書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自己分析。

2011年08月23日 16時00分52秒 | 意識論関連
 「私は、せっかちだから。」などと、あたかも論理的な自己分析であるかのように強弁しながら、実際には客観性を全く持たずに自己の行動改善を全く行わないための屁理屈にしているヒトが多い。

 「自分は○○だから。」などと、自分の性格を分析している風味に述べるヒトがいるが。その性格に問題があるのならば、自己自身で自律的に改善して、初めて「自己分析。」になるのである。

 単に自分の行動を事後正当化するための屁理屈にするのは、これは分析でも何でもなくて、身勝手な思い込みを強弁しているだけなのである。

 こういう事を言い出すヒトの多くは、とにかく口数が多いのだが、実際には具体的内容というものがなく。ほとんどが「泣き言。」なので、全く仕事がはかどらない。

 「焦っているから。」だとか「時間がないから。」だとか「私はわからないから。」などと繰り返すばかりで、実務が全く進まないのである。

 「焦っている。」のは当人の気分であり。仕事としては無関係の個人的な感情でしかないし。「時間がない。」からといって、「泣き言。」を並べていれば、返って時間を浪費するだけなのである。「わからない。」のは当人の理解力の問題であって、「泣き言。」をクドクド並べている暇があったら、調べたり勉強したりすれば良いのである。

 とにかく、こういう事を言うヒトというのは、自分がやりたくない仕事の全てを他人に丸投げするために、ひたすら鬱陶しく「泣き言。」を羅列するのである。

 その丸投げのための言い訳に時間をかけることが「仕事。」だと思っているので、非常に面倒臭い。それで「ああ、自分は困難な仕事をこなした。」と、勝手に思い込んでいるので、全く行動が改善しない。


 自己分析というのものは、「自分は○○だから。」などと決め付けることで、自己の行動を事後正当化することの言い訳を並べることではなく。自己自身で自律的に自己の行動の問題点を改善することを指すのである。

 従って、本当に自己分析を行っている人であれば、「自分は○○だから。」などとは言い出すことはない。少なくとも、それを根拠に強弁することはないのである。


 本質的意識の働いていないヒトというのは、とにかく口数が多い。

 ペテン師や占い師などが典型的である。

 言っていることの論理的検証をされないように、必死になって「取り繕い。」をするために、相手の話をとにかく無視するのである。

 こういうヒトは自分の悪い所を、論理的には認識したがらないので、当然行動改善というものが働かない。

 困ったことに、自分の気分だけが意識の全てなので、相手の気持ちなど一切鑑みる余裕すらなく。自己の行動を事後正当化するための屁理屈を勝手にでっちあげることによって、自分の気分を満足させているだけなのである。

 逆に気分的に満足してしまうと、今度は論理的な根拠、裏付けもなく「安心。」してしまって、全く論理的検証というものを一切しなくなるのである。

 面倒臭いことに、自分の過ちは「些細なこと。」だとか「つまらないこと。」などと言い張り、全く改善する意欲というものがない。

 こういうのが「モンスター○○」の原因である。チンパンジーの「コミュニケーション。」能力と同様な、気分的に相手を観念させ、捩じ伏せることにばかり意識が働き。

 恐怖感と安心感を取り混ぜ、脅迫的に相手の行動を自分の都合の良いように誘導するのである。

 これが生物学が論ずる「社会性。」であり。実質的には「特定の個体にとって、気分的に都合の良い独裁封建社会を形成する習性。」なのである。

 特定の個体の気分とは、すなはち、その個体の大脳辺縁系の反射としての感情であり。それが本当に生存価に適しているかどうかの保障など、生物学は一切保障することはないのである。

 生物学というのは、偶然うまくゆけば「生存に適した。」と称し。失敗すれば「進化の袋小路。」などと言い逃れを繰り返すのである。

 こうした観念を振り回している限り、生物学界というものは「科学。」ではなく宗教にしかならない。

 「その場限りの言い逃れ。」というのは、認知症の初期症状である。自己の行動というものを客観的に認識し、自律的に改善できないヒトというのは。本質的意識としての論理的検証、本質的合理性を追求することを、気分的に拒絶するから改善できないのである。

 もとい、「やりたくない。」のである。

 まあ、「やりたくない。」ようなバカであれば、この文章の理解は途中で脱落するのがオチであろう。

 とにかく、本質的意識、論理的思考が伴わないヒトというのは、他人の言うことを論理的には理解することを拒絶し。ひたすらに自分の行動を正当化するための論理的根拠を持たない屁理屈をでっちあげて満足し、思考を停止させるので、いわゆる「アスペクト盲。」のような状態に陥るのである。

 カルト宗教の信者が、それをやめることをしないのは。自分の脳に後天的に刷り込まれた固定観念だけで思考が閉じてしまっていて。自己自身の論理的検証というものを全くしなくなってしまうからである。

 パソコンでいう、「フリーズ。」状態である。

 だから、どんなに入出力装置を操作しても、全く処理が戻って来ないのである。

 これを「脳がバカになっている。」というのである。

 パソコンの「フリーズ。」というのは、外見上は何も動かなくなっているように見えるのだが。実際には特定の処理計算だけに動作の全てを奪われ、必要な処理計算への余裕が全くなくなっている状態のことであり。電子工学的には「暴走。」と呼ぶのである。

 PCの場合、最悪コンセントを引っこ抜けば止まってしまうが。ヒトの脳の場合は特定の価値観だけに基づいて地下鉄に毒ガスを撒き散らしたりするので非常に厄介である。

 更に厄介なのは、当人的にはそれこそが「人類の救済。」だと勝手に思い込んでいることである。

 ヒトという種の生物というのは、カルト宗教だの振り込め詐欺には簡単に引っ掛かるように出来ているが。自律的に本質的合理性を追求するようには成り難いものなのである。



 ああ、厄介だ。

 文系の者が良く言うのだが。「文章の力。」などというものも、あくまで「力。」というのは使う方向性が制御されることが重要なのである。

 太平洋戦争に突入する時の日本のマスコミの扇動も、「文章の力。」なのである。

 ただ漫然と方向性もなく「力。」を振り回せば良いというようなものではないのである。

コメント
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