子供の成育過程における、無意識的な刷り込み学習による倫理観。フロイトの提唱する「超自我」によっても、外見上公益倫理的判断を行うようにはしつけることは可能である。
ところが、この「超自我」というものは無意識な行動を促すだけなので、刷り込まれた倫理観に基づいた判断以外には抑制が効かない。
幼児の行動を抑制するためには、しばしばこうした強迫観念的な行動抑制が必要な場合もある。「見通しの悪い路地から飛び出してはいけない。」ことを、小さな子供にとっては理論的説明よりも、気分的な抑圧を用いた方が効果的な場合があるからだ。
子供というのは理論的な思考よりも、感情が優先しがちである。道路に飛び出しても自動車に轢かれた経験がない場合。その非常に短期における経験則に基づいた気分的安心によって、道路に飛び出すことを恐がらない。
こうした気分的安心を相殺するために、「道路に飛び出すと、親から怒られる。」といった強制的な強迫観念として「叱る」ことによる無意識行動を促すような刷り込み学習を行わなければならない場合がある。
しかし、こうした無意識的な刷り込み学習というのは、特定の条件における気分的な安心や恐怖だけが行動の基準になってしまうことになる。
これが、例えば権威への服従行動を刷り込み学習している場合。服従してさえいれば気分的には安心なのであり。それこそがアイヒマン実験に「引っ掛かる。」ヒトという種の生物の行動習性を促すのである。
本質的な倫理、すなはち環境に依存しない自律的な行動選択判断を行うためには。超自我的な強迫観念による無意識的な行動抑制では意味を成さない。
自発的な思考を行うためには、先ず無意識的な機械手続き的条件反射だけで行動が決定していたのではダメなのである。自らの行動を自ら認識する意識がなければ、自律判断というものは成立しない。
悪いことを考えるのは自由である。別に猟奇殺人を考え、それに勝手に興奮していることに社会的実害はないからである。江戸川乱歩がどんなに猟奇的犯罪を妄想しようとも、読者がそれに興奮しようとも、それは個人的な楽しみであって、他人にとやかく言われる筋あいのことではない。
芸術に属する気分的興奮や感動といったものは、アニメーション作家の宮崎駿が言うように「気晴らし。」に過ぎない。自分の大脳辺縁系がどのように反応しようとも、それが直接社会的行動として直結しなければ人畜無害なのである。だから芸術というものは自由で構わないのである。
しかし、社会的行動として、気分が行動決定を優先してはならないのである。社会の安全性というものは、その場限りの気分によって導き出されるものではなく。あくまで理論的根拠に基づく検証によって構築されるものでなくてはならない。
重要なのは、そうした分別を自律的にできるかどうかであって、個人的好みの偏り自体に問題があるわけではない。
安全学や危険学といった、工学的なアプローチなくして、安全性というものの向上は有り得ないからである。
暴動などの反社会的行動というものは、それを行うヒトに自律的な自己抑制が働いていないからである。一度暴動が発生すると連鎖的に便乗してしまうヒト達というのは、その行動選択というものが完全に気分に左右されてしまっているからである。
街が荒廃していると犯罪というのは増加する。「荒廃している。」という見かけ上の雰囲気によって、犯罪発生数というのは変動するのであり。これは犯罪というものの環境依存性を証明しているのである。
節電によってひったくりが4割増加したという報道があったが。私が思うに単なる街路照明の明るさだけが原因ではなく、震災や原発事故といった社会的な不安感によって、気分的になげやりになってしまうことによって、無意識的な抑制が働かなくなっていることも一因ではないかと思われる。
どちらにせよ、こうした犯罪といったものは突然生ずるようなものではなく。潜在的に多数のヒトの精神の中に存在していたものが、環境の変化によって露呈しているだけなのである。
環境に依存せずに自律的に行動を選択できれば、震災や原発事故、暴動などに影響されることなく、自発的に「社会はどうあるべきか。」という考えに基づく行動判断ができるはずのものである。
暴動やひったくりなどの、反社会的行動を採るヒトにはこうしたビジョンというものが最初から存在せず。「社会とは、特定の誰かによって制御されるべきものである。」といった依頼心に基づいた無思考に脳が支配されているのである。
