書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

理由。

2011年08月13日 23時00分58秒 | 意識論関連
 子供の成育過程における、無意識的な刷り込み学習による倫理観。フロイトの提唱する「超自我」によっても、外見上公益倫理的判断を行うようにはしつけることは可能である。

 ところが、この「超自我」というものは無意識な行動を促すだけなので、刷り込まれた倫理観に基づいた判断以外には抑制が効かない。

 幼児の行動を抑制するためには、しばしばこうした強迫観念的な行動抑制が必要な場合もある。「見通しの悪い路地から飛び出してはいけない。」ことを、小さな子供にとっては理論的説明よりも、気分的な抑圧を用いた方が効果的な場合があるからだ。

 子供というのは理論的な思考よりも、感情が優先しがちである。道路に飛び出しても自動車に轢かれた経験がない場合。その非常に短期における経験則に基づいた気分的安心によって、道路に飛び出すことを恐がらない。

 こうした気分的安心を相殺するために、「道路に飛び出すと、親から怒られる。」といった強制的な強迫観念として「叱る」ことによる無意識行動を促すような刷り込み学習を行わなければならない場合がある。

 しかし、こうした無意識的な刷り込み学習というのは、特定の条件における気分的な安心や恐怖だけが行動の基準になってしまうことになる。


 これが、例えば権威への服従行動を刷り込み学習している場合。服従してさえいれば気分的には安心なのであり。それこそがアイヒマン実験に「引っ掛かる。」ヒトという種の生物の行動習性を促すのである。


 本質的な倫理、すなはち環境に依存しない自律的な行動選択判断を行うためには。超自我的な強迫観念による無意識的な行動抑制では意味を成さない。

 自発的な思考を行うためには、先ず無意識的な機械手続き的条件反射だけで行動が決定していたのではダメなのである。自らの行動を自ら認識する意識がなければ、自律判断というものは成立しない。

 悪いことを考えるのは自由である。別に猟奇殺人を考え、それに勝手に興奮していることに社会的実害はないからである。江戸川乱歩がどんなに猟奇的犯罪を妄想しようとも、読者がそれに興奮しようとも、それは個人的な楽しみであって、他人にとやかく言われる筋あいのことではない。

 芸術に属する気分的興奮や感動といったものは、アニメーション作家の宮崎駿が言うように「気晴らし。」に過ぎない。自分の大脳辺縁系がどのように反応しようとも、それが直接社会的行動として直結しなければ人畜無害なのである。だから芸術というものは自由で構わないのである。

 しかし、社会的行動として、気分が行動決定を優先してはならないのである。社会の安全性というものは、その場限りの気分によって導き出されるものではなく。あくまで理論的根拠に基づく検証によって構築されるものでなくてはならない。

 重要なのは、そうした分別を自律的にできるかどうかであって、個人的好みの偏り自体に問題があるわけではない。

 安全学や危険学といった、工学的なアプローチなくして、安全性というものの向上は有り得ないからである。


 暴動などの反社会的行動というものは、それを行うヒトに自律的な自己抑制が働いていないからである。一度暴動が発生すると連鎖的に便乗してしまうヒト達というのは、その行動選択というものが完全に気分に左右されてしまっているからである。

 街が荒廃していると犯罪というのは増加する。「荒廃している。」という見かけ上の雰囲気によって、犯罪発生数というのは変動するのであり。これは犯罪というものの環境依存性を証明しているのである。

 節電によってひったくりが4割増加したという報道があったが。私が思うに単なる街路照明の明るさだけが原因ではなく、震災や原発事故といった社会的な不安感によって、気分的になげやりになってしまうことによって、無意識的な抑制が働かなくなっていることも一因ではないかと思われる。

 どちらにせよ、こうした犯罪といったものは突然生ずるようなものではなく。潜在的に多数のヒトの精神の中に存在していたものが、環境の変化によって露呈しているだけなのである。

 環境に依存せずに自律的に行動を選択できれば、震災や原発事故、暴動などに影響されることなく、自発的に「社会はどうあるべきか。」という考えに基づく行動判断ができるはずのものである。

 暴動やひったくりなどの、反社会的行動を採るヒトにはこうしたビジョンというものが最初から存在せず。「社会とは、特定の誰かによって制御されるべきものである。」といった依頼心に基づいた無思考に脳が支配されているのである。

 ヒーロー幻想などというものも、結局は救世主幻想に基づくものであり。社会を構成する多数の個人による自律というものを無視したお伽話、「気晴らし。」でしかないのである。

 一人の力は非常に小さなものである。だが、微力ではあっても無力ではない。社会というものは、こうした名もなき微力の集積によって成立していることを、多くのヒトは気分的に嫌がるのである。

 パン屋が毎日パンを焼く。家具職人が毎日椅子を作る。そうした小さな力の集積によって社会は成立しているという事が、多くの「ヒト」は本能的に気に入らないのである

 そうした地道な積み上げによって物事を解決に導くことよりも、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的最終解決の方が大衆観念的気分にとっては「スッキリ」するからである。

 こうした短絡的無思考こそがヒトという種の生物が引き起こすあらゆる諸問題の改善を阻む最も根源的要因であることを、多くのヒトは認識したがらない。

 「ヒト」とは、そういうものなのである。単なる生物種としての「ヒト」であるだけなら、そこに進歩はない。

 バカ生物学者共であれば、それを社会環境の問題であると言い張る。ヒトという種の生物が遺伝的に現代社会に適応することができないから問題が生ずるかのごとく、(実際には何ら論理的根拠はないのだが。)問題意識を撹乱するのである。

