性を形容するときに,このとかかのといった語を用い,個別的に峻別しようとしていることだけを根拠とするのではないのです。
次に,この定理はそのような個々の人間の身体の本性が,神Deusの中にあり,かつそれは永遠の相species aeternitatisの下に表現されているといっています。このときに重要なのは,これが定理であって,証明されていることです。いい換えれば僕たちはこのことを,第二種の認識cognitio secundi generisによって理解する,理解し得るということです。したがってたとえば僕は,僕の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現するexprimere観念ideaが神の中にあるということを,理性ratioによって認識します。もちろんこのこともまた僕に特有のことではありません。第四部定理三五 にあるように,人間は理性に従う限りで一致するのですから,現実的に存在するすべての人間は,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあることを理解するのです。少なくとも理解し得るのです。
ただし注意しなければならないのは,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあることを知ることと,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を知るということは別のことだということです。前者はすでに述べたように,僕たちにとって第二種の認識によって知ることができることです。しかし後者は,第二種の認識によっては認識し得ないことだし,かといって第三種の認識cognitio tertii generisによっても認識し得ないことなのです。人間が事物を十全に認識するcognoscereのは第二種の認識によってであるか第三種の認識によってであるかのどちらかです。したがってそれを第二種の認識でも第三種の認識でも認識し得ないとしたら,僕たちはそれを十全に認識することができないといわなければなりません。すなわち僕たちは,自分の身体の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念を十全に認識できません。
書簡六十三 と書簡六十五 でのチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausの主張のうち,スピノザにとって同意できない点 がどこにあったのかということの私見は説明できました。では,思惟以外のXという属性attributumにAという様態modiがあり,同様に思惟以外のYという属性に,Aと原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが同一であるA´という様態があるとき,Aの観念ideaとA´の観念はいかにして区別することが可能であるとスピノザは考えているのでしょうか。
スピノザの哲学では,ふたつあるいは複数の事物が明確に区別されるとき,その区別 distinguereのあり方はふたつしかありません。すなわち実在的区別 と様態的区別です。これを示すのは第一部定理四 で,属性の相違によって区別される場合が実在的区別で,変状affectioの相違によって区別されるのが様態的区別です。
AはXの属性の様態で,A´はYの属性の様態です。したがってこれらは属性の相違によって区別されます。よってAとA´の区別は実在的区別です。一方,Aの観念とA´の観念は共に思惟の属性Cogitationis attributumの様態です。ですからAの観念とA´の観念の区別は様態的区別であると思われます。ですが僕の考えではこれは成立しません。なぜなら,もしAとA´が様態的に区別されるのであれば,それらは思惟の属性という同一の属性を原因として発生し,かつ同一の原因と結果の連結と秩序で発生することになり,この場合はAの観念とA´の観念は記号の上で区別されているだけで,実際は同一のものであるとみなさなければならないからです。いい換えればこの場合は,チルンハウスの主張の方が成立し,第二部公理五 は誤りであることになります。
区別はふたつしかないのですから,よってAの観念とA´の観念は実在的に区別されなければなりません。つまり観念の対象ideatumが実在的に区別される場合は,観念もまた実在的に区別されるのです。スピノザが書簡六十四 と書簡六十六 でいっているのは,実際にはこのような意味のことであると僕は解します。
ほかのだれでもない僕の身体corpusの現実的本性actualis essentiaがなければ,僕の身体が現実的に存在し得ないことは,第二部定義二の意味 から明らかだと僕は考えます。ここから分かるように,何かが存在するためにはその何かの本性がその存在を鼎立する必要があります。したがって,一般的に人間の身体の本性が存在するなら,一般に人間の身体は存在することになります。ですがほかならぬ僕の身体が現実的に存在するためにはそれだけでは十分ではありません。そのためにはほかならぬ僕の身体の現実的存在を鼎立する本性がなければならないからです。僕はそれをほかならぬ僕の身体の現実的本性といっているのですから,僕の身体の現実的存在は,僕の身体の現実的本性なしにはあることも考えるconcipereこともできないのです。そしてこのことは,僕の身体の現実的存在に特有のことではありません。現実的に存在する個々の身体は,ほかならぬ個々の身体として現実的に存在しなければならないのですから,そのためにはほかならぬ個々の身体の存在を鼎立するような個々の現実的本性が存在しなければならないからです。よって一般に,あの身体この身体と個別的に峻別することができるどの人間の身体の現実的存在も,個別的に峻別することができる現実的本性なしにはあることも考えることもできません。
一方,ほかのだれでもない僕の身体の本性が,僕の身体の存在existentiaなしにはあることも考えることもできないということは自明であると僕はいいました。当然ながらこのこともまた,僕の身体の現実的本性に限ったことではなく,個別的に峻別することができるすべての人間の身体の現実的本性に妥当しなければなりません。よって,現実的に存在するある人間をひとりだけ抽出したとき,その人間の身体の現実的存在はその人間の身体の現実的本性なしにはあることも考えることもできないし,逆にその人間の身体の現実的本性は,その人間の身体の現実的存在なしにはあることも考えることもできないものです。よってこの関係は第二部定義二 でいわれているある事物とその事物の本性の関係と完全に合致します。よって,第二部定義二は,本性といわれ得るものであればそのすべてに妥当します。
