書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ナショナルジオグラフィック

2021年12月04日 14時35分00秒 | 意識論関連

G・グエンテリが下顎の歯を再び進化させた理由や仕組みが明らかになったわけではない。


 出典:https://style.nikkei.com/article/DGXZQOUC176SS0X11C21A1000000/?page=3

 

⇨「進化させた」わけではない

遺伝的進化のメカニズムの中には能動的・主体的に進化を「させる」構造が存在していないからである

変異は常に起こっていて 環境に適応しない変異が起きても何らおかしいことではない

その後G・グエンテリというカエルが生き延びている証拠がないので絶滅した可能性もあるという

ロクロクビオトシブミが実在するのかどうかは知らんけど 配偶者選択であればいくらでも首が長くなるはずであり その果てに絶滅しても何らおかしくはない

遺伝的進化というものは 幾多もの絶滅(失敗)の果てに偶然生き残った個体種への収斂結果であって 遺伝的進化自体は現在進行形であり 変異によって「進化の袋小路(失敗)」の過程で突拍子もない個体種が発見されることも充分にありうる話である

理由や仕組みが明らかになったわけではない。」とも言っているが 遺伝的進化の「仕組み」はわかっているし「理由」など初めからない

進化は理由のために起きているのではなく 必然的に起きている自然現象でしかないのである

生物学者の多くや大衆マスコミは 遺伝的進化というものが人智を超越した意図目的戦略「考え」「思いつき」に則って ヒトの理解や意識を超越した実証不能の謎のメカニズムによって促されているかのように錯覚しているから「理由」をこじつけようとするのである

変異に「理由」はない

変異は常にランダムであり 何にもならない変異が起きても何の不思議もないのである

ヒトが時折先天性疾患を持って産まれてくることもあり 繁殖を継続できない子供が産まれてくることは それほど珍しいことではない

Y染色体の崩壊(自壊)によって 男の大半が繁殖不能になったとしても 偶発的にY染色体がなくても繁殖可能な変異が起きれば繁殖を継続することも可能となる

どっかのネズミだかモグラはY染色体を失ってなを繁殖を継続できているのも 偶発的に繁殖が可能なオスの個体種以外が全て死滅した結果であって 偶発的に繁殖可能なオスが出てこなければ絶滅しているのである

ネズミだのモグラというのは生態系ピラミッドの底辺に近い存在であるため 繁殖力た高く 世代交代も早いので遺伝的進化においては変異種の確率も増えるので偶発的に環境適応できる変異が残る確率も増えることになる

ヒトで同じ様にY染色体なしで繁殖可能となるのかどうかは知らんけど

変異任せにしているなら偶発的に「Y染色体なしで繁殖可能な個体」以外は全て絶滅することになる

まあ 数万年後の話なのでゲノム編集でナントカしちまうのかも知れないが

遺伝的進化というものに過剰な幻想を抱いて何でもかんでも「理由」をこじつけるのは科学を逸脱した妄想観念でしかないのである

 

 

関係ないけど gooブログの場合 一つの記事では3万文字の制限があった

文章書いて3万文字はなかかないかないが HTMLのタグで結構消費してしまうことはある

 

 


Ende;

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選択不可能性

2021年12月03日 22時48分44秒 | 意識論関連

自分以外の大多数と同じでないと不安になる

ヒトとは そういうものである

その不安には 実は根拠がない

同じヒトなんて本当はいないので 同じである必要性は何もない

「隣の芝生は蒼く見える」ものであり 他人は幸福そうに見えるものなのである

自分は幸福か?

原発事故帰還困難区域の酪農家と比べて自分は幸福なのか

家も息子も漁船も全て津波に流され たった一人で残された年老いた母親と比べて自分の方が不幸なのか

一族全員虐殺され 乳飲み子の妹を連れて逃げてきたロヒンギャの難民の娘と比べて 自分は恵まれていないのか

ナチス政権に反対してスイス山中で自決を余儀なくされた哲学者程の絶望が 本当に自分にはあるのか

 

ヒトは多数で同じ観念を共有しておけば安心する先天的習性がある

イジメというのは特定の標的を協調的に攻撃することで仲間意識を満足させられ 嗜虐性も満足させることができるので「楽しい」のである

多数で一人を攻撃することは卑劣であり とても悪趣味で非人道的な享楽だが 仲間同士で同じ観念を共有しておけば安心して楽しむことができる

その一時的な満足感のためにイジメは実行される

だが 残念ながら イジメというのは誰を標的にしても「楽しい」ので イジメ集団から仲間外れにされると自分が標的にされかねないので 誰彼構わずとにかくイジメ続けていなければならない

イジメ集団の内部には相互信頼関係など本当はなく その場限りの虚構の仲間意識を満足させることだけが「目的」となる

自分が被害者にならない最も簡単安易な方法は 自分が加害者に回ることである

自分から率先して酷いイジメをする者こそが 仲間内での高い順位序列を得られる競争が始まる

歯止めは効かない

誰も止めてはくれない

誰もが自分の生活で手一杯で 他人の行動のいちいちを全て把握することなど到底不可能である

児童相談所の職員も人員は限られている

優先順位が高いのは 乳幼児の虐待であって 学生のイジメの優先順位は決して高くはない

イジメをしている者というのは 暇なのである

本当に自分がやりたいことがわからないため 虚しい暇を仲間同士で悪趣味な享楽に溺れ それ以外の選択肢が何もないのだ

選ぶことができないという地獄

純粋に個人的な楽しみなんぞを持てば 仲間内からバカにされ イジメの標的にされるだけである

相互に仲間の個人的な楽しみをバカにされるので 誰も純粋に楽しめることを選べなくなる

そもそもイジメをするような者というのは 親から主体的選択を一切させてもらえない不満を 自分以外の他人にも八つ当たりする形でストレスを解消しようとしているのである

親本人には逆らえない

家庭内ヒエラルキーを受け入れている現実を 学級内でもヒエラルキーをでっち上げておくことで 自分だけが不理不尽な封建的独裁に服従している事実が正当化できると思っているのである

