江北橋
足立区宮城
東武伊勢崎線堀切駅(千住曙町)
Ende;
幼少期に親のDVがあり 警察が来ることなどもあった 妹たちを守っていた
精神医学を学びたくて大学に合格したが 学費が足りずに通えなかった
(NHK 「ドキュメント72時間」より)
◇
いつも思っているんだけど 何で学費払わないと学べないんだろう
本人が学びたいを思っている人がいるなら それは学校に通える人だけじゃなくて誰でも学べるようにしとけば良いだろうと
学力偏差値が高くても 高くなくても 誰でも公平に学べるようになってるのが本来だろうと思う
一体何のためのIT(情報技術)なんだと いつも思う
何だろ 構造的な情報統制じゃないかと だから哲学界とか生物学界の組織腐敗が放置されてしまうことにもなる
学費が払えないと学べないという状態を放置しているのは 文科省が「教育の義務」を放棄しているのと同義である
金支払って教え込まれると 「金を支払ったんだから内容が保証されているものだ」というバイアスがかかって主体的疑問を持たなくなる習性がヒトにはある
身銭を切って買った書籍の内容も鵜呑みにする習性もある
金を支払ったという既成事実を事後正当化する形で認知的不協和を解消しようとして 疑うことをしなくなるのである
「金を支払った」時点で それを「信用していた自分」を疑いたくないのである
「信用していた自分」を疑う自己客観性がないから 教え込まれた内容を誰も検証しなくなり バカになるのである
医者の一部が「ウイルスは弱毒化する」などと断言しているが 弱毒化のプロセスを論理客観的に正しく説明している者は一人もおらず ただ「一般的にウイルスは弱毒化する傾向がある」ことから 遺伝的進化を絶対万能だと勘違いして「絶対に弱毒化する」と勘違いしているに過ぎないのである
教えられた内容を 教えられた通りに覚えておけば 臨床医という「商売」は可能である
「臨床は科学ではない」ので 「概ね正しい」ことは「絶対に正しい」と勝手に解釈していても責任は厚労省が取ってくれるので 間違ったことを教えられて鵜呑みにしていても「自分の所為ではない」と思っているから 科学的根拠がなくても「弱毒化する」と言い張るのである
「オミクロン株がデルタ株よりも毒性が低い」という話があるが そもそもデルタ株はアルファ株以前の初期株よりも若年層での重症化リスクが上がって強毒化していたのであり オミクロン株は遺伝子的にはアルファ株以前の初期株由来であることからも 初期株程度の毒性を持っている可能性はあり 決して「弱毒化している」とは言えないし これからの変異によって毒性がどう変わるのかも予測は不可能である
遺伝的進化というものは あくまで環境適応して繁殖を継続可能な種が生き残るという自然現象の「結果」だけであって その全てが「成功」する保証はどこにも存在しないのである
遺伝的進化というものの「説明」において 「○○を目的として進化を選んだ」という間違った「説明」がいつまでも続いているのは 誰も自分の頭で物事を「考え」ていないからである
既に一部の生物学者達によって 遺伝的進化に目的も戦略も介在せず 「主体的に選ぶこと」も出来ないと説明されていても バカだと自分の頭で「考え」 論理客観的に理解することができずに「典型的な間違い」が直らない
生物学上の「社会性」というものが人間としての社会性とは無関係であることも 松沢哲郎や長谷川眞理子らによって「はぐらかされて」おり 軍隊や体育会系組織における盲目的服従忖度バイアスの危険性について全く周知徹底されていないのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容に論理客観的根拠が示されていないことにも 誰も気付くことが出来ずに 多数が鵜呑みにしていることから主観的に安心満足して疑うことをしなくなるのである
フリードリヒ:ニーチェはカントを批判したが ニーチェの言っている内容もまた基準が曖昧で 読み手が勝手なこじつけをすることで満足しているだけの「迷言」に過ぎず 到底「哲学」として真理の論証にはなっていない
単に間違いを指摘して批判してさえいれば「正しい」わけではなく あくまで論理客観的根拠や証拠を提示した上で批判精神を発揮することが必要であって
「カントを批判しているからニーチェは正しい」という話にはならない
主観的に気分が良くなる話 信じたい話を安易に信じようとするヒトの先天的な認知的欠陥を自覚し
気分が良くなる話や信じたいと「思って」いる自分を疑う自己客観的論理検証性(理性・考え)なくして真理(本当のこと)は識別できない
Ende;
家の前に見慣れぬ黒猫がおった
