書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

救済。

2011年08月17日 22時18分02秒 | 意識論関連
 ニーチェが論ずる「救済。」とは、精神的な救済のことであり。気分的、感情的な救済のことである。

 本質的意識を持たない、本質的合理性を追求することが嫌いな者というのは。その思考の短絡性を事後正当化するための取り繕いとして、その場限りの気分的救済を求めて満足するのである。

 ナチスのポーランド絶滅収容所のアドルフ:アイヒマンが、数百万のユダヤ人を死体に変換する計画書を書き続けたことを事後正当化して、その場限りの気分的救済と称して自己満足するための屁理屈とは、「私はただ、忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」というものである。

 彼は、こうした屁理屈によって本質的意識を「なかったこと。」にすることで、気分のおもむくままにナチス体制への忠誠心だけを満足させたのである。

 ニーチェの言う「救済。」というのものは、自己の意識を狭窄化させ、ただひたすら特定の情動のおもむくままに行動することができるようになるための、思考停止の方法論である。

 それによって、意識の表層だけを満足させておくことを「救済。」というのである。

 何も考えずに、ただ気分を満足させておけば。本質的意識を働かせずに済むため、その場限りに気分だけは満足である。

 アイヒマン実験の被験者において、自分の行ってしまった行動を事後正当化するための屁理屈は「被害者となった者が悪い。」というものである。

 それがニーチェの言う「救済。」の正体である。


 ニーチェを読むと、多くのバカは気分的に満足するらしい。何ら論理的根拠もなく自己を正当化して構わないと勝手に勘違いすることが出来るからであろう。

 本質的意識の働かない者にとって、論理的思考を停止させ、ただ意識の表層の気分だけを満足させておくことだけが意識の全てである。

 従って、こういうバカに本質的意識とは何かとか、本質的合理性の重要性を説いても大抵は徒労に終わる。最初から論理的には「理解」するつもりが全くないからだ。

 バカにとっては論理的根拠というのは気分を害する厄災でしかない。

 本質的意識とは何かを知ることには、何ら気分的満足など伴わない。なぜなら、気分的満足という大脳辺縁系の条件反射とは無関係に、論理的かつ純粋に「考える。」ことを意味するからだ。

 既に自分が行ってしまったことや、自分が信じ込んでしまっていたことを疑い。場合によっては覆すことというのは、気分的には楽しいことではない。自らの愚かさを認識することというのは、自らの無能を認識することでもあり。気分的には痛みすら伴う。

 カルト宗教の信者達が、なぜカルト宗教をやめることができないのか。それはひとえに「気分が悪い。」からである。

 「やめることができない。」というのは、脳内物質ドーパミンが持つ「常習性。」の働きそのものである。繰り返し無意識に「学習。」してしまった行動というものへの情動的な安心を、ドーパミンの常習性は作り出す。そしてそれが無意識な情動行動というものを作り出すのである。

 アイヒマン実験において、権威に逆らうことは気分の良いことではない。ヒトとしての行動習性として刷り込まれてしまった服従行動に抗うのは、理性である。

 権威への決別を行う時には感情的にはなるが。その感情とはあくまでネガティブな感情であり、決して服従し続けることの安心快楽は得られることはない。

 アイヒマン実験において、権威に服従し続けることこそが、精神の「救済。」なのである。

 それを「時代が悪かった。」だの「社会が悪かった。」などと、自己の環境依存性の結果を言い訳にすることは、論理的には不可能である。

 しかし、そうした自己の環境依存性すらも、ニーチェは「運命愛。」と称して事後正当化するのである。

 何度も言うが、ニーチェというのは哲学ではなく。ゾロアスター教という新興宗教に過ぎないのである。

 それがナチスという思考停止の集団を「精神的。」に支えたのである。

 故に600万人ものユダヤ人を平気で死体に変換することが可能になったのである。

 学校で発生するイジメであっても、精神的には同根である。意識を失い、酔っ払ったかのように暴力の快楽に任せておくことも平気になれる。「ヒト。」とは、そういうものなのである。