自分が抑圧されていることを正当化するために 他人を抑圧する快楽で補おうとしているのである

他人をイジメて抑圧しておけば 自分の方が優位に立ったような感覚が得られるが イジメをしているような奴のことを尊敬できるわけもなく 結局自己自身は肯定感が削がれるばかりである

親ガチャに大ハズレしている以上 イジメ以外には何の楽しみも感じられないので 逃げ場がないのである

「逃げられない」のはイジメられている被害者ではなく 本当は加害者の方である

自分が逃げ場所がないことを 他人に八つ当たりする形で「逃げたつもり」になっている

世の中には 本当はいろいろな楽しみがあるのだが 他人との比較競争でしか物事の価値を「感じ」られない者にとっては 他人の楽しみを奪うこと以外には何も「選ぶ」ことはできなくなっているのである

それはとても虚しい人生である

その虚しさを直視しないためには 他人を貶め続けることだけしか選択することができない地獄

自己肯定感の低い者が暴力的なイジメや差別に邁進するのは それ以外に何も選べないからである

大多数の衆愚の価値観を鵜呑みにし 他人との比較による優位性以外には何も感じられない虚しい人生を 自分ではどうすることもできない憐れな者が 他人を攻撃して 他人を従わせれば「自由」だと思っている

他人をどんなに暴力で服従させても 「他人を暴力で服従させている自分」以外は何も選べない

選択不可能とは 「自由ではない」という意味である

選べないものに自由はない

当たり前の話である

 

 

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青門の頭に草

2021年12月03日 15時12分48秒 | 日記

岩淵水門(青門)の上に草生えてるように見える

放置しとくと建物に悪影響を及ぼさないかと心配している

#心配性

 

Ende;

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嫌な相手とどう付き合うか

2021年12月03日 12時39分47秒 | 意識論関連

「嫌い」とか「ウザい」なんていうのは個人的な主観や印象に過ぎないので 基準としてあやふやで普遍性に欠ける

「攻撃的」というのも主観が介在し 社会的に無責任な奴を攻撃的に批判しているからといって人格に問題があるわけではない

糞DQNの主観からすれば 正しいことを主張してくる相手は「嫌い」で「ウザい」奴ということになる

カルト宗教の信者なら 「お前さんが信じ込んでいる教祖は頭がおかしいぞ」と言ってくる相手は「嫌い」で「ウザい」奴という話になる

振り込め詐欺師に騙されてコンビニでプリペイドカードを大量に買おうとしているボケジジイに「騙されていませんか?」などと言えば ボケジジイは「そんなことはない!」と怒り出すものである

主観的な感覚や印象を基準にするから自己客観性が失われるのであって 重要なのは論理的根拠が伴う真実なのかどうかを判別する能力の方である

NHKの番組制作者達は生物学における遺伝的進化に対する誤謬に耳を貸さずに「○○を目的として進化を選択した」といった非科学的オカルト観念に基づいた「説明」を一切やめようとしないが これもまたNHK番組制作者達が「学術権威の多数決」を「科学的真理」だと主観的に「思って」いるからである

厄介なことに 学力偏差値が高い奴というのは 「自分は他の奴よりも頭が良い」と勝手に勘違いしているフシがあり 自分が学校で教わったことには一切の間違いなど存在しないはずだという盲目性を発揮しているために 都合の悪い気分の悪くなる話を平気で無視するのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に論理客観的根拠が示されていないことにも気づかず

マイケル:サンデルの「トロッコ問題」には倫理が含まれていないことにも気づくことなく鵜呑みにするのが「学力偏差値が高いだけのバカ」というものである

「多数が正しいと言っているのであれば それは正しいとみなしておいて構わない」と「思って」いるのである

だから自分の頭では論理的に検証(考える)しないため 間違ったことを多数が信じていれば気分的に安心満足して一切疑うことをしなくなる

「嫌な相手と どう付き合うか」については養老孟司も述べていたことがあり その解決策は「意識から外す 無視する」といった短絡的なものであった

カルト宗教の信者がこれを鵜呑みにすれば 自分が信じ込んでいる対象への批判は全て「意識から外し 無視」されてしまうことになる

ナチス政権に迎合していても ミャンマー政府軍の兵士でも 北朝鮮政府高官達であっても 日大事業部の組織腐敗であっても同じことである

大学でニーチェを教え込まれ 何の疑いも持たずに鵜呑みにしたバカ学生は 後に「基準に客観的根拠がない」と指摘されても理解しようとはしないものである

逆に 指摘されて理解した学生の大半も「自分はバカだった」と気分(主観的印象)的に落ち込むだけで 「どうして鵜呑みにしちゃったんだろう」と客観的に自己検証することはしないものである