「五才の頃 」というのはある種のノスタルジーを感じさせる楽曲なので,僕にとってこれと似た雰囲気を感じる楽曲は「ホームにて 」です。一方,「ノスタルジア 」という楽曲にはノスタルジーを感じる要素が僕にはありません。これはあくまでも僕がノスタルジーという語句あるいは記号に対して抱いている印象から生じていることなので,僕のいわんとしてることが分かるという人もいればまったく分からないという人もいるでしょう。
「五才の頃」が収録されている「みんな去ってしまった」というアルバムには,「うそつきが好きよ」という楽曲も収録されています。僕が「ノスタルジア」に近い印象を抱くとすれば,「みんな去ってしまった」の中ではこちらになります。ただし僕はこの楽曲はそんなには聴きませんし,口ずさむこともほとんどありません。「ノスタルジア」というのは僕にとってはとても特別な楽曲であって,それと似た雰囲気を感じる楽曲を僕は必要としていないからだと思います。
夜露まじりの 酒に浮かれて
嘘がつけたら すてきだわ
裏切られた 思い出も
口に出せば わらいごと
これがこの楽曲の冒頭部分ですが,僕がこの楽曲に「ノスタルジア」と似た雰囲気を感じるのは,たぶんこの一節が含まれているからです。ですがこの部分はタイトルからも分かるように,楽曲の主題とはあまり関係がない一節でもあります。このこともまた,僕がこの楽曲をそう多くは聴かずまた口ずさんだりもしないことの一因といえるでしょう。
第五部定理二三 のスピノザによる証明 Demonstratioによると,この定理Propositioでいわれている「あるものaliquid」は,第五部定理二二 でいわれている,個々の人間の身体humanum corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaであるということ,少なくともそうした観念と強力な関係を有していることが分かります。第五部定理二二は,その観念が神Deusの中に必然的にnecessario存在するといっています。
このとき,個々の人間の身体の本性というのは,たとえば僕の身体の本性のことであり,またあなたの身体の本性であると解するべきです。つまり,現実的に存在するすべての人間の身体の本性と解するべきであり,かつそれらはすべてが異なった本性であると解さなければなりません。僕の身体の本性とあなたの身体の本性は異なった本性であるからです。このことは,もし僕の身体の本性とあなたの身体の本性が完全に一致するのであれば,第二部定義二 によって僕の身体とあなたの身体は同一の身体であるといわなければなりませんが,それをいうのは不条理であるからです。
なお,ここでは少し説明をつけ加えなければならないかもしれません。第二部定義二でスピノザが本性というとき,それがどういう意味の本性であるのかということについて,識者の間で見解の相違があるようだからです。この定義Definitioは,一般的な本性,現状の考察でいうなら,一般に人間の身体といわれる意味での本性,他面からいえば,すべての人間において合致するような人間の身体の本性について定義しているのであり,あの個物res singularisこの個物と峻別できるような意味での個別的な事物の本性の定義ではないという見解がそれなりにあるようなのです。ですが僕は,この定義は本性といわれるものであれば,それがどんなに個別的なものの本性であったとしても,たとえばあるひとりの特定の人間を抽出したときの,その人間の現実的本性actualis essentiaという意味での本性についても妥当しなければならない定義であると考えます。というのは,僕の身体の本性は僕の身体がなければあることも考えることもできないのは当然で,逆に僕の身体,ほかのだれでもない僕の身体は,ほかのだれでもない僕の身体の本性なしにあることも考えることもできない筈だからです。
第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三 から,希望spesと不安metusは共に過去の物の観念ideaだけから発生するわけではなく,未来の物の観念からも発生します。ですが,だから何らかの感情affectusが希望ないしは不安から発生するとき,それは過去の物の観念からも未来の物の観念からも発生しなければならないとは限りません。たとえば未来の物の観念からは発生し得なくても,過去の物の観念から発生し得るなら,その感情は希望あるいは不安から発生しているとみることはできるからです。
一方,希望も不安も,単に過去の物あるいは未来の物の観念を伴っている感情ではなく,そうした観念から発生するすなわちその観念を原因causaとする感情なのですから,希望や不安から何らかの感情が発生するなら,それもまた過去あるいは未来の観念をただ伴っているだけでは不十分なのであって,そうしたものの観念が原因となっていなければならないと僕は考えます。ですから,もし未来の物の観念からは発生し得ないけれど,過去の物の観念からは発生し得るようなある感情があるとすれば,それは希望ないしは不安から生じる感情ではあり得ると僕は考えますが,過去の物の観念を伴うだけでなく,未来の物の観念を伴うこともできるある感情があるとすれば,いい換えれば過去とも未来とも関連し得るけれど,そうしたものの観念を原因とすることはできないようなある感情があるなら,そうした感情は希望や不安からは発生し得ない感情であると考えます。
したがって,過去と未来と原因性 の関係でいえば,歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusが,過去の物の観念だけとしか関連し得ず,未来の物の観念とは関係し得ない感情だからといって,僕はそのことだけでは歓喜も落胆も希望や不安からは発生し得ないとはいいません。ですが歓喜も落胆も,過去の物の観念を伴った喜びあるいは悲しみなのであり,過去の物の観念から発生する喜びや悲しみではありませんから,僕はこの点において,これらふたつの感情が希望や不安からは発生し得ない感情であると考えます。
実はここにも畠中説の不都合 が存在します。畠中は,安堵securitas,絶望desperatio,歓喜,落胆を,すべて希望および不安からの派生感情であるとみているのですが,これだと派生のあり方が,安堵および絶望と,歓喜および落胆とでは異なることになってしまうからです。
『エチカ』は人間にとっての最高の徳virtusをそれ自体で示すことはできません。このことが『エチカ』自体に含まれています。ただし,人間にとって最高の徳となる認識cognitioが確かに存在するということ,かつ人間はそれを認識し得るということについては,『エチカ』の中で,いい換えれば第二種の認識cognitio secundi generisによって人間は知ることができます。このことも『エチカ』に含まれています。