まだ幼いらしい
橙色の実がいっぱい
ピラカンサに似てるけど色が違う
道路に設置されたカメラのテスト用とおぼしきナンバプレート
Ende;
天災によって人が亡くなるのは 誰にも責任を問えない
何万人死のうが天災は誰の責任でもないからだ
しかし 人災の場合には「死んだ人数」は関係がない
「酔っぱらい運転をしても誰も轢いてないから良いだろう」という話にはならない
「赤子のジレンマ」では「敵兵に襲われる」という条件下での判断であり 戦争状態そのものが「人災」であり これを回避しなかった時点で既に社会安全上「失敗」しているのであり 戦争状態の中での「死んだ人数」で倫理的責任など取りようがないのである
国際法上では非武装の民間人を攻撃することは許されておらず 「敵兵に襲われる」という時点で「敵兵」の方の倫理が問われるのである
ヒトという種の生物は 暴力によって相手に危害を加え 恐怖によって支配することが「解決」だという錯覚を持っており しかも この錯覚を錯覚だとすら誰も「思って」いないのである
非武装の一般民間人には手に負えない武装した暴力的反社会集団に対して警察権力が武装して対応に当たるというのは 暴力的反社会集団そのものが形成される原因究明と再発防止が最優先されるべきであり 「暴力的威圧で解決」するという発想自体は反社会集団も司法裁判制度も結局は同じものである
ヒトは怖い相手には逆らいたくない習性がある
腐敗した組織体制には迎合同調服従忖度して腐敗を温存しておいた方が利己的にも有利だからである
子供がイジメに同調したり 傍観放置したりするのは 「自分だけは被害者になりたくない」という利己的選択であり 学級内部の誰にも自律的な社会的責任判断能力がないからイジメが温存されるのみならず助長され暴走状態に陥って死者まで出てしまうのである
主観的に「怖い」かどうかは論理客観的安全性とは関係がない
学校の学級内においては 教師などの大人が統制をとらなければイジメは必ず発生し 且つ助長され暴走状態に陥るものである
「ヒトは間違えるものである」という前提に立って 「イジメは必ず発生する」という前提において大人が学級内での出来事を統制すべきであって 大人が傍観放置していたのではイジメは一切なくなることはない
学校の教師がイジメを傍観放置したり 酷い場合には一緒になってイジメをしたりするのは その教師が学生時代に学級内でのイジメを誰も対処しなかった経験を「学習」する形で「連鎖」しているからである
自分が生活していた環境で誰もイジメに対処していなければ 「学校ってそういうもんなんだな」と「学習」してしまい 自律的に「これは間違っている」といった客観的判断をしなくなるのである
人間としての本質的な「意識」とは 「教わったことを 教わった通りに鵜呑みにすること」ではなく 「教わった内容に間違いがあることに気付く」能力である
宮台真司が学生時代に「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と言われたからといって これを鵜呑みにした既成事実を正当化する形で学生に同じことを強要するのも 人間としての本質的意識や知能が働いていないからである
その原因は簡単で 「自分が唯々諾々と権威の命令を鵜呑みにした既成事実を事後正当化する形で認知的不協和を解消している」からである
ヒトは 基本的に権威の命令に背くことが嫌いである
むしろ権威とみなした対象を多数で迎合同調服従忖度しておいた方が気分的に安心満足できるため 安易に権威への忠誠忠実性を発揮し これが原因で独裁体制は簡単に形成されてしまうのである
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称:アイヒマン実験)では 普通一般のヒトが権威の命令に服従することによって他人に危害を加えてしまう習性(無意識な行動バイアス)が存在していることを科学的に立証しているのである
ミャンマー政府軍による民主化弾圧も 香港警察による虐殺も 天安門事件も 太平洋戦争における日本軍の暴走も 日大事業部などの組織腐敗も オウム真理教のテロも 基本構造は全く同じで組織腐敗を組織内部の誰も反論しなくなる迎合同調服従忖度性こそが根本原因である
自分の頭で物事を考え 「これは本当(真理)なのか?」という客観的検証性が働かないから 主観的な安心満足だけで無意識な行動バイアスに流され あらゆる組織腐敗が傍観放置されてしまうのである
民主主義制度というのは基本的に多数決で決定される
そのため 民衆の大半がバカなら「バカ主義」にしか陥らない
