ニーチェが論ずる「救済。」とは、精神的な救済のことであり。気分的、感情的な救済のことである。
本質的意識を持たない、本質的合理性を追求することが嫌いな者というのは。その思考の短絡性を事後正当化するための取り繕いとして、その場限りの気分的救済を求めて満足するのである。
ナチスのポーランド絶滅収容所のアドルフ:アイヒマンが、数百万のユダヤ人を死体に変換する計画書を書き続けたことを事後正当化して、その場限りの気分的救済と称して自己満足するための屁理屈とは、「私はただ、忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」というものである。
彼は、こうした屁理屈によって本質的意識を「なかったこと。」にすることで、気分のおもむくままにナチス体制への忠誠心だけを満足させたのである。
ニーチェの言う「救済。」というのものは、自己の意識を狭窄化させ、ただひたすら特定の情動のおもむくままに行動することができるようになるための、思考停止の方法論である。
それによって、意識の表層だけを満足させておくことを「救済。」というのである。
何も考えずに、ただ気分を満足させておけば。本質的意識を働かせずに済むため、その場限りに気分だけは満足である。
アイヒマン実験の被験者において、自分の行ってしまった行動を事後正当化するための屁理屈は「被害者となった者が悪い。」というものである。
それがニーチェの言う「救済。」の正体である。
ニーチェを読むと、多くのバカは気分的に満足するらしい。何ら論理的根拠もなく自己を正当化して構わないと勝手に勘違いすることが出来るからであろう。
本質的意識の働かない者にとって、論理的思考を停止させ、ただ意識の表層の気分だけを満足させておくことだけが意識の全てである。
従って、こういうバカに本質的意識とは何かとか、本質的合理性の重要性を説いても大抵は徒労に終わる。最初から論理的には「理解」するつもりが全くないからだ。
バカにとっては論理的根拠というのは気分を害する厄災でしかない。
本質的意識とは何かを知ることには、何ら気分的満足など伴わない。なぜなら、気分的満足という大脳辺縁系の条件反射とは無関係に、論理的かつ純粋に「考える。」ことを意味するからだ。
既に自分が行ってしまったことや、自分が信じ込んでしまっていたことを疑い。場合によっては覆すことというのは、気分的には楽しいことではない。自らの愚かさを認識することというのは、自らの無能を認識することでもあり。気分的には痛みすら伴う。
カルト宗教の信者達が、なぜカルト宗教をやめることができないのか。それはひとえに「気分が悪い。」からである。
「やめることができない。」というのは、脳内物質ドーパミンが持つ「常習性。」の働きそのものである。繰り返し無意識に「学習。」してしまった行動というものへの情動的な安心を、ドーパミンの常習性は作り出す。そしてそれが無意識な情動行動というものを作り出すのである。
アイヒマン実験において、権威に逆らうことは気分の良いことではない。ヒトとしての行動習性として刷り込まれてしまった服従行動に抗うのは、理性である。
権威への決別を行う時には感情的にはなるが。その感情とはあくまでネガティブな感情であり、決して服従し続けることの安心快楽は得られることはない。
アイヒマン実験において、権威に服従し続けることこそが、精神の「救済。」なのである。
それを「時代が悪かった。」だの「社会が悪かった。」などと、自己の環境依存性の結果を言い訳にすることは、論理的には不可能である。
しかし、そうした自己の環境依存性すらも、ニーチェは「運命愛。」と称して事後正当化するのである。
何度も言うが、ニーチェというのは哲学ではなく。ゾロアスター教という新興宗教に過ぎないのである。
それがナチスという思考停止の集団を「精神的。」に支えたのである。
故に600万人ものユダヤ人を平気で死体に変換することが可能になったのである。
学校で発生するイジメであっても、精神的には同根である。意識を失い、酔っ払ったかのように暴力の快楽に任せておくことも平気になれる。「ヒト。」とは、そういうものなのである。
自己自身にそうした習性があることを前提に、それを運命などと無為無策に流されないように自律的に自己の行動選択を行うのが、本質的意識の役割である。
本能に抗うことというのは精神的には平穏ではいられない。そこに精神の「救済。」などというものは、初めから構造的に存在しないのである。
精神的な「救済。」を促すニーチェなどのカルト宗教ほど、多くのヒトの「心。」を掴むものである。しかし、この場合における掴まれた「心。」とは、本質的には人間としての優しさを持った本当の「心。」ではなく。あくまで意識の表層の気分的快楽を促しているだけの錯覚なのである。