カヴァイエス Jean Cavaillèsにとっての数理哲学は,カヴァイエスにとっての,あるいはカヴァイエスがその正当性を保証しようとした数学にとっての,第三種の認識cognitio tertii generisの問題であったということを,近藤和敬が肯定しているということはすでに説明しました。このときカヴァイエスは,第二種の認識すなわちカヴァイエスがいうところの学知scientiaによっては数学の正当性を証明することはできないけれども,それ以外の認識があるということ,いい換えれば公理系の内部の証明Demonstratioによっては把握することができない認識があるのであって,そのこと自体は第二種の認識によって把握できると考えていました。スピノザの場合はそれとは異なり,カヴァイエスにとっての第三種の認識があるということ,あるいは人間がそういう認識をすることが可能であるということも,第二種の認識によって僕たちは把握することができるといっていることになります。
ただし,この根拠となるような認識についてはスピノザは「あるもの aliquid」という語句で示しています。これは,僕たちは第三種の認識によって何事かを認識するcognoscereことができるということは第二種の認識によって認識することができるのだけれども,その根拠となる「あるもの」については,そのものの観念ideaが無限知性intellectus infinitusのうちにあるということは人間は理解できるけれど,それ自体を十全に認識するということは人間には不可能であるということが影響しています。つまり人間はそれを十全に認識することができないので,それを特定のある事物の観念というようにはいわず,十全に認識することはできない,何であるか分からないような「あるもの」といういい方をしてるのだと僕は思います。
「あるもの」が最初に出てくるのは第五部定理二三 です。少し検討してみましょう。
第21回ジャパンダートダービー 。
予想通りにヒカリオーソの逃げ。向正面に入るところでリードは2馬身。2番手はロードグラディオとサクセッサー。4番手にデルマルーヴル。5番手にトイガーとナンヨーオボロヅキ。7番手はドウドウキリシマとクリソベリル。9番手にウィンターフェルとデアフルーグ。11番手がグリードパルフェ。12番手にミューチャリーとメスキータ。最後尾にホワイトヘッド。前半の1000mは62秒1のハイペース。
3コーナーを回ってロードグラディオは苦しくなり,サクセッサーが単独の2番手。しかしこちらも直線の入口では一杯で,2番手に上がったデルマルーヴルが直線に入ってから逃げるヒカリオーソを抜いて先頭。それをマークするように上がってきたのがクリソベリルで,すぐ外からデルマルーヴルを差すと抜け出して優勝。大外から差してきたウィンターフェルと,デルマルーヴルとウィンターフェルの間を後方から鋭く伸びてきたミューチャリーがデルマルーヴルに迫りましたが,3馬身差の2着は残したデルマルーヴル。アタマ差の3着が中のミューチャリーで外のウィンターフェルはアタマ差で4着。
優勝したクリソベリル は兵庫チャンピオンシップ に続く重賞2勝目で大レース初制覇。ここまでの3連勝の内容から,まず負けることはないだろうと思っていました。早めに先頭に立っていたこれまでとは異なったレースでしたが,このようなレースでも勝ったということは今後に向けてはよい材料になるでしょう。無事にいけば大レースをいくつも勝てる馬だと思います。父は第4回の覇者のゴールドアリュール で父仔制覇。母の父はエルコンドルパサー 。祖母はキャサリーンパー 。6つ上の全兄が第15回 を制したクリソライト で兄弟制覇。Chrysoberylは金緑石という宝石の一種。
騎乗した川田将雅騎手はスプリンターズステークス 以来の大レース17勝目。ジャパンダートダービーは初勝利。管理している音無秀孝調教師は安田記念 以来の大レース12勝目。第15回以来6年ぶりのジャパンダートダービー2勝目。
公理系を理解するための認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisでした。したがって第五部定理二五 がいっているのは,公理系を認識するcognoscereための認識は人間にとっての徳virtusではあっても,最高の徳ではないということなのです。つまり,『エチカ』の公理系は,公理系を理解するための認識,要するに『エチカ』を十全に認識するための認識というのは,人間にとっての最高の徳ではないということを含んでいるのです。これは他面からいえば,『エチカ』を認識することは人間にとっての最高の徳ではないといっているのに等しいので,かなり思い切った内容が含まれているといえるでしょう。
ただし,『エチカ』の内容を理解することが人間にとっての最高の徳,すなわち第三種の認識cognitio tertii generisによって事物を認識するということに役立たないわけではありません。このことは第五部定理二八 から明らかだといえます。すなわち第三種の認識で事物を認識しようという欲望cupiditas,これは能動的な欲望というべきですが,この欲望は第一種の認識cognitio primi generisから生ずることはないけれど,第二種の認識からは,第二種の認識によって事物を認識することからは生じるからです。つまり『エチカ』を十全に認識することは,事物を第三種の認識で認識しようとする欲望を発生させることができるのです。ですから『エチカ』は,『エチカ』を認識することは人間にとっての徳ではあっても最高の徳ではないといっているのですが,最高の徳へ至ろうとする欲望は発生させるということも同時にいっていることになりますから,『エチカ』を理解することが,人間が最高の徳へと至るために何の利益も齎さないといっているのではありません。むしろそういう利益を齎すといっていることになります。よって『エチカ』の内容は,『エチカ』を理解することを,人間にとっての最高の徳について否定しているわけではありません。
一方,『エチカ』は公理系であって,公理系の中心の一部をなす公理Axiomaが第二種の認識の基礎となる共通概念notiones communesと等置される以上,第三種の認識によって,つまり人間にとっての最高の徳である認識によって何事かを証明するということはできません。いい換えればそれ自体が最高の徳を示すことはできません。
岩室温泉で指された第90期棋聖戦 五番勝負第四局。
豊島将之棋聖の先手で渡辺明二冠 の角換り拒否からの雁木。先手が左美濃から攻めていく 将棋に。途中の後手の反撃を受けなかったので攻め合いに移行しました。
後手が7七の角を飛び出した局面。ここから後手がうまく指しました。
