書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

村田製作君。

2011年08月21日 16時50分35秒 | 日記
 記事下広告に村田製作所が載っていたので、開いてみたら、家庭用電源でLEDを光らせる回路図が掲載されていた。

http://www.murata.co.jp/products/samplekit_l/index.html

 家庭用電源でLEDを光らせるのって、結構厄介。これならイトーヨーカドーの電球型LEDを買ってきた方が手っ取り早い。¥1280ーとか言ってた。電球ソケットは一個¥200ーくらいで買えるから、一個あたり¥1480ープラス電線で付けられる。はず。

 大量生産っていうのは凄いね。今は32型のLED液晶テレビが4万円しないものね。

 デジカメなんかワゴンセールだもの。そのうちスマートフォンもワゴンセールになっちゃうのかしらn。部品の単価からしたら有り得る話だけどねw。

 個人的には、村田製作所にはビデオカメラ用の電子制御スタビライザーを作って欲しいんだけどな。そういうのはキーエンスの方が好きなのかな。

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本質的自己満足

2011年08月21日 16時12分23秒 | 意識論関連
 他人や自分の外見や、風評に惑わされず。本質的な自己の精神の充足を得るためには、ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏が言うように。「ある程度実際にやってみないとわからない。」ものである。

 他人がどんなに楽しそうに何かをやっているのを見ても、それはあくまで他人の個人的な楽しみでしかなく。実際に自分がそれを行って楽しいのかどうかは「やってみなくちゃ、わからない。」

 それはいわば、自己というものがどういうものであるのかを探る「実験」であり。ヒトという種である自己の習性や個性の取り扱いを探る科学的、論理的な検証なのである。


 暴走族がケーキを作ると、暴走族仲間や、もしかすると世間一般から「バカにされる。」かも知れないだろう。だが、その「バカにする。」ことの根拠とは、「暴走族とは、こういうものである。」という、漫然とした固定観念であって。本質的社会性の観点からすれば、暴走族がケーキ職人になって更正することは正当な行動である。

 ヒトという種の生物は、生物的な社会迎合習性を持っているため。他人からの外見的な評価に非常に敏感である。そのため、「これなら一生続けられる。」という個人的な純粋行為としての、いわば本質的な自己満足行為に価値を持つことが困難である。

 社会的に成功した者とか、外見的な恰好良さにばかり意識を奪われ。本当は自分が何をすることが本質的な満足、本質的充足であるのかを認識しづらいのである。


 とかく、「お前、そんなことして何になるんだ。」といった中傷は少なくない。だが、そんな中傷を述べている者の行動に「何か。」があるわけではなく。ただ漫然と平均的な行動をすることによって、気分的に安心しているだけの場合がほとんどである。

 ドラえもんじゃなくて、何だっけ、あ、ホリエモンか、あいつが言ってたけど、「世の中のほとんどは、無能な凡人である。」ってのがあった。

 実際、世の中の大半はノーベル賞に匹敵するような発見や発明をすることができない。できないからこそノーベル賞というものが存在しうるのであるが。平均的で平凡な人達の多数意見の集計に、「何か。」など存在しないのである。

 ホリエモンがバカなのは、結局は社会的成功という凡人の価値観に基づいた目的しか持つことができなかった点である。言っていることに論理的整合性というものがないから、他人に迷惑をかけることに陥ってしまうのである。

 それはどんなに追求しても本質的には自己が満足できないから、他人の迷惑にまで意識が働かないようになってしまうのである。

 「自己中心的な者に、自己はない。」とは、そういうことである。


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気晴らしの方向性。

2011年08月21日 14時47分10秒 | 意識論関連
 あらゆる他人への迷惑行為、たとえば暴走族や通り魔がそれを行うのは。その行為により気分的に「スッキリ。」するからである。

 しかし、こうした「スッキリ。」というのは、極めて場当たり的で、短絡的な「スッキリ。」しか得ることはできない。

 こうした短絡的「スッキリ。」感というものは、あくまで当たり散らす相手としての他人や「多数他人である世間」に依存した快楽でしかないからである。

 多数他人に迷惑をかけることにより、自分が優位になったような錯覚、感覚を得ているだけで。実質的には人間としては最低の行動でしかないことを、当人達には認識不可能であるからこそ、それ以外の選択肢が意識から抜け落ちているのである。

 こうした、環境依存性の迷惑行為というものには、本質的な自発的純粋行為による、自己自身の精神の充足が得ることができないため、どんなにエスカレートしたとしても、本質的な精神の充足は得ることができない。