本質的合理性を伴う思考なくして、本質的な「心。」というものは生じることはないのである。
単なる気分や感情を「心。」と呼ぶのは、大衆観念に過ぎない。
「何となく、そんな感じ。」というアプリオリな感覚に基づいていたのでは、論理的思考というものは成立しない。
ところが意識のないバカにとっては、刷り込まれた観念の方が気分的に安心であるため。論理的思考に基づく認識など、何が何でもヒステリックに拒絶しないといられないのである。
残念ながら、世の中の大多数の大衆は論理的思考などしたくないのが実状である。
イジメなどの「ヒト。」が引き起こす諸問題が解決しないのは。そこに合理的な解析や対策が全く行われないからである。
その原因とは、精神的「救済。」なんぞを求めているからである。
何も考えず、何も疑わなければ「安心。」であろう。何も考えず、何も知ろうとしなければ「救われる。」のであろう。
だが、その「救い。」とは動物の本能的な快楽を指しているだけである。
通り魔は無差別殺人に「救い。」を求める。
通り魔が「不特定多数を殺害しさえすれば、全ては解決する。」という短絡的最終解決策に「救済。」を求めるのと同様に。無為無策な大衆は「権威にお任せしておきさえすれば、この世の問題の全ては解決する。」と思い込んでいるのである。
「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的最終解答は、大衆の頭の悪さと親和性が良いのである。
問題を解決するためには、地道な積み重ねや、一人一人の心掛けが必要なものが少なくはない。
「これさえやっときゃ、本質的意識が得られる。」というような短絡的な方法論は存在しない。むしろ、日々の行動判断の一つ一つを自ら検証してゆく地道な意識改革こそが重要なのである。
意識論というのはバカの気分が良くなるような話ではないのである。
目先の気分的「救済。」というものは、社会的価値とは無関係である。カルト宗教の信者がカルト信仰をやめなければ気分的には「救済。」である。こうした気分的、情動的な自己満足こそが、論理的思考判断を失う原因である。
*ちょっと覚書:天野敦之 城南信金CEOが紹介。今WBSの「スミスの本棚。」で紹介していた。
本質的意識を持たない、本質的合理性を追求することが嫌いな者というのは。その思考の短絡性を事後正当化するための取り繕いとして、その場限りの気分的救済を求めて満足するのである。
ナチスのポーランド絶滅収容所のアドルフ:アイヒマンが、数百万のユダヤ人を死体に変換する計画書を書き続けたことを事後正当化して、その場限りの気分的救済と称して自己満足するための屁理屈とは、「私はただ、忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」というものである。
彼は、こうした屁理屈によって本質的意識を「なかったこと。」にすることで、気分のおもむくままにナチス体制への忠誠心だけを満足させたのである。
ニーチェの言う「救済。」というのものは、自己の意識を狭窄化させ、ただひたすら特定の情動のおもむくままに行動することができるようになるための、思考停止の方法論である。
それによって、意識の表層だけを満足させておくことを「救済。」というのである。
何も考えずに、ただ気分を満足させておけば。本質的意識を働かせずに済むため、その場限りに気分だけは満足である。
アイヒマン実験の被験者において、自分の行ってしまった行動を事後正当化するための屁理屈は「被害者となった者が悪い。」というものである。
それがニーチェの言う「救済。」の正体である。
ニーチェを読むと、多くのバカは気分的に満足するらしい。何ら論理的根拠もなく自己を正当化して構わないと勝手に勘違いすることが出来るからであろう。
本質的意識の働かない者にとって、論理的思考を停止させ、ただ意識の表層の気分だけを満足させておくことだけが意識の全てである。
従って、こういうバカに本質的意識とは何かとか、本質的合理性の重要性を説いても大抵は徒労に終わる。最初から論理的には「理解」するつもりが全くないからだ。
バカにとっては論理的根拠というのは気分を害する厄災でしかない。
本質的意識とは何かを知ることには、何ら気分的満足など伴わない。なぜなら、気分的満足という大脳辺縁系の条件反射とは無関係に、論理的かつ純粋に「考える。」ことを意味するからだ。
