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2023年01月31日 15時13分49秒 | 日記

業務用空調機器設備会社 大森組による脱税 -読売

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「リオテック」「日本ハウジング」による悪質リフォーム請求に注意 -埼玉新聞

 

 

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不可避性 不条理性

2023年01月31日 15時02分04秒 | 意識論関連

詐欺師集団やカルト教団内部での「信頼関係」は人間性の論証にはならない

腐敗組織に同調迎合忖度服従しておけば安心満足で「身体性(気分感情)」的には健康であるとしても それが人間性の論証にはならない

山極寿一や養老孟司の言う「身体性」とは 要するに主観的な気分的安心満足のことであり 「信頼関係」などというのも「信じたい」という主観に基づいたものである

主観的に「信じたい相手」が言う「信じたい話」だけを信じていれば 嘘だろうがデマだろうが安心満足感は得られるものである

独裁体制内部での「信じたい話」だけを信じ込んでいるからこそ 個人から主体的で自律的な論理客観的判断選択性が失われ 「組織の利益を優先」することによって組織内部での立場権益利権といったものを維持することにしか意識が働かなくなる

何せ自律的には何も判断せず 「組織の利益」だけが優先されていれば 必然的に盲目となり 結果的に自律的責任判断は失われて洗脳状態にも陥る

 

ヒトという種の生物は その先天的な「社会形成性習性」によって 多数派に同調迎合し 権威に服従忖度しておいた方が安心で満足するという行動バイアスを発揮するものである

元々は子供が親に服従する性質が 共同体内部でのヒエラルキー封建体制組織を形成することによって 統率的協調性が生存にとって有利に働き 結果的にそうした本能習性の強い個体の遺伝子が拡がりやすかったという「結果」である

今まで何度も述べてきたが 遺伝的進化によって組み込まれた先天的本能習性というものは 目的に則って合理的に主体選択したものではなく あくまで「拡がりやすかった性質」が遺っただけの結果に過ぎない

現代人が生活習慣病に陥りやすいのも かつて祖先の生息環境における行動バイアスへの収斂結果であって 遺伝的進化というものは決して都合の良い結果だけをもたらすようなものではない

ヒトの進化過程においても 統率協調的に他の部族を殲滅して環境資源の奪い合い競争に勝ち抜くことで結果的生存や繁殖に至った結果を 「成功」だの「繁栄」だのと形容詞をこじつけ あたかも絶対的正義であるかのように倒錯しているのも 主観的安心満足が優先して論理客観性を失っているからに他ならない

自然環境というのは必ずしも常に安定的に恒常性が担保されているわけではなく 天候不順などによって環境資源の枯渇が生じることは珍しいことではない

環境資源が枯渇した際に 生き残れるのはどういう生物なのかと言えば 必然的に暴力性の強い生物であって 呑気に「共生」なんぞを望んでいたのでは全滅するだけである

「一つのパンを10人で分けたら全員死ぬ」という理屈である

過酷な自然環境下においての生き残りという結果をもたらすのは 環境資源の奪い合い競争に勝ち抜く暴力性であり ヒトのような統率協調性もまた他の部族との環境資源の奪い合い競争において有利に働くことになる

「生き残る」遺伝子 「拡がりやすい」遺伝子が遺るのが遺伝的進化であって 個体の都合や努力や望みや祈りや恨みや呪いは遺伝的要素に影響を及ぼすことはなく どんなに「戦争や暴力のない社会」を望んでもヒトは祖先の生息環境の影響によって本能的に暴力で物事を解決しようとする先天的習性からは逃れることは出来ない

先天的本能習性から「逃れる」ことは出来ないが 本能習性に「抗う」ことは可能であり それが論理客観的検証性という「考え」である

「欲望そのものを欲することはできない」が 欲望に無為に無意識に流されることなく 自律的に行動を選択することは不可能ではない

だからこそ「意識」が重要なのであり 本質的な人間としての「意識」が何なのかを理解し 区別できないことには話にならない

 

養老孟司は「意識に意味はない」と述べたが 養老の言う「意識」とは 一般大衆的観念に基づいた「情動」のことであって 大脳辺縁系(脳の古い領域)によって促される無意識な情動行動バイアスのことであって これはイヌやサルレベルでの「意識」ではあっても「人間としての意識」ではない

