梅田聡(慶應義塾)
共感性を短絡的に「社会性」だと括るのは間違いである
暴走族が暴走族に共感しても「人間としての社会性」の論証にはならず 先天的な本能習性としての「社会形成習性」を発揮しても人間性の論証にはならない
それは「ヒトという種の生物」の傾向性(習性)の論証にしかならない
「相手の感情を読み取り共感する」からこそ 日本大学田中英寿理事体制に「恐怖」を抱き 多くの職員が同調迎合忖度服従している状況に「共感」することによって組織腐敗は引き起こされるのである
「みんなで仲良く組織腐敗」されても「人間としての社会性」の論証になどなるわけがないのである
バカな大半の生物学系研究者共は 何が何でも先天的本能習性によってヒトには人間性が先天的に組み込まれているかのように説明したがるが これは衆愚が「自分は先天的に優秀な存在だ」という身勝手な解釈をこじつけるのに都合が良い衆愚迎合に過ぎない
島皮質が前頭葉との相関が取り沙汰されているが 感情がむしろ理性を抑え込んでしまうからこそ ヒトは簡単にバカになってしまうのである
ヒトという種の生物の脳は 別に理性が優先するよう先天的に出来上がっているわけではなく ただ大脳新皮質の容量が肥大しているだけであって 感情という主観的感覚が優先することによって理性を簡単に失い 意味のない非合理な行動も平気で促してしまうという先天的な認知上の重大な欠陥を持っているのである
松永莉子パパの苦しみに「共感」することは必要だが 単に「加害者に厳罰」を主張しているだけでは松永莉子パパの「感情」に「共感」しているだけであって 莉子パパの本当に望んでいる「再発防止を優先して欲しい もう誰にもこんな地獄は味わって欲しくはない」という理性的願いを「理解」しているとは言えないのである
ただ感情に共感しているだけでは人間としての社会性にはならず むしろ共感というものは組織腐敗を助長する側面も持った動物的な先天的本能習性に過ぎない「結果」でしかない
「目的意識」という言葉があるように 理性によって「意識」的に「目的」行動選択をするための「考え」が伴って初めて「人間としての社会性」として機能するのであって
ただ感情的に「共感」すれば「(人間としての)社会性だ」という話にはならず それは単に動物本能的な社会形成習性でしかなく 組織腐敗や暴力集団の形成温存維持をもたらす危険性も持っているのである
「人間としての社会性」というものは断じて進化的に先天的に都合よく組み込まれているようなものではなく 論理客観的に「どの感情を優先すべきか」を選択してこそ発揮されるものである
怒りの感情に共感してヘイトスピーチに同調しても人間性にはならないし
暴走族に共鳴して集団協調的に迷惑行為をしても人間性の論証には全く該当しない
民主化デモに便乗して暴動を引き起こし 民主化運動を反社会的暴動にすり替えてしまうのも これもまた身勝手な「共感」が引き起こすものである
民主化デモによって独裁政権に反対する場合には 怒りの感情は伴うものではあるものの だからといって感情任せに暴動を引き起こせば反社会行動にしかならず 民主化運動の「目的」や本質を汚すことにしかならない
島皮質は 情動によって理性を抑制してしまい 振り込め詐欺師の言いなりに被害者を誘導してしまう原因でもある
脳の構造そのものはヒトでもサルでもさしたる違いはなく ただヒトは大脳皮質が大きいという違いしかない
「刑法判決で解決だ」とか「厳罰化で抑止」といった懲罰という暴力威圧による行動抑圧を「道徳」だと「思って」いることもまた 理性を欠いたヒトの先天性の錯覚である
実際には厳罰化を廃止した北欧の「リゾート刑務所」の方が再犯率を大幅に引き下げ 「受刑者」の自律的な社会的責任判断選択を促進することは 統計的にも理論的にも立証されているのである
それでも「懲罰で解決」だという倒錯から逃れられないのは それが先天的本能習性だからである
チンパンジーなど野獣の群れの中では順位序列による統率や 暴力による相互行動抑圧は群れ社会を形成する上においては生存や繁殖維持において有利に働くものではあるものの 順位序列による統率性は「怖い相手に逆らわない」という行動も促し 組織腐敗の温床ともなるものでもある
一方で独裁政権への反発として民主化運動をすれば その独裁反対による怒りの感情が優先して暴動に発展し 民主化運動がただの暴動になってしまうのも 「共感」性による倒錯や 暴力的破壊を「懲罰」として錯覚しているヒトの先天的な認知上の重大な欠陥が原因である
「ヒトという種の生物には 先天的に人間としての社会性が組み込まれている」とでも言っておけば バカな衆愚は主観的に安心満足し 共感し 多数人気を集めることは簡単である
その主観的安心満足を多数で共有しておけば いかなる論理的齟齬や整合性の欠落も「なかったこと」にしておいても 「何とも思わない」だろう
その「思わない」という「自分の主観的感情」に 何の疑いも持たないのは 自己の主観的感情こそが自分の意識の本質だと錯覚しているからである
ヒトの主観には必ず錯覚が混入する危険性が伴うものであり 錯覚を錯覚として認識するために必要なのは論理客観的検証性(考え)である
主観的に「何とも思わない」からこそ 論理客観的に「考え」なくなるのであり これがヒトの先天的な認知上の重大な欠陥として働くことで ヒトは簡単にバカになるのである
その「何とも思わない」ことをいくら多数で「共感」しても それは「人間としての社会性」の論拠にはならず むしろ「多数で頭の悪さを正当化」しているに過ぎないのである
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