 自己自身にそうした習性があることを前提に、それを運命などと無為無策に流されないように自律的に自己の行動選択を行うのが、本質的意識の役割である。

 本能に抗うことというのは精神的には平穏ではいられない。そこに精神の「救済。」などというものは、初めから構造的に存在しないのである。

 精神的な「救済。」を促すニーチェなどのカルト宗教ほど、多くのヒトの「心。」を掴むものである。しかし、この場合における掴まれた「心。」とは、本質的には人間としての優しさを持った本当の「心。」ではなく。あくまで意識の表層の気分的快楽を促しているだけの錯覚なのである。

 本質的合理性を伴う思考なくして、本質的な「心。」というものは生じることはないのである。

 単なる気分や感情を「心。」と呼ぶのは、大衆観念に過ぎない。

 「何となく、そんな感じ。」というアプリオリな感覚に基づいていたのでは、論理的思考というものは成立しない。

 ところが意識のないバカにとっては、刷り込まれた観念の方が気分的に安心であるため。論理的思考に基づく認識など、何が何でもヒステリックに拒絶しないといられないのである。

 残念ながら、世の中の大多数の大衆は論理的思考などしたくないのが実状である。


 イジメなどの「ヒト。」が引き起こす諸問題が解決しないのは。そこに合理的な解析や対策が全く行われないからである。

 その原因とは、精神的「救済。」なんぞを求めているからである。

 何も考えず、何も疑わなければ「安心。」であろう。何も考えず、何も知ろうとしなければ「救われる。」のであろう。

 だが、その「救い。」とは動物の本能的な快楽を指しているだけである。

 通り魔は無差別殺人に「救い。」を求める。

 通り魔が「不特定多数を殺害しさえすれば、全ては解決する。」という短絡的最終解決策に「救済。」を求めるのと同様に。無為無策な大衆は「権威にお任せしておきさえすれば、この世の問題の全ては解決する。」と思い込んでいるのである。

 「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的最終解答は、大衆の頭の悪さと親和性が良いのである。

 問題を解決するためには、地道な積み重ねや、一人一人の心掛けが必要なものが少なくはない。

 「これさえやっときゃ、本質的意識が得られる。」というような短絡的な方法論は存在しない。むしろ、日々の行動判断の一つ一つを自ら検証してゆく地道な意識改革こそが重要なのである。

 意識論というのはバカの気分が良くなるような話ではないのである。


 目先の気分的「救済。」というものは、社会的価値とは無関係である。カルト宗教の信者がカルト信仰をやめなければ気分的には「救済。」である。こうした気分的、情動的な自己満足こそが、論理的思考判断を失う原因である。







 *ちょっと覚書:天野敦之 城南信金CEOが紹介。今WBSの「スミスの本棚。」で紹介していた。
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教育関係者。

2011年08月17日 13時37分55秒 | 意識論関連
 日本国民は全ての人が教育については考えなければいけない。

 教育というのは社会的基盤であるから、「俺は知らない。」で済まされる話ではないのである。

 もし教育関係者が「部外者。」と称して排除するのであれば、これはとんでもない大嘘なのである。

 基本的に日本国民のほとんど全員はかつて学生だったのであり。当事者なのである
 教育というのは聖域などではない。

 学力が高いだけで公益倫理的な自律判断もできず、教えられたこと以外何もできないバカを大量生産されていては社会的損失にしかならないのである。

 そういうバカが原発を暴走させたのである。


 根本的に今の学校授業は面白くない。学生が知りたいと思うことを、もっと大量に教えてゆくことが大事。生徒の本質的自発性を引き出すことができれば、必要な知識はほったらかしておいても勝手に勉強するものである。

 そうした当人にとっての必要性に基づいた学習をさせないから、テストのためだけの学習になってしまうのである。

 ビジネスとしての教育システム任せにしているだけでは学力成績と肩書以外に何も身につかないのである。



 今年の設計製造ソリューション展には学生の姿が多かったようである。これはとても良い傾向ではないだろうか。出展者からするとビジネスには直結しないから邪魔なのかも知れないが、展示会のように最新の技術に触れておくのは下手な学校のイベントよりもずっと知識を広めることができるだろうし、何より当人達が楽しいのではないだろうか。