まず☖6八歩☗同金 ☖同銀不成☗同王と清算。そこで☖7九金と打ったのがうまい寄せ方でした。☗7八銀打☖6九金☗同銀で同じような局面ですがそこで☖4九馬と取れば,先手の持駒が銀から金に代わっているので☗7八銀打の受けがありません。
☗8八金と引いたのは勝負手ですが☖7九銀と打ち☗5七王☖8八龍 ☗同龍☖同銀成で先手の龍を外し,後手玉が安全にして大勢を決しました。
第2図以下も先手が懸命に粘りましたが,後手がしっかりと寄せ切りました。
渡辺二冠が勝って3勝1敗で棋聖を奪取 。棋聖は初獲得。棋王,王将と合わせて三冠です。
第三種の認識cognitio tertii generisをスピノザが学知scientiaとして認めるということは,そもそもスピノザがいう第三種の認識である直観scientia intuitivaが,直観知すなわち知といわれていることからも明白なのですが,そのような語句としての観点から説明するより,こちらの方がスピノザが目指していた認識であったということからより明らかだといわなければなりません。すなわち,あの個物res singularisまたはこの個物と峻別できるような個別的な事物を認識するcognoscereことを目指していたスピノザにとって,もしもそういう認識ではない理性 ratioによる第二種の認識cognitio secundi generisが学知であるなら,第三種の認識も当然ながら同じように学知といわれなければならないであろうからです。逆にいえば,もし第三種の認識を学知ということができないのであれば,第二種の認識についてそれを学知いうことは,スピノザにはできないであろうからです。
このような理由から,僕は第三種の認識はスピノザにとって学知であった,学知でなければならなかったと考えます。ただし,それが学知であったか否かということ自体については,争うことはしません。スピノザが目指していたのは第二種の認識よりは第三種の認識であったのであり,よってスピノザは第二種の認識と第三種の認識を比較するなら,いい換えれば理性による認識と直観による認識を比較するなら,後者の認識の方を高く評価するだろうということに同意してもらえるなら十分です。
こうしたことはたとえば第五部定理二五 から説明することができます。第四部定義八 から分かるように,人間にとっての徳virtusは,人間が十全な原因causa adaequataとして働く力agendi potentiaのことをいいます。いい換えれば人間の能動 actioのことをスピノザは人間の徳というのです。しかるに人間が事物を十全に認識するとき,その人間は必然的にnecessario能動という状態にあります。よって第二種の認識ですなわち理性によって人間が何事かを認識するとき,人間はその何事かを十全に認識しているのですから,これは人間の徳であることになります。第五部定理二五がいっているのは,それは確かに人間の徳ではあるけれども,最高の徳ではないということなのです。最高の徳は第二種の認識としての徳ではなく,第三種の認識としての徳なのです。
昨日の小松島記念の決勝 。並びは山崎‐和田の北日本,南‐渡辺の近畿,太田‐久米‐小倉の徳島で簗田と山田は単騎。
和田がスタートを取って山崎の前受け。3番手に太田,6番手に山田,7番手に南,最後尾に簗田で周回。残り2周のバックから南が上昇。簗田も続きました。コーナーでは太田に蓋をした南はホームに入ってからさらに上昇。山崎を叩き誘導を斬りました。続いた簗田が3番手,叩かれた山崎が4番手,切り替えた山田が6番手,引いた太田が7番手になって一列棒状。南はそのまま緩めずに打鐘。太田はホームから発進。南も抵抗しましたがバックで太田が前に。一旦は離れそうだった久米も何とか続き,小倉まで出きりました。山田,山崎と外から捲ってきましたが,これは太田のスピードに追い付けず,直線でも粘った太田が優勝。内を回って直線では太田と久米の間を突いた簗田が半車輪差で2着。太田マークの久米は8分の1車輪差で3着。
優勝した徳島の太田竜馬選手は2月の高松記念 以来の優勝で記念競輪2勝目。このレースは自力型では太田と南の力が現状では上と思われました。ただ,場合によっては先行争いも考えられ,そうなればほかの選手にも勝機はでてくると見立てていました。結果的に南が太田を強く意識したようなレースをしたため,早い段階から全力で駆けていくことに。太田の位置を悪くしたのは南にとって成功でしたが,太田は積極的に巻き返していったことで,位置取りの悪さをカバーする形に。久米が完全に離れてしまっていれば苦しかったかもしれませんが,何とか食らいついたことで,太田もぎりぎりでしたが粘り込むことができました。久米にはチャンスがあった筈で,完全にマークしきれなかったのは悔いが残るところかもしれません。
スピノザの哲学における学知scientiaが,無限知性intellectus infinitusのうちにある観念ideaのすべてであるということは,認識cognitioのすべてが学知であるということを必ずしも意味するのではありません。第二部定理五 は,観念の形相的有esse formaleの原因causaが神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumであるといっています。第一部公理四 によれば,結果effectusの認識は原因の認識を含んでいなければなりません。そして第二部定理七系の意味 により,神のうちにある観念はすべて十全adaequatumです。ですからこの点からみると,すべての認識は学知になります。ですが,第二部定理一一系 によって無限知性の一部である人間の精神mens humanaは,無限知性の一部であるということを離れ,それ単独でみられる場合には,すべての事物を十全に認識するcognoscereわけではなく,混乱して認識する場合もあります。十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,真理veritasと虚偽falsitasの関係であると同時に有と無 の関係ですから,混乱した観念というのは,それがたとえばある人間の知性のうちにあるものとしてだけみられるなら,他面からいえばその人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念とみられないのであれば,無です。よってこの認識は学知ではありません。
したがって,神が何事かを認識するといういい方をすれば,そのすべてが学知です。ですが現実的に存在する人間が何かを認識するということだけでみれば,そこには学知であるような認識もあれば,学知とはいえないような認識もあるわけです。たとえば第二部定理三八 の様式である人間が共通概念notiones communesを認識するなら,この認識は学知です。しかし第二部定理一七 の様式である人間が外部の物体corpusを表象するimaginari場合には,その観念は学知とはいえません。つまり,人間が何かを十全にあるいは同じことですが真に認識する場合は,そのすべての認識は学知です。しかし人間が何かを混乱してあるいは同じことですが誤って認識する場合には,そのすべての認識は学知とはいえないのです。