「禊(みそぎ)」と称して自分に懲罰を加えて「解決した」と勝手に勘違いしているバカも多いが 自己であれ他人であれ懲罰報復は主観的満足に過ぎず 客観的には「解決」になどならない

ヒトという種の生物は 基本(先天)的にバカなので 間違うことがままある

間違ったことが悪いのではなく 間違った時に原因を究明して再発防止の知識教訓として周知することこそが再発防止に最も有効な対策となるのである

自分の間違いを周知することは 主観的に「恥ずかしい」と思うものであるが 「恥ずかしい」というのは恐怖心であって 「衆人から排除される恐怖」という主観的感覚や印象に過ぎない

衆人から排除されるかどうかは人間としての価値にはならない ナチスに反対して自決を余儀なくされても 地動説を主張して火炙りにされそうになっても イジメに反対してイジメの標的にされたつぃても 真理(人間として正しい行動)かどうかは無関係である

目先の多数に迎合する形で組織は腐敗する それは日大を見れば明らかである 「怖い相手には逆らわない」からこそ マスコミは上司からの命令に唯々諾々と服従する形で菅義偉元首相や尾身茂分科会会長への密集囲みぶら下がり取材を強行していたのである

私が数回に渡って指摘しても 一切耳を貸さなかったのは 自分達集団内部の「正義」が絶対的なものだと主観的に「思って」いたからである

現場で取材をしている記者達にとって 都合の悪い指摘をしてくる相手は「嫌な相手」であり 無視して意識から外しておいても構わないと「思って」いたからである

自分が所属する組織内部での評価を優先する形で「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが 原発も含めあらゆる「人災」の根本原因なのである

 

 

 

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無意識であるということ

2021年12月02日 14時54分24秒 | 意識論関連

「ワクチン危険」程度のレベルの低いデマを見抜くには 複数の信頼できるメディアの見解も見てみることは有効だが

そもそもデマに騙されエコーチェンバーに陥るようなバカだと自分の主観的印象の方が優先しちゃって自己客観性が抜け落ちちゃうので 他のメディアで否定的見解を多数みつけても自分が一度信用した内容の方だけが正しいという思い込みが生じてしまうので 実質的にはあまり意味を為さない

振り込め詐欺師やカルト宗教を一旦信じ込んだ者に理屈が通じないのと一緒である

低レベルなデマなら NHKや民放各社などで共通して否定されているのであれば それは「ある程度」はマスコミを信用しても良いとは言える

しかし 科学的誤謬に関してはこの限りではない

そもそも生物学界においても遺伝的進化に対する見解は一致しておらず 遠藤秀紀ら一部の生物学者は遺伝的進化には意図目的戦略「考え」「思いつき」が遺伝子に影響を及ぼすことはないと言っているのであって 他の大多数の生物学権威共が論理的に支離滅裂な「説明」をしているのは明らかである

歴史教科書が 新たな事実の発見によって書き換えられるのと同様に 生物学においても間違いが発見された以上は教科書から書き直さなければならないはずである

宇宙の始まりが何億年前なのかも 毎年のように書き換えられており 当初は確か135億年だったはずだが最近は3億年くらい延長されているらしい

天文学の場合は観測データや理論が更新されれば精度が向上するわけで 修正が常に加えられることになる

そもそもビッグバン理論が提唱される以前には宇宙の年齢なんぞ誰も考えたことすらなかったのであり 理論の更新によって138億年などといった数値が割り出されるようになったのである

 

生物学界における遺伝的進化の「説明」においても 従来は現存する生物だけを抽出してきて「進化のほとんどは成功する」という根拠のない観念に基づいた「説明」が長期に亘って行われてきた

昆虫の擬態が「思いつき」によるものだという「説明」には 科学的な根拠(収斂プロセスの説明)が全く抜け落ちているのである

最近のNHK番組においても「子宮内膜を厚くすることを考えた」などといった「説明」をしていたが 「考え」という後天的なものが遺伝子に影響を及ぼすメカニズムは何も立証されていないのである

どうも大半のマスコミや大衆は こうした科学的根拠のない「説明」が人畜無害だとでも思っているらしいが それはトンデモナイ大間違いである

長谷川眞理子はチャールズ:ダーウィンが人道主義者だったことを述べているにも関わらず 一方では「○○のために進化を選んだのよ」といった間違った「説明」を散々していたし 下手をすると今でもしている可能性はある

優生学がなぜ信じ込まれたのかと言えば 「遺伝的進化というものが常に正しい結果しかもたらさない万能のもので 遺伝的進化のプロセスを踏襲しておけばヒトという種の生物も更なる優秀な生物へと進化するはずだ」という衆愚の妄想観念による「こじつけ」がされているからである

こうした論理的反証を長谷川は全くしておらず ただ「ダーウィンは人道主義者だった」と言っているだけであり むしろダーウィンの進化論とは整合性のない遺伝的進化の「説明」をしてしまっていたのであり 訂正も修正も何もしていないのであって 支離滅裂で無責任である

 

ネズミやイワシは大量に繁殖して 大量に喰われることで生態系のピラミッドの一部としての「役割」を果たしている

ネズミやイワシがどんなに後天的に「困って」も 子供や仲間が大量に喰われることに対して抗うことはできず 生態系の安定環境下において「繁殖が継続」さえしていれば絶滅にはなっていないので「生物」として存続しているという自然現象の「結果」に過ぎない ネズミやイワシの「都合」は存続とは関係がない

