書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

製造番号。

2011年08月03日 21時53分19秒 | 日記
 東芝アンドロイドPC AZ/05Mを使っているんだけど。買った初期にわからないことがあって東芝のサポートに電話したときに、機種品番とか製造番号を起動中のマシンを裏返して読んでくれって言われたことがある。

 実際にはAZ/05Mの場合。「設定」ー「端末について」ー「システム情報」を開くと製品バージョンもシリアル(製造)番号も画面に表示できる。

 最近になって、ホームボタンを長押しすると「新着」とかいう表示が出ることを発見。ネット上の画像とかを保存するためには左クリックを長押しするってのは以前に書きました。それからメールを書いている時に右クリックボタンを長押しすると添付ファイルを選択することができるようになりました。(私がね。)

 あ、そういえばヘルプファイルが更新されていたっけ。ちゃんと読もう。でわまた。

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蛍光灯型LED。

2011年08月03日 15時57分48秒 | 日記
 直管型蛍光灯と交換して使うLED照明というのがあるけど、蛍光灯というのは安定器にトランスとかグローランプとかが入っているから、管だけをLEDに交換しても無駄な電力が多いんじゃないかなと思っていた。

 そしたら事故が多発しているそうです。

 怪しいと思ったんだ。

 詳しくは建築屋さんが書いてます

http://hirao-a.at.webry.info/201105/article_7.html

 だから器具自体からLED専用のものがあった方がいいなと思ったんだけど、なぜか製造も販売も嫌がるところが多い。

 LEDだったら安定化電源とか安く売ってると思うんだけどな。ダメなのかな。うーむ。
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クソゲー心理。

2011年08月03日 15時11分01秒 | 意識論関連
 「モバイルソーシャルゲーム。」所謂クソゲーが利用している心理とは。ヒトという種の習性、競争心の源は生物学的社会形成習性に由来する順位欲の現れである。

 ヒトという種の生物というのは、感情や欲求といった情動行動に由来する行動程無意識行動であるということが認識しずらい傾向があり。非合理的行動に簡単に陥りがちである。

 クソゲーの中で、どんなに高い得点や順位を得たとしても。それらはクソゲー会社がでっちあげた価値観であって、個人的価値観とは無関係である。

 結局、クソゲー会社が儲かるだけで。得点や順位に執着して金を支払った者は、気分的満足を得るだけに過ぎない。

 勘違いしてはいけないのは、こうした気分的満足というのは個人的な価値観に由来するものではなく。あくまでクソゲー会社から「提供」された価値観に基づくものである。

 これは、「ゲーム内部での得点順位。」という抽象化された「エサ」に対する無意識、機械手続的条件反射行動習性に過ぎないからこそ、多数のヒトがひっかかることにもなるのである。

 また、マヌケな話で「多くのヒト」が引っ掛かっていると、その多数性が作り出す集団心理によって、気分的な安心を促し。むしろ「みんながやっているのに自分だけやらないと、社会からとり残されてしまうのではないか。」という強迫観念まで生じてしまうのである。

 「多数。」とか「世間。」というのは羞恥心を撹乱するのである。

 だからこそナチスのようなカルト集団に多数のヒトは洗脳される。

 洗脳というのは理論的思考から作り出されることはない。ヒトという種の生物に予め組み込まれた習性によって作り出されてしまうものなのである。


 現在の教育制度における「自発性」というのものは、クソゲーにおける得点順位と同様の抽象化された「エサ」に対する機械手続的条件反射として促されているだけの学力であるため。実質的には全く身につかず、また人格も全く養われないのである。

 「文武両道」などという観念も、実質的には何の効果も存在しないのである。科学一本だった学者であっても人格者はいるし。逆に懲役刑を何年受けても人格は養われない。

 なんでもかんでも「バランス問題」にしておけば気分的に安心なのが大衆凡民の論理的根拠のない観念であり、こうした観念こそが無為無策の原因なのである。

 漫然と観念に囚われ続けることを、多くのヒトは「怠慢」とは思っていない。それは「思い。」であって、本質的合理性を追求する「考え。」ではない。

 どんなに気分的に頑張ったつもりになっても、それが必ずしも実質的効果を伴うとは限らないのだが。ヒトというのはある程度信じ込んで行った行動というものを事後正当化しないと気分的に嫌になるため、いつまでも同じ観念を持ち続ける習性がある。

 こうした気分が作り出すのが固定観念であり。それこそが無駄な努力に執着し、実質的な効果を持つ行動への忌避を促すことにもなるのである。

 それこそが本当の「怠惰」であることを、多くのヒトは認識したがらない。

 めんどくさいわー。
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利己主義は個人主義ではない。

2011年08月03日 14時42分16秒 | 意識論関連
 チンパンジー眼球に白目がないのは、集団内部の他の個体に対する「騙し。」が行えるからだという。

 ところが、こうした利己的行動のことを、生物学者共は「個人主義。」などと蔑む。

 利己性が集団に存在したとしても、結局は利己的であることに何ら変わりはないのである。

 カルト宗教や暴力団の類が集団に対しての自己犠牲を発揮しても、それは鉄砲玉。或は特攻でしかないのである。

 本当の個人主義というものは、利己性とは直接関係がない。むしろ、本当に純粋に個人的価値を追求していればこそ公益性が発揮されるのであって。こうした事実を無視している生物学者共の漫然とした無意識性こそが、生物学会という集団主義に彩られた利己主義なのである。

 誰が本当に個人的価値観を大切にしているのかを知ることは困難ではある。だが、少なくとも通り魔が個人的価値観を大切にしているとは言うことができない。

 無差別に不特定多数の「社会」「世間」に迷惑をかけなければいられない自己中心的行動というのは、本質的な自己としての個人的価値観を持たない人間特有の行動パタンである。

 イヌであれ、チンパンジーであれ、野生動物というのは狂暴であることに何ら変わりはないのである。

 単なる集団内部における利己主義を抽出しても、それは種における行動習性を抽出しただけであって。こうした従来の生物学のパラダイムに基づいている限り、そこからは「ヒトという種とは、こういうものである。」という傾向しか抽出することはできない。

 どんなにたくさんの傾向を抽出しても、それは反証主義において絶対である証明にはならないのである。

 ヒトの多くがバカであることを多数抽出しても、ヒトの全てはバカであることの証明にはならない。なぜなら、バカをバカであると認識できればバカではなくなるからだ。

 生物学者のほとんど全員がバカでいられるのは、気分的にそれが安心であるからであり。こうした「気分。」という大脳辺縁系の反射に行動が左右されていることこそが、バカがバカであることの所以に他ならない。
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