よって,人間が事物を混乱して認識する場合,つまり第一種の認識 cognitio primi generisによって何かを認識するなら,それは学知ではありません。しかし第二種の認識cognitio secundi generisおよび第三種の認識cognitio tertii generisで認識するなら,それは学知というべきなのです。
日本時間の今朝にアメリカのベルモント競馬場で行われたふたつのレースに日本馬が参戦しました。
ベルモントオークス招待ステークスGⅠ 芝1・1/4マイル。
ジョディーは押してハナを取り,逃げるレース。向正面に入るあたりでは1馬身半ほどのリード。スローペースでの逃げでしたが,思いのほか隊列は長めになりました。3コーナーに入るところでリードは1馬身に。2頭が外から追いあげてきたのでコーナーの途中から手を動かしてスピードアップ。先頭のまま直線に。2番手でついてきた勝ち馬には抜かれて2番手に。さらに外から併せ馬で伸びてきた2頭にも抜かれ,勝ち馬からおよそ2馬身差の4着でした。
この馬は日本では重賞3着2回という実績。アメリカの芝はさほどレベルが高くないので,通用したとしてもおかしくはないというレベルの馬。楽なペースで逃げて2番手の馬に差されていますので,勝ち馬に対しては能力的に下だったということでしょう。もしかしたら距離も少し長いのかもしれません。
ベルモントダービー招待ステークスGⅠ 芝1・1/4マイル。
マスターフェンサーは押していましたが加速が鈍く後方5番手で向正面ヘ。ここから外を回って追い上げていきました。ただ,3コーナーを回ると押してもついていくことができなくなり,実質的に最後尾で直線に。そのまま14頭中の13着でしたが,1頭は競走中止なので完走した馬の中では最下位でした。
この馬は実績がダートに限られていましたので,芝のレースに対応できるかどうかがまず疑問でした。ベルモントオークス招待ステークスと比べると早いペースになったため,追走にも汲々となってしまいました。早い段階で脚を使ったので直線を迎える前に一杯になってしまったのは仕方がないところでしょう。国内外を問わず,芝で通用するためにはもう少しスピード能力のアップが不可欠といえそうです。
僕はスピノザは第二種の認識cognitio secundi generisも第三種の認識cognitio tertii generisも学知scientiaであるというと思いますが,この場合の学知は,僕たちが学知という語で意味しようとするところとは異なると考えます。少なくとも,カヴァイエス Jean Cavaillèsが何をもって学知といおうとしていたのかということとは異なっていると思います。つまりカヴァイエスがいう学知,これは僕たちが普通に使う意味での学知に近いと思いますが,この学知の意味が,スピノザの哲学ではずらされることになるのです。
第二部定理七系 は,形相的にformaliter存在するものはすべからく認識cognitioの対象になるということを意味します。僕はスピノザの哲学でいう学知は,この認識のすべてであると考えます。他面からいえば,それを学知というのでなければ,スピノザの哲学には学知はないというべきだと考えます。つまり無限知性intellectus infinitusによって認識されるものはすべて学知であるというべきか,そうでなければ学知はないというべきかのどちらかだろうと考えるのです。
第二部定理三二 は,すべての観念は神と関連する限りで真であるomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae suntといっています。スピノザの哲学では,真の観念idea veraの総体のことを真理 veritasといいます。したがってこの意味において,学知とは真理と同じ意味です。一方,第二部定理七系の意味 は,神Deusのうちにある観念はすべて十全adaequatumであるという意味です。スピノザの哲学では十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,真理と虚偽falsitasという関係だけを意味するのではなく,有と無 という関係も意味します。したがってこの意味においていうのなら,学知とは思惟の様態cogitandi modiとして有esseであるものと同じ意味です。
なぜ僕がそのように考えるのかといえば,第二部定理一一系 により,人間の精神mens humanaは神の無限知性の一部だからです。そしてこのことは,とくに人間の精神にだけ妥当するわけではなく,観念にはすべて妥当するからです。このゆえに,たとえば人間にだけ妥当するような学知というものがあるということはできず,学知というものがあるならそれは無限知性の観点から考えられなければなりません。しかるに無限知性の対象となるようなものは形相的に存在するすべてのものなのですから,その観念はすべからく学知といわれなければならないのです。
思惟Cogitatio以外のXの属性attributumにAがあり,思惟以外のYの属性に,Aと原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが同一のA´があるなら,このAとA´は別の事物であり,実在的に区別されなければなりません。このことは第二部定理七備考 と第一部定理四 から明白といわなければならず,スピノザが同意しないわけにはいきません。
チルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausはこのとき,Aの観念ideaとA´の観念は,共に思惟の属性Cogitationis attributumから,同一の原因と結果の秩序と連結で発生しなければならず,よって実際にはそれらは区別することができない同一の観念であると主張しました。ふたつの観念が思惟の属性を原因としなければならないということは第二部定理五 から明白です。そしてAとAの観念の原因と結果の連結と秩序は同一で,A´とA´の観念の原因と結果の連結と秩序が同一であるということは,第二部定理七系 から明白です。しかるにAとA´は原因と結果の連結と秩序が同一でなければならないので,Aの観念とA´の観念の原因と結果の連結と秩序も同一でなければなりません。ですからこの点についてもスピノザはチルンハウスに同意しなければならないと僕は考えます。