ヒトが暴力を用いた統率協調性を発揮し 封建的な順位序列社会を形成しがちなのも ヒトの祖先の生息環境において「生存」や「繁殖の継続」に有利に働いた「結果」に過ぎない

ヒトが「カリスマ」だの「英雄」だの「権威」だの「神」といった特定の人物への盲目的信頼や人気を あたかも人間としての絶対的基準であるかのような印象を持ってしまうのも 統率協調性を発揮する本能習性の「名残り」である

先天的本能習性としての統率協調性というものは あくまで順位序列によるピラミッド構造でしかなく 順位序列が「下」とみなされれば暴力的抑圧によって粛正されることにしか陥らない

ヒトは先天的に平等が嫌いなのである

大多数の生物学権威や哲学権威に対して異論を唱えても 権威肩書のないただの匿名のオッサンが何を言っても誰も耳を貸さないのは 言っている内容よりも権威肩書などの主観的「印象」に操作されているからである

 

遠藤秀紀であっても ヒトが「生物として欠陥品」だと主張しているだけであって 「人間として欠陥品」だとまでは言及していないし 「先天的な認知的欠陥」についても論じたことはない それでも 遺伝的進化のアルゴリズムに意図目的戦略「考え」「思いつき」が遺伝子に影響を及ぼさないことは明確に断言しているのである

ブチハイエナの6割が死産することも「生物としては欠陥品」だと言うことは可能であり 特定環境下において「繁殖が継続」さえできていれば絶滅にはならないので 結果的に「生物」として存在しているという「結果」でしかない

絶滅さえしていなければ「生物」なのであって 「生物」にそれ以上の何らかの「目的」が存在しているわけではない

遺伝的進化の「流れ」から その「流れ」の方向性を想像や妄想で延長し 遺伝的進化の「目的」をでっち上げてしまうから優生学などというオカルト観念が温存されてしまうのである

遺伝的進化というものは あくまで自然現象であって どんなに生存や生体恒常性にとって適した形質や習性を陳列枚挙しても 「生物の目的は生存」であることの論証にはならず あくまで「結果的に生存しているものを生物と分類している」だけの話なのである

私は自殺を否定はしないが 「学校に馴染めない」程度のくだらない理由で自殺することは容認できない

当人にとっては人生の一大事だとでも「思って」いるのだろうが 「大人って長いよぉ」と言いたい

未成年の「社会」の中だけの価値観だけで簡単に自殺を選択することは むしろ軽薄で意味がない幼稚な暴走でしかない

親ガチャにハズレて気分の悪い毎日だとしても ナチスに追われてスイス山中で自決する程の絶望だとは言えないのである

「教育の義務」に対しても 多くの衆愚は間違った解釈をしており そもそも「教育の義務」というのは貧困家庭が子供を労働力として遣ってしまうことによって 子供が知りたい知識を得られないようにならないために大人の方に科されている義務であって 「学校に通わせる義務」なんぞ存在しないのである

イジメが蔓延しているような学級に馴染んでも それは「人間としての社会性」が身につくわけではなく むしろ学級内ヒエラルキーを鵜呑みにする形で「卑劣な貶め合い競争」を「学習」し SNS上での誹謗中傷や私刑やヘイトスピーチを鵜呑みにするバカが育つだけである

バカに馴染んでもバカにしかならない 当たり前の話である

子供が自殺するのは大人の方の問題であり 大人がバカだから子供を自殺に追い詰めてしまうのである

本気で子供の為を考えれば 「本当の目的」に則った行動選択をすべきであって 「皆と違うと不安だから」とか世間的体裁なんぞを優先するから子供を自殺に追い込んでしまうのである

世間的体裁を取り繕っても 世間は何も子供の人生を保証してはくれないし イジメがなくなるわけでもない

若い人が生活保護を受給したがらないのも 世間的体裁や順位序列への執着や強迫観念が働いていているからである 客観的にみて現状の社会経済システムには根本的欠陥が存在しているのであって 日本の国籍を持っているのに生活が成り立たないというのは本人の問題だけではない

「世間」という多数に迎合しても 忖度しても むしろ社会の「常識」に原因を持つ問題が温存されることになるのである

学力成績に執着しても「認知的ワクチン」として機能することもなく 実際に東大医学部の学生による毒ガステロ事件からも学力成績は知能とは無関係であることが立証されており

しかも 司法刑罰制度によって「なぜ学力偏差値が高い東大医学部の学生がテロなんぞをやるようになったのか」についての原因究明も再発防止策も具体的には何も行われていないのである

今の日本の社会には欠陥がある ヒトが作っている以上欠陥が一切存在しない社会などむしろ無いと考えるべきであって 一つ一つの欠陥や間違いを丁寧に修正し 常にバージョンアップしてゆくことが重要なのである

学力偏差値が知能の本質だと錯覚し その錯覚に基づいてバカの言いなりになっているから社会の問題の根源が見えなくなってしまうのである

 

「ウイルス弱毒化説」においても その根拠とされているのは進化生物学上の誤謬に基づいたものであり ウイルスの意図目的戦略「考え」「思いつき」「困る」といったものが変異に影響を与え 必ず弱毒共生進化に「成功」するものだという妄想観念に基づいたものである

旧来から存在している4種の弱毒鼻風邪コロナウイルスだけを例に挙げ あたかも過去にそれ以外の強毒絶滅株種が宿主ごと絶滅を引き起こした「失敗」が全く存在していないかのように「説明」する研究医がいるのも 進化生物学界が遺伝的進化における間違った「説明」を訂正も修正も周知徹底もせずに傍観放置している無責任性によるものである