東大の脳科学者共が「自由意志などない」などと言い出したのも 情動行動バイアスを「意識」だと倒錯していることが原因である

情動行動バイアスという主観は意識ではなく 主体的に論理客観的に行動選択ができて初めて「人間としての意識」だと言えるのであり

殴りたいという感情が生じたからといって 殴る以外の選択が絶対に不可能であることの論証には全くならない

イヌやサルなら情動が行動と直結しているものだが ヒトの場合に情動と行動が直結していたのではイヌやサルと何ら違わなくなってしまうのであって だからこそ戦争などというバカげた結果にも陥ってしまうのである

 

衆愚の大半が 懲罰を「道徳」などと形容し 集団から排除差別することを絶対的正義のように倒錯するのは

暴力的懲罰や威圧によって多数派に迎合屈服させることこそが主観的に安心満足だからであり この主観的安心満足感によって懲罰を「正義」だと錯覚するのである

通り魔を何人死刑にしても通り魔事件は繰り返す

死刑という懲罰や威圧的抑圧は自暴自棄な通り魔に対して効力を持たない

「怖い相手に逆らわない」というのは情動行動であって これは独裁腐敗組織が形成されるプロセスにおける大きな要因でもある

主観的に「怖い」かどうかに関わらず 論理客観的に「正しい」かどうか 「合理的」かどうか 「実効的」であるかどうかを個人が自律的に検証し 主観的な「安心」ではなく論理客観的に「安全」かどうかを見極め区別してこその人間としての「本質的な意識」であり 医学上の意識の有無とはレベルの異なるものである

詐欺師や強盗殺人犯であっても自分の名前や年齢は答えられるものであり 医学上の意識は何ら本質的な「人間としての意識」の論拠にはならず それは「ヒトという種の生物としての意識」を論証しているだけである

詐欺師に騙されている最中の被害者も 医学上の意識なら充分働いているのだが 自分が騙されていることに関しては論理客観的に「考える」ことができずに情動のままにしか物事を判断出来なくなっているからこそ 「自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのである

情動としての意識というのは 主観的な安心満足を追求するようにしか働かない

情動を司る大脳辺縁系というのは 主観的安心満足を追求する構造しか持っていないからである

従って 自分の情動というものが本質的な人間としての意識ではないことを理解し 主観的情動に脳を乗っ取られることなく論理客観的に「考え」てこそ人間としての本質的意識だと言えるのである

人間としての本質的意識が働かないような脳の構造を先天的に持っていることは理不尽ではあるが これは「天災」同様に選択不可能なものであり 遺伝的進化の「結果」に過ぎない情動行動バイアスというものが選択不可能な「無意識」に過ぎないことを理解する自己客観性が必要となる

そもそも自分の脳は自分で作ったものでも 選択したものでもなく

脳を作り出す遺伝的要素そのものも何ら自分では選択不可能なものであって 自己の脳の構造の理不尽性 不条理性というものは不可避な選択不可能なものである

こうした話は誰もしたがらないし すれば不安に陥るので嫌われることはわかっている

むしろ「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」的な都合の良い気分の良くなる話「福音」でも述べていた方が多数の衆愚から人気を得られることもわかっている

しかし 残念ながらヒトという種の生物には先天的人間性など組み込まれている証拠は何もなく 科学的には何の根拠もないデマや嘘に過ぎないのだが 主観的に安心感や満足感を得られる「信じたい話」の方が多数衆愚からは人気を得られるのもまた「結果」というものである

断片的な利他行動や統率協調性だけを抽出してきて「人間性だ」などと言い張るのは 衆愚を糠喜びさせるだけのデマや嘘であって 断片的利他行動や統率協調性というものは戦争や犯罪組織においても働くものであって 何ら人間性の論拠にはならない

脳波の同期がサッカーのプレイに有効だとか 直感が将棋の指し手に有効だとか称して あたかもこれら「世間的成功」こそが人間としての価値であるかのように錯覚させる手口を生物学者共は平気でやらかすが