しかしスピノザは,Aの観念とA´の観念は,同じ思惟の属性を原因として,同じ原因と結果の連結と秩序で生じるのだけれども,同一のものであるとは認めないのです。これは書簡六十四 と書簡六十六 から明らかです。つまりスピノザにとってチルンハウスに対して同意できない内容 というのは,Aの観念とA´の観念が同一の原因から同一の連結と秩序から発生するので,それは単にことばの上で分別され,実際には同一のものであるという点にあるのです。他面からいえばスピノザは,Aの観念とA´の観念は,単にことばの上だけで区別されるというわけではなく,実際に区別される,思惟の様態cogitandi modiとして区別されるといっているのです。
僕が考えたいのはこのとき,Aの観念とA´の観念が区別され得るのなら,どのように区別されるのかということです。
カヴァイエス Jean Cavaillèsが『エチカ』を読んでいなかったとは考えにくいので,カヴァイエスが第三種の認識cognitio tertii generisを知らなかったということはあり得ないと僕は思います。ただ,カヴァイエスが第三種の認識は数学の認識に相応しい認識ではないと解していた可能性はあり,それがカヴァイエスが第三種の認識について何も言及していない理由になるかもしれません。
カヴァイエスにとって数学の認識は学知scientiaでした。このこと自体は一般的な考え方であって,カヴァイエスが何か特殊な考え方をしていたわけではないといっていいでしょう。このとき,カヴァイエスにとって学知は理性的な認識を意味していました。これも別に特殊な考え方ではないように僕には思えます。したがって,第三種の認識は,認識ではあっても学知ではなかったのです。少なくともカヴァイエスにとってはそうでした。ですから,カヴァイエスの数理哲学というのは,確かに近藤がいっているように,カヴァイエスにとっての,あるいはカヴァイエスが担保しようとした数学の正当性にとっての第三種の認識の問題ではあったのですが,その認識自体を学知とみなすことが,カヴァイエスにとって可能であったかどうかは僕には分かりません。というかこれはカヴァイエスの数理哲学自体を詳細に検討しなければ出せない結論なので,僕には分かりようがないのです。この問題というのは,カヴァイエスにとって,学知であり得るような第三種の認識を導出する問題だったかもしれません。少なくともスピノザのように,第三種の認識と第二種の認識cognitio secundi generisを異なった認識として分けてしまうのなら,第二種の認識が学知であり,第三種の認識は学知ではないとカヴァイエスはいうでしょう。スピノザは第三種の認識を直観scientia intuitivaといい換えるので,直観は学知ではないという見解は,やはりカヴァイエスに特殊な見解であるようには僕には思えないです。
ただ,スピノザにとって第三種の認識が学知であるか否かといえば,それは学知であると僕は思います。つまりスピノザは,第二種の認識も第三種の認識も同じように学知であることは認めるだろうと僕は思います。しかしこの僕の考え方には,注意してほしいところがあります。
ホクトベガメモリアルの昨晩の第23回スパーキングレディーカップ 。
ラーゴブルーは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。前に行こうとしたのはサルサディオーネ,ファッショニスタ,ゴールドクイーンの3頭で,とくに主張したサルサディオーネがハナに立ち,向正面に入って2馬身ほどのリード。ファッショニスタが2番手,ゴールドクイーンが3番手となり,巻き返してきたラーゴブルーが4番手に。5番手はミッシングリンクで6番手がオルキスリアン。7番手はマルカンセンサーとレガロデルソル。9番手がアッキーとマドラスチェック。11番手のローレライまで差がなく続きました。あとは離れてラモントルドール,フラワーオアシス。また離れて最後尾にリボンスティック。前半の800mは49秒1のミドルペース。
3コーナーを回ってもサルサディオーネの逃げ足は快調。ファッショニスタが押しながら差を詰めてきました。外からマドラスチェックが捲るように追い上げてきましたが,直線に入るところで前の2頭とは差があり,ここからは2頭の優勝争い。直線入口の手応えはサルサディオーネの方がよさそうでしたが,ファッショニスタは最後まで伸び,楽に差し切って優勝。逃げ粘ったサルサディオーネが4馬身差で2着。一旦は3番手に上がったマドラスチェックを,最内を回ったローレライと大外から伸びたマルカンセンサーが急襲。6馬身差の3着は最内のローレライ。マドラスチェックがクビ差の4着でマルカンセンサーがクビ差で5着。
優勝したファッショニスタ は重賞初勝利。前々走で1600万を勝ち,前走がオープンで2着。牡馬相手にこの成績なら牝馬重賞は通用のレベル。サルサディオーネは逃げられれば水準級の能力を発揮する馬で,それに大きな差をつけて勝ちましたので,今後のこの路線での活躍は約束されたものと思います。距離が伸びることがプラスに作用することはなさそうですが,1800mまでは十分に対応できる筈です。
騎乗した川田将雅騎手と管理している安田隆行調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。
理性ratioによってはあの個物res singularisまたはこの個物と峻別されるような個別的な事物を認識するcognoscereことができないということは,そのような個別的な事物を僕たちは認識することができないということを意味するわけではありません。スピノザはこのような事物の認識として,第三種の認識 cognitio tertii generisを示しているのです。この認識は,神Deusのある属性attributumの形相的本性essentia formalisの十全な観念idea adaequataから事物の本性の十全な認識に進むものであると説明されています。このとき,事物ということで,スピノザがあの個物またこの個物と峻別できる個別的な事物を念頭に置いていることは間違いありません。ですがこれを説明する前に,再びカヴァイエス Jean Cavaillèsの数理哲学を回顧してみます。