大手町の医師は「毒性が強すぎると弱毒化しない」などと言っていたが 実際にはアナウサギに対するミクソーマウイルスは当初の致死率95%という圧倒的強毒性を持っており また 新型コロナウイルスとは比べ物にならない程の強毒性を持ったエボラウイルスでも弱毒化は起きているのである

宿主ごと死滅してしまうウイルスは遺ることができず 結果的に弱毒株だけへの収斂が起きることにはなるのだが ミクソーマウイルスの弱毒化も致死率50%に低下したに過ぎず 繁殖力の高いアナウサギなら共生可能なのかも知れないが ヒトがエボラウイルスと弱毒共生するために一体どれだけの「犠牲」が必要なのかは全く未知数である

実際にコロナウイルスはSARSやMARSなど 数年に一度の割合で強毒変異を引き起こしており 決して「常に弱毒化しかしない」などという都合の良いものではないことは明らかである

いつ どこで どのような変異が起こるのかは 突然変異である以上誰にも予測はつかないカオスの領域である

アルファ株に対してデルタ株は若年層での重症化リスクは上がっているのであって これから何が起きるのかは誰にも断言などできないのである

ウイルス自壊の可能性がどの程度あるのかはわからないが 遺伝子というのはATGC(RNAウイルスの場合はAUGCだそうだ)4っつの塩基による一種のデジタル情報であり 一度失った性質が偶然元通りに復元される可能性も存在はしているのである

旧来の弱毒鼻風邪ウイルスが自壊しして寿命を迎えずに何億年も感染し続けられるのは 自己修復能力があるためであって 新型コロナウイルス程の変異が起こらないことが弱毒共生性に結びついたと考えられる

宿主側もウイルス程ではないにせよ 遺伝的進化によって免疫力の高い個体への淘汰収斂は起きるからである

だが 強毒性と自己修復のどちらが先に獲得されるのかはわからない

強毒性を発揮したまま自己修復能力を獲得されたら 宿主のヒト側に甚大な「犠牲」を伴った収斂進化を余儀なくされる可能性もなくはない

地球環境全体から見た場合 ヒトという種の生物は「異常繁殖」であることは間違いなく ウイルス側から見た場合には豊富な環境資源に恵まれ繁殖し放題な状態であると言える

マグネシウムの中に火を放つようなものであるからこそ 簡単にパンデミックが起こるのである

弱毒化が起きるのは ほぼ鎮火した後の話である

「鎮火」が一体何を意味するのかと言えば 燃料となる資源(宿主)が枯渇しなければ自然鎮火にはならない

過去にどれだけの「自然鎮火」が生じたのかは 誰も知らないのである

遺伝的進化のメカニズムに則って考えれば 膨大な「犠牲」による幾度もの「失敗」の果てに偶発的に「成功」した個体種や株種が現存しているに過ぎない

遺伝的進化のアルゴリズムというのは 決してヒトなどの特定の種が絶滅せずに存続可能かどうかを一切保証してはくれないのである

どの種の生物がいつ絶滅してもおかしくはない それが遺伝的進化というものである

別に恐怖を煽っているわけではなく 遺伝的進化といものを気分が良くなるように都合よく勝手な解釈をすべきではないと言っているのである

ヒトの民族浄化バイアスも 順位序列への執着も 権威に対する盲目的服従性も 生活習慣病に陥りやすいのも 全ては遺伝的進化によって遺伝子に組み込まれた「結果」によるものである

人間としての知能を発揮できれば 自然現象の「結果」に左右されることなく 先天的欲望に流されることなく 本当に合理性のある安全で平等な社会を作ることは可能である

「完全」には無理かも知れないが 「より近付けること」は間違いなく可能である

「親ガチャ」に限らず「時代ガチャ」や「国ガチャ」「学校ガチャ」「職場ガチャ」「地域ガチャ」というのもあるかも知れない それは確かに不公平ではあるが 不公平を解消するために必要なのは泥酔して騒いだり暴れたりすることではなく 論理客観的に原因を徹底究明して再発防止の対策を創出することである

多数世間に迎合同調しておいた方が生活は楽ではあろうが 居酒屋が泥酔者を量産して社会的負担になることを「仕事だから仕方ない」で済まされる話ではない

温室効果ガスを削減するために自動車メーカーが開発を負担するように 居酒屋にも「一人の客に一定以上のアルコールを提供しない」などの制限は必要であろう

日本では泥酔して街を歩き回っても 用もないの一人で大型乗用車でに走り回っても 温水シャワーを出しっぱなしにしても それだけで逮捕されることはないが 合法なら何をしても許されるわけではないのである

「個人が自律的な社会的責任を負うこと」なしに 社会持続可能性は担保されることはない

社会持続可能性を求めないのであれば もはや生き続ける必要性もないのである

「生存自体に意味がない」というのは 人間として生きるのが嫌ならヒトであること自体を放棄(死ね)すれば良いという意味である

他人に迷惑をかけて優越感に浸っても その「優越感に浸っている者」を尊敬できず 肯定できないなら それは自分も肯定することはできないのである

糞DQN同士で共感していれば 仲間同士で共感している間だけは安心満足感が得られるだろうが むしろ仲間との共感共鳴だけでしか満足感が得られないことから 他人への迷惑を競うようにヤクザや暴力団は暴走するのである