 もし、生物学的な「進化」を促すためには、そこに環境適応という「淘汰」が働かなければならず。突然変異で適応できないヒトを淘汰するような社会構造を必要とするのである。それは極めて非人間的な制度であることは少しでも考えればすぐにわかることである。

 生物学者共が論ずる内容というのは、「ヒトとはどういう習性を持つものであるか。」以外に何も論ずるつもりはなく。「人間とは、どうあるべきか。」には全く興味がないのである。

 ヒトという種の生物の存在価値を、どんなにたくさん枚挙したところで。それがヒトという種が引き起こす諸問題の解決には全く結び付かないばかりか、むしろ大衆観念的な短絡思考との親和性によって、問題の理論的原因究明を阻害しているのである。

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自律と甘え。

2011年08月13日 17時07分56秒 | 意識論関連
 以前、「暴動」というタイトルの記事の中で、自発的に「甘え」を断ち切る意思が重要だって書いたことがあるんだけど。誤解があってはいけないので追加しておく。

 子供が親や大人を頼りにすることは必ずしも「甘え」であるとは言えない。あくまで「自発的」に断ち切ることが重要なんであって、単なるネグレクト、育児放棄の理由にはならない。

 子供を無理に放置するというのは、むしろ放置している親の方の自律が欠けている。

 自己自身の「甘え」を自発的に断ち切るようになるためには、親の顔色をうかがわなくてはならないような服従性を植え付けないことが必要。

 親が子供に過酷な強制を行わないことが、むしろ子供自身の「甘え」を断ち切れるようになるための布石となる。

 つまり、「甘え」というのは親大人から強制的に「断ち切らせる」ような環境依存的なものではだめで。あくまで自発的に「断ち切れる」自発性を育むことが先。

 それによって、結果的に自発的に自己自身の「甘え」を断ち切れるようになるのである。

 虐待をされて育った人ほど、自己自身の「甘え」を断ち切ることが困難であり。だからこそ自律的に虐待を止めることができないのである。

 アインシュタインの懸念であった、「人工的権威、力を用いた強制性」こそが、暴動だの振り込め詐欺、通り魔やひったくりの根源となっているのである。

 子供の自発性を重んじることを「甘え」と勘違いしては絶対にならない。どうも大衆観念に基づいた勘違いを自律的には修正できない「甘え」たヒトが多すぎる。雰囲気で行動を決定するのではなく。きちんとした論理的思考に基づいた行動選択をして頂きたい。

 本質的合理性というものも、目先の経済性の追求などではなくて、キチンと社会全体の利益、公益的な視点に基づいて合理的判断をすることが重要なのであり。大衆観念に基づく「利己的な合理性」が本質的には合理性でも何でもないのと同じことである。


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Shadeで立体出力造形。

2011年08月13日 16時02分01秒 | 日記
 っていうのをやろうと思ったんだけど、これが結構ややこしい。

 出力サービス会社さん曰く、自由曲面でツールボックスの「モデファイ」から「一点収束」コマンドを実行すると、8割がたダメなんだそうです。それなら「閉じた面形状」で塞げばいいのかというと、これも5割がたダメなんだそうです。

 球体プリミティブを「変換」した場合の上下の頂点とかは問題ないそうです。

 多分、手動でグリッドスナップを利用して面を塞げば自由曲面が使えるんだと思います。実際そういうデータを送ったらOKが出ました。

 最新のShade12では、集合演算が適用できるようになりましたが、これも必ずしも造形出力に適したデータにはならないそうです。

 作った立体データが使えるかどうかは*.objファイルをデジモデさんに送ればすぐに判別してくれるそうです。或はフリーウエアの「Net Fab Studio Basic」というのをダウンロードして、Shadeから*.obj形式でエクスポートしたファイルを読み込めば一発で判定されるそうです。立体データを作っている途中で確認しながら作れば無駄な努力もしなくて済みそうですね。

 Shadeっていうソフトは造形出力には不向きだと、専門家の方が言ってました。

 なんでもShadeというソフトはNECのPC9800時代からあったそうです。名前が当時からShadeだったのかどうかは知りませんが。

 デジモデさんの立体出力を商品原型にしようと画策していたんですが、精密な造形ができるのはPerfactryという機械でないと出来ないそうで、これは小さなものしか作れないので結構厄介です。

 なかなか上手くはいかないものです。

 まあ、いろいろ試しに作ってみればわかるんで、あれこれ試して「道」を踏み慣らしてみようと思います。Shadeでの造形Tipsサイトも見つからないので、

 ただ、MacG4が湿度のためか調子がすこぶる悪いです。戻るのかこいつ。
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涼しい感じ。

2011年08月13日 14時18分34秒 | 日記
 イラストSNSのPixivで「むず」っていう作家さんが作った画像が涼しげ。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=12701503

 おいらは壁紙に使ってます。

 Apopysisとかいうフリーウエアを使って作った画像なんだそうですけど、結構偶発的にしか作れないんだそうで、この画像に関してはバリエーションがないのはそのためらしいです。

 おいらのAndroidPCで上のリンクにジャンプするとスマートフォン用ページに飛ぶんですが、PCページでないと大きな画像はダウンロードできません。

 スマートフォンっていうと、概ね小さなマシンが多いんだろうけど、中にはスレートPCとかおいらの東芝Androidネットブックみたいな、それなりに画面の大きなマシンもあることを前提にページを作って欲しいんだけどな。

 中にはAndroidOS=携帯電話通信契約であると決め付けて、携帯メールでのログイン登録しか許さないサイトとかもある。

 不便。

 ◆追記:Pixivのサイトからは掲載画像がダウンロードできない構造になってしまったようです。

 muzuさんのブログからCooltownで検索かけたら画像を直接ロードできました。

http://muzumuzu.files.wordpress.com/2010/08/extrude_720.jpg
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