 暴走族というのは、暴走行為以外に気晴らしの手段選択肢を持たないため。いわゆる「騒音おばさん。」と同様に、その行為以外には全く行動選択をするだけの精神的余裕というものがない。


 脳がバカになっている状態とは、すなはち行動が感情だけに左右されていて、条件反射的に機械「学習」した行動以外ができなくなっているため。同じ価値観以外を認識することも出来ずに、同じ行動を延々と繰り返すのである。

 これが、いわゆる「バカの一つ憶え。」という状態である。

 ネズミがネズミ車を回し続けるのと同じで、精神的な余裕というものが全くないために、ただひたすら目の前に存在する快楽ばかりに意識を奪われているのである。

 一度特定の行動を機械「学習。」してしまうと、それだけが気分的に「安心。」を促し、それ以外の行動が「恐怖。」になってしまうのである。

 暴走族というのは、暴走行為をし続けていないと不安で仕方がないのである。ある日突然暴走行為をやめてしまうと、「世間や仲間にバカにされるのではないか。」とか「なめられるのではないか。」という勝手な錯覚によって、脅迫観念的に暴走行為を続けるのである。

 彼らは、迷惑行為をやめることが怖いのである。

 当人は他人に迷惑をかけることで、その場限りには優位になったような錯覚を得ているのだが、冷静に考えれば社会的には何の利益ももたらさない迷惑行為であることを、意識から外して自己満足する。意識の表層だけを満足させるだけであるために、酒や覚醒剤といった薬物を用いて、意識を常に感情という表層だけに集中させておかないといられないのである。

 冷静に考えると、自己のくだらなさを直視することになってしまうので、意識から外し、無かったことにし。自分達の内部で同じ価値観を共有することで、その場限りの気分的安心を得るのである。

 暴走族や暴力団というのは、カルト宗教なのである。だからやめることができない。



 「ヒトは見た目が9割。」と言われる。「見た目。」とは、すなはち無意識な固定観念に基づく気分的印象のことである。

 暴走族というのは、異常なまでに外見にこだわりを持つ。それは、彼らの脳では「見た目が10割。」だからである。彼らの脳には本質的意識というものが全く働いていないため、当人にとって働かない機能は、当人には認識することができないため。他人からの見た目という無意識な脅迫観念だけでしか行動選択が決定しないのである。もとい、できないのである。

 暴走族の行動というのは、徹頭徹尾他人からの「見た目。」である。暴走族は暴走族を見て、「ああ、あれがカッコイイ。」と洗脳されるからこそ、短絡的に暴走族に成り下がるのである。

 外見に異常な固執を持つというのは、心理的な拘束であり、強迫観念的によって特定の外見を装っていないと、恐くて仕方がないのである。

 暴走族の姿をしていないと、「バカにされる。」とか「なめられる。」という思い込みは、実際には当人達だけの勝手な固定観念に由来するものであって。現実には暴走族などというのは社会的には、どうでもよい存在でしかないのである。

 社会的には「死ねば良い。」の一言で片付く存在である。

 強迫観念の源は、ドーパミンが作り出す常習性による行動学習であり。定常安定欲求の暴走によるものである。外見上暴走する以前に、脳自体に暴走が生じているのである。


 パソコンで時折「フリーズ。」という現象が起こることがある。キーボードやマウスといった入力装置を操作しても、全てが無視され、何も反応がなくなってしまう状態のことである。

 実はこの「フリーズ。」状態の時のパソコンというのは、ある特定の処理計算だけに動作が奪われてしまっていて、それ以外の処理計算への動作が全くできなくなっている状態なのである。

 いうなれば、糞の役にも立たない処理計算に動作の全てを奪われて、必要な処理計算への余裕というものが全くなくなってしまっている状態なのである。

 現代のパソコンというのはバカなので、自律的には自分の動作の異常を検出することができず、強制的に再起動させるなどの処置が必要である。

 だが、残念なことにヒトの脳の場合。再起動に相当する処置とは「死ぬ。」ということになる。従って、自律的に自分の行動を検出認識し、正常な動作行動への改善ができないのであれば、これは「死ぬ。」以外に他に選択肢はない。

 ただ、機械「学習。」の過程において、正常な動作へと、外的にバイアス報酬を与えることによって、環境依存的に誘導することも可能ではある。その具体的な例が戸塚ヨットスクールである。だが、当然ながら環境依存的な誘導であるために、その環境以外においては正常性を保つことができない。

 それは刑事罰における懲役が、実際には再犯に対して効果を持たないことからも明白である。

 自律的な自己行動選択については、以前書いた記憶があるので、面倒臭いので省く。

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