虚無主義などの「暗黒面」とは 光(希望や理想)への歩みに安易に絶望することで安易に流される精神的怠惰によるものである

 ◇

学生時代にイジメを止めた時 イジメをしていた奴から「格好つけてんじゃねぇよ」と言われたことがある

「は? 何? お前はイジメが格好悪いって自覚があんのか?」と聞き返したことがある

そいつはヘラヘラと笑って何も答えなかったが 目先の快楽しか行動動機になっていない奴というのは自己客観性というものが全くないのである

欲望のままに行動していることが「自由」だと勘違いしているのであろう

そういう奴を「バカ」というのである

学習障害などとは無関係である

盲目であっても得意で好きなら世界的ピアニストになることもある

もちろん好きで得意なら何でも世間的に成功できるわけではないが 少なくとも好きなら楽しいのであって 他人を貶めて優越感に浸るようなバカげた迷惑行為よりも遥かに建設的な人生である

個人的に好きなことを続けるためには 社会安全性や公平性にも配慮は働くようになる

どんなに会社内での地位や世間的格付けや資産の量や納税額を自慢しても 人間としての自律的な社会的責任が負えないのでは 人間としての存在価値はないのである

私は大体いつも当たり前のことしか言っていない

その当たり前のことすら自分では考えずに 目先の評価や多数派迎合ばかりに意識を奪われているから「無意識」だと言っているのである

 

 

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無能者の選択

2021年12月01日 17時46分06秒 | 意識論関連

松沢哲郎は「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと称して文化功労賞まで獲得しているが ヒトであっても先天的行動習性の中には人間性を欠いたものも存在しているのであり

1960年代には既にスタンレー:ミルグラムのアイヒマン実験によってヒトの危険性は「立証」されているのである

そもそも松沢が「行動習性から人間としての社会性」を立証しようと言い出したのは 私が生物学上の「社会性(封建的服従統率的協調行動習性)」というものが人間としての社会性とは無関係であることを指摘したことに対する「はぐらかし」に他ならない

11億を超える研究費不正流用をするような松沢が「人間性」を論じようなどというのは支離滅裂も甚だしい 約束事すら守れない奴が「人間としての社会性を立証」できるわけがなかろう バカバカしい

残念ながらミルグラムは 「サイバネティクスの観点から」と称して従来の生物学的誤謬に基づいた論証までしてしまっているものの 決して一面的効用だけを根拠に本能習性の全てが合理的であることの立証になるわけではない

「サイバネティクスの観点」とは シーケンシャル(自動制御的)な効果を意味するものであり 封建的統率服従性を特定の状況下における有用性だけを取り上げて正当化しているに過ぎず 何ら普遍的人間性や安全性の論証になっているわけではない

ヒトの先天的習性を利用して盲目的服従集団を作れば 反社会的暴力者集団に対しての対抗組織として使うことも可能ではあるが 逆に統率者が暴力的に民衆弾圧をする際にも「便利に使える」のであって 一面的効用だけを抽出して全面的有用性であるかのように言い張るのは「こじつけ」でしかない

 

ヒトの先天的な行動習性というものから人間性を立証することは原理的に不可能である

特定環境下においてどのような行動習性を抽出してきたとしても ヒトという種の生物が既に行ってきたあらゆる残虐行為を反証することは不可能だからである

振り込め詐欺師が仲間内で食事を奢ろうが 東京電力や日大の組織腐敗体制にとって都合の良い統率性を発揮しようが それらはむしろ「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」という非人間性の立証にしかならないのである

山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという根拠のない予測で衆愚から人気を集めていたが その一方で安倍内閣を「ゴリラと一緒で忖度だらけ」などと形容しているのである

「忖度する」のはゴリラやヒトの先天的習性であって それこそが組織腐敗や隠蔽の温床となる原因であり 山極の言っている内容には論理的一貫性がなく その場限りの衆愚迎合に過ぎず 極めて無責任である

ゴリラやチンパンジーにジェンダー平等は通用しない

ゴリラは障害を負った仲間を排除はしないが 助けもしないのである

先天的本能習性というものは 祖先の生息環境や統率協調性が生存や繁殖の継続にとって有利に働いたことによる収斂進化の結果であって 常に人間性にとって適した行動を促してくれるような都合の良いものではないのである

いきあたりばったりに都合の良いこじつけで衆愚人気を集めるのは簡単で 占い師が「ズバリ言うわよ」などと宣言しておきながら「占い師の言っていることなんか真に受ける方が頭がおかしい」などと言い出すのと同じで 言っている内容に論理整合性がないというのは 要するに「無責任だ」ということである

ところがマスコミ衆愚は人気者や権威の言っている内容の論理整合性には全く興味を示さず その場限りの論説を鵜呑みにして満足するだけであり これは洗脳状態と何ら違いはないのである

 

ヒトという種の生物は そのほとんどが自分の頭では物事を論理客観的には検証しようとはせず 権威肩書など主観的に安心できる相手を盲目的に信頼し 唯々諾々と服従忖度迎合同調して満足し その主観的満足こそが自発的論理検証性を放棄させ 思考停止に陥れるのである

日大の組織腐敗に対し マスコミの大半はトップの「責任者」だけが悪いかのように形容しているが 「腐った頭」に服従忖度迎合する集団に迎合し 自分が属する集団組織の存続させることで自分の地位権益をも温存しようとする大多数の服従者の無責任性こそが組織腐敗の根源的原因なのである

