私の論ずる本質的意識についての話というのは、従来の固定観念に基づくアプリオリな定義に基づいていても、全く論理的には理解することが不可能である。
「甘え。」についても同様である。
ヒトの幼少期における「甘え。」というのは、極めて自然なものであり、生物としてなくてはならない行動であり。これ自体に実害があるわけではない。
害を為す「甘え。」とは、子供の観念のまま、精神年齢が全く変わらず、自律的に公益倫理的判断をしようとしなくなってしまう、大人の「甘え。」が問題なのである。
ヒトの子供が本質的自発性を発揮するためには、親に対する絶対的な信頼が不可欠であり。気分的な安心感によって思考の自由を獲得するのである。
親が子供の自発性を重んじないというのは、子供の自律判断を失わせる反社会的行為であり。社会的義務の放棄である。
「俺の子供だから、どのような育て方をしようと、俺の勝手だ。」などというのは。まさに親の方の社会的「甘え。」であり、幼児性そのものである。
「子供は社会の財産。」であり、社会的に公の存在なのである。決して子供というのは親の個人的所有物などではなく。育児放棄などによって心的外傷を負った人を社会に送り出すというのは、社会的義務の放棄であり。社会的な「甘え。」なのである。
こうした、大人による社会的「甘え。」による無責任性こそが、社会の崩壊を招く最大要因なのである。
「一体何が根本原因なのか、わからない。」というヒトがいるが。絶対的根本原因というのは、「ヒトという種の生物に習性として組み込まれた本能的な情動行動というものが、人間としての公益倫理的な自律判断とは相容れない。」という現実なのである。
その具体的な現れとして、様々な問題においての根本原因を挙げているのであり。それが多岐に渡るのは必然というものである。「これさえやっときゃ、全ては解決する。」ような短絡的な原因を挙げているのではない。あらゆる事象における表出した原因を、その具体的な状況に応じて挙げているのであり。全ての具体的問題点について私が論ずることなど原理的に不可能なのである。
本来であるならば、私がいちいち詳細に、噛んで含めるように説明しなくても。本論が提示した根本的構造に基づいて、各自が考えるべきものなのである。
私にできることなど、さしたることではない。問題の一つ一つを解決するのは、当事者であるあなた自身なのである。
ヒトという種の生物の、本能習性に起因するあらゆる無責任性の全ては。意識の表層だけで無意識に行動選択をしてしまうという、意識狭窄性に由来する。困ったことに意識狭窄な者にとっては、狭窄な意識こそが意識の全てであるため、本質的意識とは何かということには全く意識自体が働かないのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、むしろ、感情という無意識に意識を奪われてパニックに陥っているからこそ、無意識状態なのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、自律的な合理的思考判断が伴わなければ、それは本質的には「自分の意思。」ですらないのである。
こうした本質的な「自分の意思。」というものは、漫然と本論を読んでいれば身につくというようなインスタントなものではなく。自己自身に対する常日頃からの検証意識が必要である。
「自分は、何故こういう行動をしているのか。」その一つ一つを丹念に検証してゆかなければ、自己の意識改革は全く成されない。
自己の意識すら変えられない者が、他人の意識に言及することは許されるものではないのである。現実には他人の意識にばかり言及し、自己自身は漫然と無意識行動を繰り返すだけのヒトが非常に多い。他人のことをとやかく言う前に、自己自身の行動の全てを見直すことが先なのである。それは決して簡単なことではない。
それに対して、ニーチェだの養老といったペテンに引っ掛かるのは極めて簡単である。論理的思考検証を伴わず、漫然と相手の話を鵜呑みにし。かつ、自分の都合の良いように勝手な解釈をこじつけて気分的に満足し、話を丸めて思考を停止させているからである。
本論を断片的に引用することによって、曲解することは簡単である。原子力学者の奈良林直のように、「合理的判断。」などと大衆観念的アプリオリな短絡的曲解を促すことは、非常に簡単なのである。
本質的「意識。」「合理性。」「考え。」とは何かを、正確に論理的理解をしていなければ、本論は糞の役にも立つことはないばかりか、害をもたらすだけであり。そこには本質的「人間性。」も「社会性。」も「心。」も存在しないのである。
本来であれば、「難しい。」だの「わからない。」などで済まされるような話ではない。人として社会で生活する以上、本来なら例外など認めることはできない話なのである。
学生時代にどんなに高い学力を発揮していたとしても、たとえ社会的な成功をしていようとも。自律的に公益倫理判断ができなければ、社会にとっては糞の役にも立たないのである。
アイヒマン実験の被験者が精神的な救済を求めても、社会的には何の価値も存在しないばかりか。むしろ思考停止による害しかもたらさない。
自らが冒した過ちというものを、真正面から捕らえ、自戒を持って再発防止の心掛けをすることによって、初めて「教訓。」となり、社会的な財産となるのである。
自分が生産した牛肉に、国の安全基準を上回る放射性物質が含まれていることを公表するという自律判断行動に、精神的な「救済。」など存在しないのである。
むしろ、知らずとはいえ、社会に害を及ぼすような事故に巻き込まれた「悔しさ。」ばかりにさいなまされ、「夜も眠れない。」のである。
ニーチェを読んで喜んでいるというのは、こうした公益倫理的自律判断というものを全く意識することのない、単なる快楽主義者の身勝手な自己満足に過ぎないのである。
ニーチェのような身勝手な自己満足をしているというのは、被災者達の気持ちを無視した傲慢なのである。
それはカルト宗教の信者達の満足と同じものなのである。