既に自分が行ってしまったことや、自分が信じ込んでしまっていたことを疑い。場合によっては覆すことというのは、気分的には楽しいことではない。自らの愚かさを認識することというのは、自らの無能を認識することでもあり。気分的には痛みすら伴う。
カルト宗教の信者達が、なぜカルト宗教をやめることができないのか。それはひとえに「気分が悪い。」からである。
「やめることができない。」というのは、脳内物質ドーパミンが持つ「常習性。」の働きそのものである。繰り返し無意識に「学習。」してしまった行動というものへの情動的な安心を、ドーパミンの常習性は作り出す。そしてそれが無意識な情動行動というものを作り出すのである。
アイヒマン実験において、権威に逆らうことは気分の良いことではない。ヒトとしての行動習性として刷り込まれてしまった服従行動に抗うのは、理性である。
権威への決別を行う時には感情的にはなるが。その感情とはあくまでネガティブな感情であり、決して服従し続けることの安心快楽は得られることはない。
アイヒマン実験において、権威に服従し続けることこそが、精神の「救済。」なのである。
それを「時代が悪かった。」だの「社会が悪かった。」などと、自己の環境依存性の結果を言い訳にすることは、論理的には不可能である。
しかし、そうした自己の環境依存性すらも、ニーチェは「運命愛。」と称して事後正当化するのである。
何度も言うが、ニーチェというのは哲学ではなく。ゾロアスター教という新興宗教に過ぎないのである。
それがナチスという思考停止の集団を「精神的。」に支えたのである。
故に600万人ものユダヤ人を平気で死体に変換することが可能になったのである。
学校で発生するイジメであっても、精神的には同根である。意識を失い、酔っ払ったかのように暴力の快楽に任せておくことも平気になれる。「ヒト。」とは、そういうものなのである。
自己自身にそうした習性があることを前提に、それを運命などと無為無策に流されないように自律的に自己の行動選択を行うのが、本質的意識の役割である。
本能に抗うことというのは精神的には平穏ではいられない。そこに精神の「救済。」などというものは、初めから構造的に存在しないのである。
精神的な「救済。」を促すニーチェなどのカルト宗教ほど、多くのヒトの「心。」を掴むものである。しかし、この場合における掴まれた「心。」とは、本質的には人間としての優しさを持った本当の「心。」ではなく。あくまで意識の表層の気分的快楽を促しているだけの錯覚なのである。
本質的合理性を伴う思考なくして、本質的な「心。」というものは生じることはないのである。
単なる気分や感情を「心。」と呼ぶのは、大衆観念に過ぎない。
「何となく、そんな感じ。」というアプリオリな感覚に基づいていたのでは、論理的思考というものは成立しない。
ところが意識のないバカにとっては、刷り込まれた観念の方が気分的に安心であるため。論理的思考に基づく認識など、何が何でもヒステリックに拒絶しないといられないのである。
残念ながら、世の中の大多数の大衆は論理的思考などしたくないのが実状である。
イジメなどの「ヒト。」が引き起こす諸問題が解決しないのは。そこに合理的な解析や対策が全く行われないからである。
その原因とは、精神的「救済。」なんぞを求めているからである。
何も考えず、何も疑わなければ「安心。」であろう。何も考えず、何も知ろうとしなければ「救われる。」のであろう。
だが、その「救い。」とは動物の本能的な快楽を指しているだけである。
通り魔は無差別殺人に「救い。」を求める。
通り魔が「不特定多数を殺害しさえすれば、全ては解決する。」という短絡的最終解決策に「救済。」を求めるのと同様に。無為無策な大衆は「権威にお任せしておきさえすれば、この世の問題の全ては解決する。」と思い込んでいるのである。
「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的最終解答は、大衆の頭の悪さと親和性が良いのである。
問題を解決するためには、地道な積み重ねや、一人一人の心掛けが必要なものが少なくはない。
「これさえやっときゃ、本質的意識が得られる。」というような短絡的な方法論は存在しない。むしろ、日々の行動判断の一つ一つを自ら検証してゆく地道な意識改革こそが重要なのである。
意識論というのはバカの気分が良くなるような話ではないのである。
目先の気分的「救済。」というものは、社会的価値とは無関係である。カルト宗教の信者がカルト信仰をやめなければ気分的には「救済。」である。こうした気分的、情動的な自己満足こそが、論理的思考判断を失う原因である。
*ちょっと覚書:天野敦之 城南信金CEOが紹介。今WBSの「スミスの本棚。」で紹介していた。