 もしかして出展者からすると、採用の前フリにもなるのかも知れないし。展示会というのは会社を紹介するために、わざわざお金を出して出展しているので。相手が誰でも一生懸命説明してくるのではないだろうか。

 もし、就職したい会社というのが見つかれば、それが学習の励みになることもあるだろう。

 放送大学の副学長も言っていたが、学ぶことは楽しむことが大切なのである。

 本当は、新しいことを知るということは楽しいものなのである。それを学校が失わせていることが、社会にとっての最大の損失なのである。

 学力だけ向上させておいて、社会貢献だと思われてはたまらない。学力の高い通り魔とか、天下り役人とか、原子炉を暴走させる技術者とか、建築強度偽装をする一級建築士とか。そういう迷惑なヒトは要らないのである。

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使えない。

2011年08月17日 11時37分57秒 | 日記


 ツイッターが使えなくなった。

 原因不明。ログインボタンを押しても反応なし。使えた時からどうも動作が重かったんだよね。ヘルプも読めなかったし。

 ツイッターやるなら東芝AZ/05Mはやめた方がいいです。

 ツイッターって結構影響力が凄いので、これが使えないとネット上では「いない。」のとあんまり変わらないです。

 そもそも、あんまり目立ちたい方でもないので、別にいいんですけどね。

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改行コード。

2011年08月17日 11時08分34秒 | 日記
 時折、記事によっては改行コードが認識されなくなってしまうことがある。

 TEXTエディタとHTMLエディタの切替がおかしいらしいのだが、直すことが出来ず面倒。

 読みにくいのはご勘弁。
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イジメ。

2011年08月17日 08時48分32秒 | 意識論関連
 ここのところアクセスIPが増える傾向があるのだけど、その原因がどの記事に由来するのかはgooブログでは無料ではわからない。単にデジカメの懸賞を紹介したのが原因かもしれないけど、学校でのイジメに関する話にアクセスしているかも知れないので、もう少し書いておこうと思う。  実際に学校でのイジメを無くすためには、子供達が勝手に作り出す習性的な「社会性。」、生物学的な社会形成習性任せにしないことである。  具体的には子供達だけで放置しないことである。「協調性を養うため」だとか言う屁理屈は単なる教師や親の手抜きの言い訳でしかない。イジメという「協調行動。」を養っても、人間性は全く養われないばかりか、むしろ心に大きな傷を与えて社会に出た後に重大な悪影響を及ぼすことの方が多い。それは本質的には協調性などではない。  その意味において、学校内部に監視カメラを設置するのは悪いことではない。学校内というのは生徒にとっては公共空間であって、イジメを「プライバシー」などとは言うことができないのである。  生物学的な社会形成習性というものは、服従する対象の存在が非常に大きく。大人の目があればイジメというのはエスカレートすることはない。ましてや動画で「証拠」が残る状態であればなをのことであろう。  だが、こうした物理的対策だけでは根本的解決にはならない。根本的には通り魔になるようなヒトを育てないことであり、そのための教育でなければ社会的存在価値はない。  ただ漫然と教師の言うなりに服従するだけの従順な生徒を育てた方が、教師にとっては簡単である。徹底して服従を強要しておけば良いからだ。だが、それは本質的には手抜きでしかない。そうした手抜き教育によって育った教師しかいないから、結局は人手不足、人材不足に陥るのである。  そのためにも、従来の生物学における「社会性。」という根本的な誤りを正さなければならない。脳科学というのは生物学の一部に分類されており、生物学的社会形成習性を人間性と混同している限り、本質的な人間性を伴った「社会性。」とは何かについての研究は一切成されないからである。  これは私に言わせれば、もはや犯罪である。  大衆やマスコミが「脳トレ。」の類に満足してうかれているから根本的な問題が蔑ろにされるのである。「脳トレ。」類など、いうなれば「クソゲー。」「ヒマゲー。」でしかないことを認識すべきである。  生物学者達にとって、学校でのイジメなどというのは他人事に過ぎない。ヒト以外の研究も大切ではあるが、ヒトについての研究が全くされないというのは異常である。  イヌに見られるような協調行動というのは、そこに異常なまでの服従習性が根本にある。