ヒーロー幻想などというものも、結局は救世主幻想に基づくものであり。社会を構成する多数の個人による自律というものを無視したお伽話、「気晴らし。」でしかないのである。
一人の力は非常に小さなものである。だが、微力ではあっても無力ではない。社会というものは、こうした名もなき微力の集積によって成立していることを、多くのヒトは気分的に嫌がるのである。
パン屋が毎日パンを焼く。家具職人が毎日椅子を作る。そうした小さな力の集積によって社会は成立しているという事が、多くの「ヒト」は本能的に気に入らないのである
そうした地道な積み上げによって物事を解決に導くことよりも、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的最終解決の方が大衆観念的気分にとっては「スッキリ」するからである。
こうした短絡的無思考こそがヒトという種の生物が引き起こすあらゆる諸問題の改善を阻む最も根源的要因であることを、多くのヒトは認識したがらない。
「ヒト」とは、そういうものなのである。単なる生物種としての「ヒト」であるだけなら、そこに進歩はない。
バカ生物学者共であれば、それを社会環境の問題であると言い張る。ヒトという種の生物が遺伝的に現代社会に適応することができないから問題が生ずるかのごとく、(実際には何ら論理的根拠はないのだが。)問題意識を撹乱するのである。
もし、生物学的な「進化」を促すためには、そこに環境適応という「淘汰」が働かなければならず。突然変異で適応できないヒトを淘汰するような社会構造を必要とするのである。それは極めて非人間的な制度であることは少しでも考えればすぐにわかることである。
生物学者共が論ずる内容というのは、「ヒトとはどういう習性を持つものであるか。」以外に何も論ずるつもりはなく。「人間とは、どうあるべきか。」には全く興味がないのである。
ヒトという種の生物の存在価値を、どんなにたくさん枚挙したところで。それがヒトという種が引き起こす諸問題の解決には全く結び付かないばかりか、むしろ大衆観念的な短絡思考との親和性によって、問題の理論的原因究明を阻害しているのである。
ところが、この「超自我」というものは無意識な行動を促すだけなので、刷り込まれた倫理観に基づいた判断以外には抑制が効かない。
幼児の行動を抑制するためには、しばしばこうした強迫観念的な行動抑制が必要な場合もある。「見通しの悪い路地から飛び出してはいけない。」ことを、小さな子供にとっては理論的説明よりも、気分的な抑圧を用いた方が効果的な場合があるからだ。
子供というのは理論的な思考よりも、感情が優先しがちである。道路に飛び出しても自動車に轢かれた経験がない場合。その非常に短期における経験則に基づいた気分的安心によって、道路に飛び出すことを恐がらない。
こうした気分的安心を相殺するために、「道路に飛び出すと、親から怒られる。」といった強制的な強迫観念として「叱る」ことによる無意識行動を促すような刷り込み学習を行わなければならない場合がある。
しかし、こうした無意識的な刷り込み学習というのは、特定の条件における気分的な安心や恐怖だけが行動の基準になってしまうことになる。
これが、例えば権威への服従行動を刷り込み学習している場合。服従してさえいれば気分的には安心なのであり。それこそがアイヒマン実験に「引っ掛かる。」ヒトという種の生物の行動習性を促すのである。
本質的な倫理、すなはち環境に依存しない自律的な行動選択判断を行うためには。超自我的な強迫観念による無意識的な行動抑制では意味を成さない。
自発的な思考を行うためには、先ず無意識的な機械手続き的条件反射だけで行動が決定していたのではダメなのである。自らの行動を自ら認識する意識がなければ、自律判断というものは成立しない。
悪いことを考えるのは自由である。別に猟奇殺人を考え、それに勝手に興奮していることに社会的実害はないからである。江戸川乱歩がどんなに猟奇的犯罪を妄想しようとも、読者がそれに興奮しようとも、それは個人的な楽しみであって、他人にとやかく言われる筋あいのことではない。