カヴァイエスは,公理系の認識は理性による認識であり,ゲーデルの不完全性定理 Gödelscher Unvollständigkeitssatzは,公理系の正当性を公理系は証明できないという意味に解していました。したがってそれは,理性による認識によっては理性による認識自身の正当性を証明することはできないということであったのです。そしてそれがカヴァイエスにとっての,あるいは不完全性定理における,理性による推論の限界でした。このときカヴァイエスは,理性による認識以外の認識によって公理系の正当性を,いい換えれば理性による認識の正当性を確保することができると考え,かつ,そのこと自体は理性によって認識することができる,いい換えれば公理系の内部で証明することができるという前提の下に,数理哲学を構築していったわけです。ですからスピノザの哲学に関連させていえば,カヴァイエスの数理哲学というのは,カヴァイエス自身にとっての,あるいはカヴァイエスがその正当性を担保しようとした数学にとっての,第三種の認識の問題であったということができます。実際に僕が再構成したこの部分の近藤和敬の発言を受け,米虫正巳がそれはカヴァイエスにとっての第三種の認識の問題であったのかという主旨の質問を近藤に投げ掛けていますが,近藤はそれに対してそういうことだと答えています。
ただし,カヴァイエス自身はこの点についてはスピノザについては何も触れていないそうです。そしてそこにはある理由があったのではないかと思われます。
名古屋で指された第60期王位戦 七番勝負第一局。対戦成績は豊島将之王位が4勝,木村一基九段が4勝。
振駒 で豊島王位の先手となり,木村九段の横歩取り 。手順は異なりますが,後手が中座飛車で中原囲いの,以前によくあった形になりました。
先手が2八にいた飛車を引いた局面。2六から2八に引き,さらに2九に引いているので,先手が手損をしていることになります。後手は☖2三銀 と形を整えました。
先手は☗3三角成☖同桂と交換して☗7七桂と跳ねました。飛車取りでこれは☖5五飛と逃げるところだと思います。先手は飛車を目標に☗6六角と打ち☖5四飛。そこで☗2五桂☖同桂と桂馬を交換。1一の香車が浮いているので後手は☖2二歩 と受けました。
先手の狙いはここで☗4六桂 と打つこと。後手は一旦は☖6四飛と逃げ☗5五角に☖1四飛としました。ただ角が中央に出たために☗8五桂が厳しい手に。
これは封じ手の局面 だったのですが,すでに大差になってしまっているのではないでしょうか。後手は☖6四飛のところで☖1四飛としても☗1六歩から飛車を狙われて厳しそうです。それ以外の後手の指し手はすべて仕方ないように思えますので,結果的にみると第1図は☖2三銀とは上がってはいけない局面だったようです。
豊島王位が先勝 。第二局は30日と31日です。
第二部公理三 についていえば,第二部定理七系 により,ある事物が形相的にformaliter存在するならその観念ideaも存在しなければならないことになっているので,すべての事物に適用されなければならない公理Axiomaであると僕は考えます。したがってこれを共通概念notiones communesとしてみるなら第二部定理三八 の様式で概念されることになります。そしてこれ以外の第二部の公理群を共通概念としてみれば,ある人間が別の人間に刺激されることによって概念されるものであるといえ,それらは第二部定理三九 の様式で僕たちに概念されるということになります。
このように,公理というのは程度の差こそあれ,何らかの一般性を有していなければなりません。スピノザはあの個物res singularisこの個物という具合に峻別されるような個別的な事物を認識するcognoscereことを目指している,最終的な目標としているのは確かなのですが,だからといってこのように峻別され得るある特定の個物にだけ適用されるような事項は,公理とはなりません。もちろん絶対になり得ないということはできないかもしれませんが,少なくとも公理として相応しくないのは確かでしょう。そのような事柄を公理として規定したとしても,それはそのように峻別されている個別的な事物について何事かを証明するためには役立つ,役立ち得るでしょうが,その他の事柄を証明するには何ら役立たないからです。
これで分かるように,公理が共通概念と等置できるのであれば,そこには何らかの一般性が含まれていなければならず,かつ同時にそれは十全adaequatumでなければなりません。いい換えれば共通概念が公理と等置することができるということを前提とするなら,公理というものが公理系においてどういう役割をもち,その役割を果たすためにどのような性質を有していなければならないのかということを考えるだけで,第二部定理三七 ,第二部定理三八,第二部定理三九といった定理群は,証明を必要とせずとも理解できる事柄なのです。
とはいえ,十全ではあっても一般的であるならそれがスピノザの目指すところではないことも確かです。それが理性ratioすなわち第二種の認識cognitio secundi generisの,スピノザの哲学における限界です。それはどう解決されるのでしょうか。
『外国人レスラー最強列伝 』の第13章,最終章は大木金太郎です。大木は韓国人ではありますが,日本陣営で戦った期間の方が長いので,あまり相応しくないと思うのですが,門馬としても大木については触れたいという気持ちが強く,ここに入れたということでしょう。
僕のプロレスキャリア が始まったときには大木は韓国に帰り,現地のヒーローでしたので,僕が見たのはそれ以前の日本の試合がVTRで放映されたものに限られます。たぶんそれも馬場との試合と黒い呪術師 との試合だけなので,レスラーとしての大木の真価については僕はあまりいうことができません。
大木は1959年に力道山の日本プロレスに入門。同年の11月にデビュー。デビュー戦の相手はレスラー時代のジョー・樋口 だったそうです。この頃,馬場,猪木,そしてマンモス・鈴木の3選手も入門していて,大きも含めた4人は力道山道場の四天王と呼ばれていました。猪木のデビューは翌年の9月。その相手が大木でした。
1963年12月に力道山の命を受けてアメリカに。馬場は渡米後ほどなくしてフレッド・アトキンス を師匠にしましたが,最初に馬場を迎えたのはグレート・東郷で,大木の場合も同様でした。すぐに指令通りにWWAのタッグ王者になったのですが,直後に力道山が急逝。翌年の2月に日本に戻りました。そして1965年に日韓基本条約が締結され,韓国でも試合をしました。猪木や馬場が離脱した後も日本プロレスに残り,日本プロレスが崩壊すると新日本,全日本,国際と,当時に存在した3つの団体のすべてのリングに上がっています。
馬場が日本プロレスのエースとなったのは,力道山が急逝したからです。力道山がもっと長く生きていたら,大木だけが日本に戻り馬場はアメリカに残っていた可能性が高く,大木と馬場のプロレス人生はもっと異なったものになっていたかもしれません、
理性ratioによる認識cognitioに限界があるということがスピノザの哲学に含まれている,あるいは『エチカ』の公理系には含まれているというのは事実です。ですがこれを考えるために,以下のことは忘れてはなりません。これは現状の考察とは関連しませんが,説明しておきましょう。