サッカーだの将棋で世間的に成功しても それは利己的利益にとっての有効性に過ぎず 何ら社会安全性や公平性にとって意味を為すものではないのだが ヒトという種の生物は先天的にバカなので 世間的な利己的成功や評価報酬こそが人間としての価値であるかのように錯覚するのは 非合理なデマや嘘であっても主観的に安心満足を提供してくれる世間的成功評価に惑わされ「脳を情動に乗っ取られ」てしまうからである

短期記憶を司る海馬は大脳辺縁系の一部であり ヒトは短期的には主観的安心満足だけが優先し 論理客観的検証が働かないものである

しかし ヒトは大脳容積が肥大することによって 記憶全体から統合的に論理検証し 合理性のある行動選択「も」可能である

ただ 可能ではあるものの簡単ではない

大脳辺縁系は人間としての意識である論理客観性を簡単に乗っ取り 情動を優先してしまうが故に安心して嘘やデマを信じ込み 盲目的洗脳状態に簡単に陥るという先天性の認知的欠陥を持っているためである

別に集団でなくてもヒトはバカになる

ヒトは先天的には合理性のある論理客観的判断選択よりも 主観的安心満足を優先してしまう習性(傾向性)が存在しているからである

本能的習性というのは あくまで「傾向性」であって 断じて「先天的本能習性には逆らえない」ようなものではなく 犯罪者や独裁者のように先天的本能習性に逆らえない奴のことを「バカ」と言うのである

 

バカは「できそうにないことは やらない方が良い」などというフリードリヒ:ニーチェの「迷言」を鵜呑みにし 「諦める」ことを「悟り」か何かと倒錯することで自己欺瞞に溺れる安心満足感を「自分は頭が良くなった」と倒錯するものである

「できそう」かどうかは論理客観的に「絶対に不可能であることの論証」がない限りは主観に過ぎず 根拠がない

だが 衆愚の大半は主観的観念と論理客観的根拠の区別がつかず むしろ主観的に満足することを優先してしまうが故に嘘やデマでも簡単に鵜呑みにしてしまうという頭の悪さを発揮するのである

脳がバカだと腐敗組織にも同調迎合忖度服従し 組織内部での自分の立場や権益を保守維持するという利己的選択こそが「賢い」と倒錯する

腐敗組織が破綻した際には「組織は頭から腐る」だの「組織の体質が悪かった」などと称して あたかも組織のトップだけに責任をなすりつけておけば 自分達が自律的な社会的責任判断を放棄していた無責任性の免罪符にすりかえようとする

「組織の体質」というものは 組織を構成する多数によって作り出されるものであって 「多数であれば責任が薄まる」という主観的感覚によってヒトは自律的な社会的責任判断選択を簡単に放棄するようになるのである

腐敗組織に対して個人の自律判断選択はほとんど効力を持たないが 完全な無力ではない

微力を無力にすりかえるのは 主観的に「怖いからやりたくない」という恐怖心を正当化するための「言い逃れ」や「はぐらかし」に過ぎない

ところがヒトというのは 主観的に「悩ましい」ことを論理客観的な「考え」か何かと錯覚し ニーチェのような都合の良い「迷言」をこじつけることによって自己欺瞞の満足に溺れ あたかも「自分は賢い」と勝手に倒錯することで 益々バカになるのである

「哲学」というものを大多数の衆愚は主観的な「悩み」を解消して安心満足することだと倒錯しているバカが大半だが

「哲学」は本来「科学」同様に論理客観的に真理(本当のこと)を見極め 嘘やデマと区別識別するためのものである

嘘やデマを信じ込んでいた場合 既に信じ込んでいた嘘やデマが本当は嘘やデマだと認識するためには 自分が今まで信じ込んでいた頭の悪さも認識しなければならず これが主観的気分にとって「嫌」であるため 認知的不協和を解消する形で「バックファイア効果」のような拒絶反応によってバカが治らなくなる

ヒトという種の生物は 「自分だけは絶対に大丈夫だ」という根拠のない過信に溺れていた方が気分的には安心満足だからである

こうした情動による思考撹乱というものは先天的な認知上の欠陥であり 誰に文句を言うこともできない一種の「天災」であって 不条理だろうが不安だろうが受け入れる以外に選択肢などない

 

 

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