芸術に属する気分的興奮や感動といったものは、アニメーション作家の宮崎駿が言うように「気晴らし。」に過ぎない。自分の大脳辺縁系がどのように反応しようとも、それが直接社会的行動として直結しなければ人畜無害なのである。だから芸術というものは自由で構わないのである。
しかし、社会的行動として、気分が行動決定を優先してはならないのである。社会の安全性というものは、その場限りの気分によって導き出されるものではなく。あくまで理論的根拠に基づく検証によって構築されるものでなくてはならない。
重要なのは、そうした分別を自律的にできるかどうかであって、個人的好みの偏り自体に問題があるわけではない。
安全学や危険学といった、工学的なアプローチなくして、安全性というものの向上は有り得ないからである。
暴動などの反社会的行動というものは、それを行うヒトに自律的な自己抑制が働いていないからである。一度暴動が発生すると連鎖的に便乗してしまうヒト達というのは、その行動選択というものが完全に気分に左右されてしまっているからである。
街が荒廃していると犯罪というのは増加する。「荒廃している。」という見かけ上の雰囲気によって、犯罪発生数というのは変動するのであり。これは犯罪というものの環境依存性を証明しているのである。
節電によってひったくりが4割増加したという報道があったが。私が思うに単なる街路照明の明るさだけが原因ではなく、震災や原発事故といった社会的な不安感によって、気分的になげやりになってしまうことによって、無意識的な抑制が働かなくなっていることも一因ではないかと思われる。
どちらにせよ、こうした犯罪といったものは突然生ずるようなものではなく。潜在的に多数のヒトの精神の中に存在していたものが、環境の変化によって露呈しているだけなのである。
環境に依存せずに自律的に行動を選択できれば、震災や原発事故、暴動などに影響されることなく、自発的に「社会はどうあるべきか。」という考えに基づく行動判断ができるはずのものである。
暴動やひったくりなどの、反社会的行動を採るヒトにはこうしたビジョンというものが最初から存在せず。「社会とは、特定の誰かによって制御されるべきものである。」といった依頼心に基づいた無思考に脳が支配されているのである。
ヒーロー幻想などというものも、結局は救世主幻想に基づくものであり。社会を構成する多数の個人による自律というものを無視したお伽話、「気晴らし。」でしかないのである。
一人の力は非常に小さなものである。だが、微力ではあっても無力ではない。社会というものは、こうした名もなき微力の集積によって成立していることを、多くのヒトは気分的に嫌がるのである。
パン屋が毎日パンを焼く。家具職人が毎日椅子を作る。そうした小さな力の集積によって社会は成立しているという事が、多くの「ヒト」は本能的に気に入らないのである
そうした地道な積み上げによって物事を解決に導くことよりも、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的最終解決の方が大衆観念的気分にとっては「スッキリ」するからである。
こうした短絡的無思考こそがヒトという種の生物が引き起こすあらゆる諸問題の改善を阻む最も根源的要因であることを、多くのヒトは認識したがらない。
「ヒト」とは、そういうものなのである。単なる生物種としての「ヒト」であるだけなら、そこに進歩はない。
バカ生物学者共であれば、それを社会環境の問題であると言い張る。ヒトという種の生物が遺伝的に現代社会に適応することができないから問題が生ずるかのごとく、(実際には何ら論理的根拠はないのだが。)問題意識を撹乱するのである。
もし、生物学的な「進化」を促すためには、そこに環境適応という「淘汰」が働かなければならず。突然変異で適応できないヒトを淘汰するような社会構造を必要とするのである。それは極めて非人間的な制度であることは少しでも考えればすぐにわかることである。
生物学者共が論ずる内容というのは、「ヒトとはどういう習性を持つものであるか。」以外に何も論ずるつもりはなく。「人間とは、どうあるべきか。」には全く興味がないのである。
ヒトという種の生物の存在価値を、どんなにたくさん枚挙したところで。それがヒトという種が引き起こす諸問題の解決には全く結び付かないばかりか、むしろ大衆観念的な短絡思考との親和性によって、問題の理論的原因究明を阻害しているのである。