書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

マイクロポンプ。

2011年08月25日 22時23分56秒 | ネタ帳
 以前、冷却ヘルメットが商品化できないのかなって話を書いたんだけど。その時に紹介していたマイクロポンプは主に医療用のもので、それなりに大きかったんだけど。

 マイクロモーターでググっていたらこんなサイトを発見。定格電圧6vなんだけど、凄くちっちゃくて、良さげ。

http://www.cik.co.jp/product/motor/cik_web/japanese/f_products.html

 さて、どうやって電圧を下げるのかが問題。
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誰でも、いつかは死ぬ。

2011年08月25日 12時49分00秒 | 意識論関連
 ヒトは誰でもいつかは死ぬ。この事実の捉え方には二通りある。

 一つは、死ぬという事実を認識したくないので、意識から外して無視し、目先の快楽だけを追求することであり。

 もう一つは、死ぬという事実を認識した上で、本質的心の平穏を求めることである。


 養老孟司に限らず、ヒトの多くは自分が死ぬことを「意識から外す、無視する。」ことによって、目先の快楽を追求し続ける自己の行動を事後正当化する。

 「無視。」とは、意図的「盲。」である。しかし、この場合における「意図的。」の動機とは、あくまで大脳辺縁系の反射による、感情とかその場限りの気分による「意図。」であり。これは本質的には合理性を持った意識的な意図や意思ではない。

 この世の全てを意識するとか、何事も全く無視しないなどということは、一人のヒトには原理的に不可能なものであり。そんなことをしろと論じているわけではない。

 一人のヒトが出来うることには限界というものがあり。それはとても小さなことであるという事実を踏まえた上で。自分に出来ることを可能な範囲で行うことで、社会に参加すればいいのである。

 大脳辺縁系にとって、本質的意識というもの、統合的な論理的思考判断というものは、「気分」が悪いものなのである。大脳辺縁系の反射というものは、進化的に人間の統合的な論理的判断を行うためのものではなく。あくまで進化生物学的な淘汰の「結果。」に過ぎない。

 「結果。」自体はもはや動かしようのない現実である。しかし、「結果。」だけでしか行動を選択することが原理的に不可能であることの論理的証明があるわけではなく。それは一面的な「現実」ではあっても、それ以外が存在しない本質的「現実。」とは言い張ることは出来ないのである。

 「自分はバカだから。」とか、「自分はせっかちだから。」といった。バカとかせっかちであることを事後正当化するためのあらゆる屁理屈というものは。既に存在しているだけの「現実。」の自己。既存在としてのヒトとしての自己を肯定しているだけであり。それはむしろ、現在における自律的、自発的な選択可能性を無視した事実誤認、現実逃避に他ならない。

 一面的な現実だけを全てであると言い張ることは、実際には事実全体を認識することを拒絶するための言い逃れ、取り繕い、泣き言でしかないのである。

 「どうせ、自分は死ぬんだから。」となげやりに無責任行動を採るのは簡単である。大脳辺縁系というのは、無責任になることこそが快楽なのである。そういうふうに出来ている。だから「ヒトとは、そういうもの。」なのである。

 だが、ヒトというものは、単なる生物種としてのヒトである以外に一切の行動選択が不可能であることの証明など存在しないのである。その事実を踏まえた上で、なげやりにならずに自分のできることを積極的に行うためには。本質的自発性が不可欠なのである。

 本当の責任行動というものは、自律的な判断によるものでなくてはならない。その自律というものは自発性の中にあり、他にはない。


 アップル社CEOのスティーブ:ジョブズは、すいぞう癌に罹っているそうである。

 どんなに社会的に成功しても、最終的には、金とか多数他人の評価によって自分の人生の品質が決まるわけではない。

 ましてや目先の快楽を追求すれば、それはむしろ後悔の自責、良心の痛みに苦しむのがオチである。大衆凡人の多くは、目先の快楽の追求こそが人生の品質であると錯覚する。「今、自分や自分達だけが快楽で安心であれば良い。」というのは。自分や自分達以外や、将来のことを無視した現実逃避であり。人間としての責任ある行動選択を放棄するための言い逃れ、取り繕いなのである。

 社会的責任を放棄した他人を見て、「こんな奴は、死ねば良い。」と、誰しもが思うであろう。それなら、「他人のフリ見て、我がフリ直せ。」の言葉通りに、「こんな自分では、生きるに値しない。」と思うのであれば、「生きるに値する自分とは、どういうものであるか。」は、自ずと誰もが認識可能なのである。

 そこで、多くのヒト達は自分の欠点を認識すると、ただ気分的に凹むとか。ただ気分的に落ち込むだけで、どうしたら自分の欠点を直せるかという論理的な解決策、対策というものを一切しようとしない。