それこそがイジメという異常なまでの協調行動を作り出していることに、今更疑うことの方が頭がおかしい。  悪いことであると「知って」いながらイジメを行ってしまうこと自体は、どんなに学力成績が高くても人間として出来損ないであることを、誰も認識していない現状を維持していることこそが異常なのである。  多くの大衆凡民は、自分が育った環境というものを事後正当化したがる性質がある。自分の世代でイジメがあったことを、あたかも「社会勉強のひとつ」であると言い張るのは、単なる虐待の連鎖の一種に過ぎない。こうした愚かさを民主主義の手続きに基づいて存続させておいて、社会が悪くなることはあっても良くなる訳がないのである。  民衆がバカしかいないのであれば、民衆主義の制度をどんなに徹底しても、それは単なる「バカ主義。」にしかならないからである。  「難しいことはわからない。」というのであれば、教育についても関わるべきではないのである。権利ばかり主張して義務を果たさないヒトがあまりに多すぎる。だから「モンスター○○」というのが蔓延する。どんなに学生時代に学力が高くても、点数にならない新しい知識に全く興味がないのであれば、それこそが学力という抽象化されたエサに対する機械的条件反射行動の結果としての学力でしかなく、それこそがバカの大量生産の弊害なのである。  過去に何が出来たかが重要なのではない。今現在何ができるのかが重要なのである。  本質的な「人間とは、何か。」というのは、たとえ現在の義務教育において教わっていなくても、社会人として全ての人が知っていなければならないはずのことである。たとえ教員免許を持っていても、本質的意識とは何なのかが理解できないようなバカが教師を続けられる現状自体が根本的に間違いなのである。一級建築士の免許を持っていても、根本的にバカなら社会的には損失しか生まないのと同じことである。  そもそも、義務教育というのは、子供達にしてみれば国家権力による強制的集団軟禁状態であり。それ自体が子供達にはストレスの原因なのである。そのストレスがイジメの一因ともなっているのである。外からの不審者にばかりに警戒して、学校内での犯罪者を放置して良いわけではない。  学ぶことは権利であって、本来義務ではない。どのようなことを具体的に学ぶのかの選択肢の狭い現在の教育ビジネスにおいては、義務ばかりが強調されており、学ぶことの権利は規制されている状態なのである。  教師が教え込みたいことだけを教え込み、それ以外の知識を隠蔽統制されている現状というのは。本質的には学ぶことの権利が奪われている状態なのである。何も知識を広めることができなかった時代と現代を同列に扱うのは間違いである。  学校に通り魔が侵入するとマスコミは大騒ぎするが。陰惨なイジメがあってもマスコミというのは「多数」の事件については「日常的」であるとして報道はしない。マスコミというのは稀な事件、センセーショナルなことしか大きく取り上げることはないのである。   溺死の大半は海や川で起こるのではなく、実際には風呂場が95%以上である。だが、マスコミにとって風呂場での溺死は「日常茶飯事」なので報道しないのである。  通り魔に関しては、物理的対策というのは事実上不可能である。根本的対策としては、通り魔を行うようなヒトを育てないことが最優先されるべきなのであり。学校に対する漫然とした怨念を持った人物を大量生産しておいて、学校だけ安全性を確保されても、社会的には迷惑でしかない。  秋葉原の歩行者天国中止であっても、それは通り魔に対する論理的対策にはならない。通り魔と歩行者天国の相関関係など初めからないからだ。それは学校内においても同じである。  素性の知れた大人が学校内に多くいる方が、少数であるはずの異常者に対する抑止にはなるはずである。その異常者というのが、通り魔であってもイジメを行う生徒であってもである。
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台所の流し。

2011年08月17日 08時30分27秒 | 日記
 台所の流しっていうのは、基本的には熱湯を流してはいけないらしい。

 でも熱湯は流すよね。

 インスタントの焼き(ふやかし)そばの湯切りをすると「ベコン。」とか音がしたりするけど。あれを繰り返して大丈夫なのかな。

 冷や麦を茹でた後とかも、ザルに熱湯ごと大量に流したりもする。

 でも、流しの下の配水管って塩化ビニールだったりする。

 いいのかな。壊れたら大変だよね。

 基本的には台所の流しは耐熱構造にしておくべきなんだけどな。

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