現在の哲学が、どれだけ怠慢であるのかを少しは認識できたであろうか。
「甘え。」についても同様である。
ヒトの幼少期における「甘え。」というのは、極めて自然なものであり、生物としてなくてはならない行動であり。これ自体に実害があるわけではない。
害を為す「甘え。」とは、子供の観念のまま、精神年齢が全く変わらず、自律的に公益倫理的判断をしようとしなくなってしまう、大人の「甘え。」が問題なのである。
ヒトの子供が本質的自発性を発揮するためには、親に対する絶対的な信頼が不可欠であり。気分的な安心感によって思考の自由を獲得するのである。
親が子供の自発性を重んじないというのは、子供の自律判断を失わせる反社会的行為であり。社会的義務の放棄である。
「俺の子供だから、どのような育て方をしようと、俺の勝手だ。」などというのは。まさに親の方の社会的「甘え。」であり、幼児性そのものである。
「子供は社会の財産。」であり、社会的に公の存在なのである。決して子供というのは親の個人的所有物などではなく。育児放棄などによって心的外傷を負った人を社会に送り出すというのは、社会的義務の放棄であり。社会的な「甘え。」なのである。
こうした、大人による社会的「甘え。」による無責任性こそが、社会の崩壊を招く最大要因なのである。
「一体何が根本原因なのか、わからない。」というヒトがいるが。絶対的根本原因というのは、「ヒトという種の生物に習性として組み込まれた本能的な情動行動というものが、人間としての公益倫理的な自律判断とは相容れない。」という現実なのである。
その具体的な現れとして、様々な問題においての根本原因を挙げているのであり。それが多岐に渡るのは必然というものである。「これさえやっときゃ、全ては解決する。」ような短絡的な原因を挙げているのではない。あらゆる事象における表出した原因を、その具体的な状況に応じて挙げているのであり。全ての具体的問題点について私が論ずることなど原理的に不可能なのである。
本来であるならば、私がいちいち詳細に、噛んで含めるように説明しなくても。本論が提示した根本的構造に基づいて、各自が考えるべきものなのである。
私にできることなど、さしたることではない。問題の一つ一つを解決するのは、当事者であるあなた自身なのである。
ヒトという種の生物の、本能習性に起因するあらゆる無責任性の全ては。意識の表層だけで無意識に行動選択をしてしまうという、意識狭窄性に由来する。困ったことに意識狭窄な者にとっては、狭窄な意識こそが意識の全てであるため、本質的意識とは何かということには全く意識自体が働かないのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、むしろ、感情という無意識に意識を奪われてパニックに陥っているからこそ、無意識状態なのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、自律的な合理的思考判断が伴わなければ、それは本質的には「自分の意思。」ですらないのである。
こうした本質的な「自分の意思。」というものは、漫然と本論を読んでいれば身につくというようなインスタントなものではなく。自己自身に対する常日頃からの検証意識が必要である。
「自分は、何故こういう行動をしているのか。」その一つ一つを丹念に検証してゆかなければ、自己の意識改革は全く成されない。
自己の意識すら変えられない者が、他人の意識に言及することは許されるものではないのである。現実には他人の意識にばかり言及し、自己自身は漫然と無意識行動を繰り返すだけのヒトが非常に多い。他人のことをとやかく言う前に、自己自身の行動の全てを見直すことが先なのである。それは決して簡単なことではない。
それに対して、ニーチェだの養老といったペテンに引っ掛かるのは極めて簡単である。論理的思考検証を伴わず、漫然と相手の話を鵜呑みにし。かつ、自分の都合の良いように勝手な解釈をこじつけて気分的に満足し、話を丸めて思考を停止させているからである。
本論を断片的に引用することによって、曲解することは簡単である。原子力学者の奈良林直のように、「合理的判断。」などと大衆観念的アプリオリな短絡的曲解を促すことは、非常に簡単なのである。
本質的「意識。」「合理性。」「考え。」とは何かを、正確に論理的理解をしていなければ、本論は糞の役にも立つことはないばかりか、害をもたらすだけであり。そこには本質的「人間性。」も「社会性。」も「心。」も存在しないのである。
本来であれば、「難しい。」だの「わからない。」などで済まされるような話ではない。人として社会で生活する以上、本来なら例外など認めることはできない話なのである。
学生時代にどんなに高い学力を発揮していたとしても、たとえ社会的な成功をしていようとも。自律的に公益倫理判断ができなければ、社会にとっては糞の役にも立たないのである。
アイヒマン実験の被験者が精神的な救済を求めても、社会的には何の価値も存在しないばかりか。むしろ思考停止による害しかもたらさない。
自らが冒した過ちというものを、真正面から捕らえ、自戒を持って再発防止の心掛けをすることによって、初めて「教訓。」となり、社会的な財産となるのである。
自分が生産した牛肉に、国の安全基準を上回る放射性物質が含まれていることを公表するという自律判断行動に、精神的な「救済。」など存在しないのである。
むしろ、知らずとはいえ、社会に害を及ぼすような事故に巻き込まれた「悔しさ。」ばかりにさいなまされ、「夜も眠れない。」のである。
ニーチェを読んで喜んでいるというのは、こうした公益倫理的自律判断というものを全く意識することのない、単なる快楽主義者の身勝手な自己満足に過ぎないのである。
ニーチェのような身勝手な自己満足をしているというのは、被災者達の気持ちを無視した傲慢なのである。
それはカルト宗教の信者達の満足と同じものなのである。
現在の哲学が、どれだけ怠慢であるのかを少しは認識できたであろうか。