何度も言っているが 「個人が自律的な社会的責任判断選択をすること」こそが人間性の根源本質であり 単に多数派に同調迎合しているだけでは「真実を見極めた」ことにはならない

自分の頭で考えても「わからない」というのであれば これは判断として間違っているとは言えないが 本当は「わかりもしない」のに権威組織の多数決を鵜呑みにするというのは 科学的には正しい判断とは言えないのである

「わからない」ことを正直に「わからない」として判断保留をするならまだしも 本当は「わかっていない」のに既存の権威の多数決を鵜呑みにして垂れ流すというのは 報道機関として無責任である

 

ヒトは今までイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的根拠のないカントの勝手な妄想観念を鵜呑みにしていたバカが大半である

それでも「入試に合格した大学で教えられている内容なら 絶対に間違ってなどいないはずだ」という思い込みによって 誰も「話がおかしい」とは言い出さないのである

学力成績評価という抽象化された「脳への報酬」だけが目的になっているために 自律的に論理検証して疑うという批判精神が全く働かないからである

京大学長や文化功労賞受賞者を批判しても 「勝てそうにない」と主観的に思えば誰も批判しなくなるものである

フリードリヒ:ニーチェの「できそうにないことは やらない方が良い」などという基準のあやふやな「迷言」を鵜呑みにし 都合よく何もやらないことの方が安心で満足なのは当たり前である

ヒトという種の生物は 自律的に社会的責任判断選択をするよりも その場限りに多数派や権威に迎合同調忖度服従することで 主観的に安心満足することの方を優先する先天的習性がある

だから日大やミャンマー政府軍のような組織腐敗が暴走するのである

長谷川眞理子は散々「〇〇のために進化を選んだのよ」などという「説明」をしてきたのであり これはチャールズ:ダーウィンの進化論とは論理整合性が全くとれていないのである

2015年の段階で長谷川は ダーウィンが差別主義を糾弾している立場であったことを述べているが ダーウィンは遺伝的進化はただの自然現象であって 特定環境への適応によって生存や繁殖が継続可能になる「結果」を論証しただけであって 「○○のために進化を選んだ」という説明はしていないはずである 私は原語版が読めないので明確にはわからない上に 翻訳が国内の生物学者(養老孟司訳まである)によるものである以上信頼性が著しく低く意味がない

遺伝的進化というものが選択可能であるかのように言うのであれば 先天性疾患を持って産まれてきた障害者は「愚か」だという理屈になり これが優生学の温床となってきたのである

遺伝的進化というものには主体的選択可能性は存在せず あくまでシーケンシャルな自然現象という「結果」であって 特定の「結果」の必然性の中から一面的合理性だけを抽出枚挙してきても遺伝的進化の全てが「正しい」結果をもたらす「目的」であることの論拠には全くならない

 


本ブログが匿名のままなのは 「他人から見た目の主観的印象で判断されたくない」のが理由である

一般には「匿名の書き込みは信用ならない」とされているが そもそも学術権威の大多数を批判する以上は敵が多すぎて到底実名が出せる段階にはない

私自身の信頼性はともかく 内容自体は論理客観的理解判断が可能かどうかは全く別次元の話であり 主観的に「信じたくない」かどうかは「内容を理解すること」とは同列にはならない

遺伝的進化における誤謬についても 「刑法判決で解決」としてしまう司法制度の欠陥も 決して私だけが主張している特異な持論ではなく 一部の学術権威や知識人も言っていることである

意識の本質について論じる上においては ヒトの主観的安心満足を提供するような人気取りとは完全に逆行する必要があり どうしたって「苦言」や「批判」にしかならない

生物学界や哲学界の組織的腐敗に対して何の批判精神も持たずに同調迎合忖度服従したり 傍観放置して責任逃れに終始することは簡単だが それは社会的責任を全く負わない「無能なデクノボウの選択」に過ぎない

無能なデクノボウしかいない社会がどのような結果に至るのかは 私の責任の範疇にはない

 

 

 

Ende;

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短絡的正義

2021年12月01日 12時34分51秒 | 意識論関連

遺伝的進化において変異による多様性拡大は不可欠なものであるが だからといって「人間社会において多様性を許容すること」とは意味が全く異なる

遺伝的進化というのは 全て結果的に死滅せずに繁殖を継続することに成功しただけであって 変異の結果生存に適さない個体の全てを淘汰(見捨てる)ことで起こった「結果」でしかない

人間社会において「変異に失敗したから淘汰断種の対象」にするなどというのは非人道的も甚だしい

ヒトは その遺伝的進化の過程において 民族浄化バイアスが組み込まれているために 異質な個体を差別排除するという先天的本能習性があるため 多様性を許容することが出来ないのである

少数異端を「火炙り」にでもしておけば安心満足で 何が真実なのかを個人が自律的に検証することはほとんど誰もせず ただ既存の権威や多数や「常識」に則って機械手続き的に「複数の信頼できるメディア」を信用しておけば良いと勘違いしている

遺伝的進化における誤謬に関しては 生物学界の大多数が間違った「説明」をしているのであって その多数決だけでは科学的根拠に基づいた事実の根拠にはならない

デマに洗脳されてエコーチェンバーに陥り 強迫観念でデマを信じ込む危険性も 結局は個人的主観や印象が作り出す錯覚によるものであり 自律的に論理検証して科学的に正しいかどうかを自分の頭で「考え」れば 「○○のために進化を選んだ」などというバカ生物学者共の「説明」が間違いであることは明らかであり 遠藤秀紀などの一部の生物学者はこれを「典型的な間違い」だと指摘しているのである