 そのための屁理屈の多くが、「私は今まで、ずっとそうしてきた。だから、今更治らない。」というものである。

 長い間習慣にしてきてしまったものは、確かに「治し難い。」であろう。しかし、それは論理的に絶対に治らないことの証明にはならない。

 要は、「気分的に治すのが嫌だ。」と言っているだけのことなのである。

 自分の気分、大脳辺縁系の反応反射というものを客観視し、気分的に「嫌。」などというのは副腎皮質ホルモンである不安物質が脳に作用しているだけであることを認識すれば、自己の気分を無視して論理的な解決策、対策ということも可能にすることも出来るのである。

 私自身は生れつき大脳辺縁系の活動が緩やかなので、もしかすると比較的感情に左右されにくいのかも知れないが。大脳辺縁系の活動が活発であっても、自己の感情を客観視して合理的に自己の意識を改革するための具体的方法論があるかも知れない。しかし、それは大脳辺縁系の活動の活発な人でなければ見つけることは構造的に困難なのである。


 ただ、大脳辺縁系の活動の活、不活に依らず。ヒトというのは少なからず成育環境の影響は大きいものである。

 幼少期から虐待をされて育った人の場合、虐待を連鎖しないようにすることだけでも意識は手一杯であろう。そういう人の場合は自分の世代で虐待の連鎖を止める、緩和するというだけでも充分に社会的役割にはなっているのである。

 一人の人が出来ることと、自分にできることというのは。社会全体から見れば小さなことである。「これさえやっときゃ。」的に短絡的な解決策などというものはなく。あくまで小さなことの積み重ねこそが社会全体を支えていることを認識すべきである。

 だから、自分に出来る範囲のことをきちんと行うことが重要なのである。

 私が腹立たしいのは、生物学や哲学界における、慣習的な固定観念による体制維持体質であり。本来最も「考え。」なければならない社会的責任を負った者でありながら、漫然と固定観念のまどろみに浸っているバカ学者共の怠慢であり。それを放置する文系のマスコミ各社である。


 社会的役割を果たさないことが、社会的には露呈していなくても。自己自身の無責任性によって、自己自身の評価を失うことになり。結果的に精神の安らぎを失うことになるのである。それこそが精神の余裕を失わせ、ますます無責任行動の取り繕いにばかりに意識が奪われることにつながるのである。

 こうしたスパイラルを、大脳辺縁系というのは促す性質がある。それを生物学的な結果論をどんなにたくさん並べても、スパイラルに陥ることが人間として正しいことの論証にはならない。「ヒトとは、こういうものである。」ことの一面的事実をどんなに枚挙しても、そこから「人間とは何か。」を論ずることは原理的に不可能なのである。

 一面的事実を、ただ漫然と枚挙するだけでは、一貫した理論に基づく普遍的な考えというものは出て来ない。何が間違いで、何が原因なのか。それを丹念に追求するのは、本質的意欲であり、自発性である。ただ漫然と社会的要請に従うだけの学者は、平気で「そこまで追求したら、キリがない。」などと言い出す。

 尼崎の鉄道事故調査委員会の報告書の手抜きは、そうやって行われたのである。

 畑村洋太郎がそんな手抜きをするであろうか。肩書が同じ人であっても、その本質的自発性の有無によって、社会に対する貢献は大きく異なるものなのである。

 だから小柴昌俊は「これなら自分は一生続けることが出来る。そういうものを見つけなさい。」と言うのである。

 「だって、見つからない。」などというのは泣き言や手抜きのための屁理屈に過ぎない。絶対に見つけることが不可能であることの論理的証明にはなっていないからである。

 私の言うことは小柴みたいに大衆の気分を損ねないようにオブラートに包んだりはしない。それが気分的に嫌なのは、私の知ったことではない。気分的に嫌なのは私のせいではなく、あなたの気分、大脳辺縁系の構造や既に刷り込まれた価値観による固定観念に起因するものであるからだ。

 「既に存在していた社会が悪い。」からといって、自分の行動や意識を変えることを拒絶するのも取り繕いである。それこそが現状への迎合であり、問題を先送り、無視する最も忌まわしいヒトの習性だからである。

 私が私自身の行動改革をどんなに行っても、それは私の行動にしか影響を与えることはないのである。それは社会的にはとても小さなことであり。また、あなた自身の行動改革であっても同様である。

 だが、その小さな影響の集積こそが社会の方向を作っていることを、忘れてはならない。

 誰が言ったか忘れたが、「微力ではあっても、無力ではない。」のである。



 ヒトの意識の9割は無意識である。無意識な行動に流されることは簡単なことである。だからそれは非常に大きな「力。」を持っている。無論、こうした無意識な「力。」には方向性があるわけではない。

 だからこそ、なをさら本質的意識による行動選択というものは必要なのである。

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