理性による認識,共通概念notiones communesによる認識が,いかにあの個物res singularisあるいはこの個物といわれるような個別的な事物の認識ではないとしても,十全な認識ではあるのです。このことは第二部定理三八 と第二部定理三九 から明白だといわなければなりません。したがって,スピノザは事物は一般的に認識されるほど混乱して認識され,個別的に認識されるほど十全に認識されるといっているのですが,一般的に認識されるからそれは混乱した観念idea inadaequataであるというわけではなく,一般的な認識のうちにも十全な認識というのもあるのです。
もっともこのことは,スピノザが共通概念を公理Axiomaと等置していることから明白であるといえるかもしれません。公理というのは公理系の根幹となるものですが,これはある程度まで一般的でないと成立しませんし,かといって混乱した内容を有している,誤った内容を有しているなら公理系自体が成立しません。とくにスピノザの哲学の場合,第二部定理四〇の4つの意味 のうちに,十全な観念idea adaequataからは十全な観念だけが発生するということだけでなく,混乱した観念からは混乱した観念しか発生しないということが含まれているからです。したがって公理の中に誤った内容が含まれていれば,必然的にnecessario公理系の全体が誤っているということになってしまうのです。
第一部公理一 は,すべてのものについて妥当しなければならない公理です。ですからこれは共通概念としてみるなら,第二部定理三八の様式で僕たちの精神mensのうちに発生する公理であるといえるでしょう。第一部の公理群はすべてそうだといえます。これに対して第二部公理一 は,人間にだけ適用される公理です。よってこれが僕たちの精神mensのうちに発生するのは,僕たちが別の人間に刺激されるafficiことで発生します。つまり第二部定理三九の様式で僕たちの精神のうちに発生する共通概念すなわち公理であることになります。
安堵securitasと絶望desperatioと歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusという四種類の感情affectusの解釈に関連する畠中説の不都合 がどこにあると僕が考えているのかは理解していただけたでしょう。しかしこれは,畠中の説には不都合が生じているというだけであって,僕の解釈,すなわち希望spesから生じ得るあらゆる感情は不安metusからも生じ得るし,また不安から生じ得るようなあらゆる感情が希望からも生じ得るという解釈の説明とはなっていません。すでに示したように僕はこのことを,希望と不安 が表裏一体の感情であるという第三部諸感情の定義一三説明 を根拠として解釈しているのですが,今度は,畠中の解釈には不都合があるという観点に関連した,別の根拠を示すことにします。
まず,第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三 から明らかなように,希望も不安も,過去だけに関連するわけではなく未来とも関連します。さらに,希望も不安も,あるものの観念ideaを単に伴っているような感情ではなく,ある観念から生じる感情です。スピノザの哲学において原因 causaというのは一義的に起成原因causa efficiensを意味します。生じるというのはものの,この場合には感情の発生を意味するのですから,ものの観念は希望および不安という感情に対しては原因でなければなりません。一方,単に伴っているといわれる場合は原因性を意味することはありません。たとえば第三部諸感情の定義六 の愛amorと第三部諸感情の定義七 の憎しみodiumは,外部の原因の観念を伴っているconcomitante idea cause externaeといわれているから観念の原因性を保持できるのであり,もし原因という文言がなければ原因性を認めることはできません。そうでなければ原因の観念という文言は不要になるからです。
よって,第三部諸感情の定義一四 の安堵と第三部諸感情の定義一五 の絶望は,過去だけでなく未来とも関係する上に,ものの観念の原因性を示しているのに対し,第三部諸感情の定義一六 の歓喜と第三部諸感情の定義一七 の落胆は,過去だけとしか関連できない上にものの観念の原因性を認めることもできないのです。まず僕はこの点,すなわち過去および未来との関連性と,ものの観念の原因性,他面からいえば実際に『エチカ』に記述されている文言を重視します。
理性 ratioによる認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisで,この認識は共通概念notiones communesによる認識です。共通概念がどういった概念であるのかは第二部定理三八 と第二部定理三九 で示されています。このうち第二部定理三八はすべてのものに共通する何らかの事柄に関する認識で,第二部定理三九はすべてのものではなく,いくつかのものに共通する何らかの事柄についての認識です。よって,第二部定理三八の方がより一般的な認識であり,第二部定理三九の方がより個別な認識に近いことになります。ですからスピノザが事物をなるべく個別に認識するcognoscereことを目指していたとすれば,同じ共通概念でも,第二部定理三八の様式で認識される共通概念よりは第二部定理三九の様式で認識される共通概念の方が,より好ましい認識であるということができます。このような見解を示している識者の代表はドゥルーズGille Deleuzeです。
ですが,第二部定理三七 によれば,どのような様式を通して認識されるとしても,共通概念は個物res singularisの本性essentiaを認識しているわけではありません。スピノザが目指すのは可能な限り事物を個別に認識することなのですから,それは個物を認識することであり,もっというなら各々の個物をあの個物またはこの個物としてより個別的に認識することにあります。ところが理性による第二種の認識は,個物をそのように認識するためには役立たないのです。つまりこのような意味において,『エチカ』には理性による認識の限界というのが示されているのです。いい換えれば,スピノザは自身が目指している事物の個別的な認識は,理性による認識では不可能であるということを認めているのです。
これはゲーデルの不完全性定理 とは何の関係もない限界ではあるのですが,限界が認められているという点にはとても意味があります。なぜなら,理性による認識に限界があるのだとすれば,その限界は乗り越えられなければならないからです。他面からいえば,理性による認識による限界を乗り越えるような,別の認識が必要とされることになるからです。これはちょうど,カヴァイエス Jean Cavaillèsが不完全性定理を乗り越えるために,公理系を証明するための学知scientiaとは異なる認識を必要としたということと同じです。