従来生物学では昆虫の擬態というものの説明において 「天敵からの捕食から免れるために自らの姿を生息環境に似せた」といった説明をしてきたが 後天的に自らの遺伝的性質を「選択」することなど論理的に不可能であり こうした説明の全ては科学的根拠がないのである

擬態というのは 先天的に生息環境に似ていた個体以外が全て淘汰され続けた結果として生息環境により似た変異個体への収斂の結果であって 先天的に生息環境に似ていない個体が全て天敵に喰われ続けた結果であり こうした収斂進化のプロセスのどこにも「自らの姿を選択」するメカニズムが入り込む余地はない

大衆観念的錯覚に基づいた「遺伝的進化万能性」妄想に都合の良い「説明」の方が多数人気や支持が得られやすいものだが 科学は多数決ではないのである

大脳容積が1400ccもありながら バカみたいに日大事業部などの組織腐敗に同調迎合服従忖度傍観放置することが繰り返されるのは ヒトが「自分達は知的生命体だ」などと勝手に勘違いしているのが原因である

遺伝的進化というものに後天的な意図目的戦略「考え」「思いつき」が影響を及ぼさないことは 決してそんなに難解な話ではなく ちょっと自分の頭で考えれば間違いであることは理解可能なものであるはずだが

衆愚マスコミの大多数は学術権威肩書の多数決だけが科学的に正しい話だという「印象」によって 自分の頭で考え判断することを全くしなくなるのである

医師免許を持った大手町の医師や 日医大の特任教授ですら遺伝的進化を万能だと錯覚したまま「ウイルスは弱毒化する」などと言い出すのは ヒトが先天的に「自分の頭で物事を論理検証しない」性質(認知的欠陥)が存在するからである

遺伝的進化というものは 変異によるバリエーション拡大の時点では生存にすら適さない「失敗」変異が必ず伴うものであって 決して全てが「成功」するようなものではなく むしろ常に先天性疾患などの「失敗」を伴うものであって 到底「進化は人間より賢い」などというトンチンカンな形容詞は科学的真理とは言えないのである

ヒトの変異による先天性疾患はそれほど多くはないが これは遺伝的進化の結果的な恒常性が組み込まれているからであり 過去の膨大な進化的「失敗」によって獲得した恒常性であって それでもなを先天性疾患変異は起きるのである

遺伝的進化の過程において不可避な「失敗」も 所詮は「結果」であって 「資源効率的に無駄」だと称して断種や殺害を正当化できるわけがないのである

生物やその遺伝的進化によってもたらされる「生存」や「繁殖の継続」も全ては自然現象という「結果」であって これは選択不可能である 過剰なまでに資源効率を追求するから弱者を差別排除する優生学が正当化されてしまうのであって むしろ弱者を守ってこその「人間」性や倫理なのである

「生産性」だの「資源効率」は 「生存」や「繁殖の継続」という生物的「正義」においては適していると言うことは可能だが そもそも生物も その遺伝的性質も 「生存」も「繁殖の継続」も全て結果であって どうしてただの自然現象の「結果」における効率だけを追求しなければならないのか わけがわからない

一面的合理性や効率性だけを「正義」として扱う短絡性こそが ヒトの頭の悪さの原因であ

「生きるため」と称して既存の体制に迎合同調服従忖度しても その「共生」性は何ら人間性の論拠にはならない

 

 


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根拠のない決めつけは真理の最大の敵である

2021年12月01日 11時12分56秒 | 意識論関連

落合陽一は「人は一人では生きていけないから共生する」と述べていたが

「生きること」自体を目的にしても永遠に生きられるわけではない

「生きている」という生物としての結果は人間性や倫理とは整合性がなく

人間性や倫理に適うのは「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であり これは必ずしも「生きる」こととの両立が成立するわけではない

自己が死ぬことは不可避であり 死ぬことを前提としてなを生き続けることの理由とは「生存」自体にあるのではなく 社会安全性や公平性を求めることである

個人が自律的に社会安全性や公平性を求めるために必要なのは自主性・主体性・能動性である

どう「生きるか」と どう「死ぬか」 何に「命を賭ける」のかは同義であり ただ漫然とかりそめの「生存」のために共生を求めることには主体性が欠如しているのである

その「命を賭ける」だけの価値ある「信念」というものに論理客観的根拠が伴うのかどうかが重要なのであって 「実証不能の観念」に囚われ懲罰や暴力破壊で「解決」しようとする衆愚の正義が危険なのである

フリードリヒ:ニーチェは「信念は真理の敵」だと決めつけたが 信念というものに論理客観的根拠(真理)が伴うかどうかが重要なのであって 頭ごなしに「信念の全ては真理の敵」であるかのような決めつけこそが「嘘」であり 正に「真理の敵」なのである

衆愚というのは自分の頭で物事を判断せず 他人の「迷言」の類いを盲目的に信奉して安心満足することしかしたがらない

それこそがヒトという種の生物の先天的欠陥・認知的欠陥なのである

 

 

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八角形のハロー

2021年12月01日 11時06分36秒 | 写真

デジタル写真で時折こういう八角形のハローみたいのをみたことがあって

何が原因なのかと思ってたら絞りすぎ(f:22)による回折の影響らしい

 

f:8なら八角形は出ない

 

 

 

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