ナチス政権はあくまで民主的に支持されたのであり 制度手続きさえ導入しておけば手放しで上手く事が運ぶと思うのは間違い(錯覚)である
国民主権ということは 国民に社会的責任判断選択能力が求められるのであって 利己的保身のために権威組織に忖度服従することは許されないのである
「個人が自律的な社会的責任を負うこと」なしに 民主主義もヘッタクレもあったものではない
ヒトという種の生物である以上 利己的満足を追求しがちな習性は誰にもでも存在しているものであって 利己的満足の追求において社会安全性や持続可能性や公平性も必要とするのであって 社会的責任を負わない者というのは他人からの評価報酬ばかりに意識を奪われ本当に自分が満足できることを知らないのが故の行動選択の結果である
世間的評価も収入や資産や権力も 最後は必ず死ぬことで手放さなけれはならないのである
そんなものは最終的には個人の存在尊厳にとっては何の意味も為さない
「今喰っているカップ麺の味がわからなくなりたくない」から 他人の安全性にも配慮するのであり 社会安全性と利己は本当は不可分なのである
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萌音ちゃん(姉)がオイラの知らん物持っている
ググってみたら「Ilford Advocate」というガチのクラシックカメラだった
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オミクロン株は 感染経験があり3回のワクチン接種を受けていながら感染することがあるという
ただ 軽症で済んでいる
「再感染リスクが3倍」という論文もある
オミクロン株はワクチン接種を終えてないと重症化リスクがある
ワクチンが重症化を防ぐ能力は高い
N501Y変異 G446S変異
オミクロン株が出現する以前から感染力が高まると懸念されていた
やはり市民の感染予防対策が最も重要とのこと
(国立感染症研究所 感染症危機管理研究センター センター長 齋藤 智也)
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変異は常にランダムであるため 弱毒変異自体は起きてもおかしくはないのだが 弱毒株が拡がるプロセスは誰も予見できていなかった
「宿主が死なない程度に感染状態を維持継続できる程度の弱毒株に感染して独自の進化プロセスを踏む」などという予測を立てていたとしても あまりに偶発性が高すぎて「一体それはいつ起こるのか」「本当に起こるのか」の確証が全くなく 予測としてすら価値がなかった
「宿主が死なない程度に感染状態を維持継続できた」という 宿主にとってもウイルスにとっても極限での拮抗状態が維持されるケースが出るためには 「宿主ごと死滅した株」と「免疫によってウイルスが排除された」ことの間の極めて稀なケースであり 膨大な「宿主ごと死滅した」犠牲の上に偶発的に生じたものである
ウイルスを完全に排除し切れない程度に免疫力が低下していた感染者に 感染者を殺さない程度に長期間体内に居座り続けたことによって免疫力をスルーできる能力を獲得した結果が感染力の高さにつながったと考えられ
免疫力が低下しているのに宿主を殺さない程度の毒性しか持っていなかった偶然が重ならないとオミクロン株の発生は起きなかったと言える
アルファ株 ベータ株 ガンマ株 デルタ株 ミュー株などの変異プロセスとは全く別の系統からオミクロン株は生じているのであって 「ウイルスが困るから環境に適応した変異がどんどん起きる」などという非科学的プロセスは存在していなかったのである
たった一つの変異例が 他の株種と置き換わったのであって こうしたプロセスは誰にも予測できないし 予測していたとしても偶発性が高すぎて「いつ起こるのか」「本当に起きるのか」が全く予見できず 何も期待できないのである
「一般的にウイルスは弱毒化傾向がある」とは言われているが 本当に弱毒化が起きるのかは何の確証もない「傾向性」の範疇であって 「概ね弱毒化する」という話を「必ず弱毒化する」とすりかえ断言している時点で到底科学的とは言えず 危機管理の観点からも無責任と言わざるを得ない
ワクチン接種が進む中で 軽症や無症状が増えることで 市中感染が拡がって基礎疾患のある人や高齢者が感染して重症化が増える可能性が指摘されており たとえ弱毒株だとしても市中感染が拡がれば人によっては重症死亡者数の増加につながる危険性もある
オミクロン株が弱毒性を持っているとしても 万人が軽症や無症状で済む保証はまだないし ヒトとの共生可能な季節性の鼻風邪ウイルスにまで「進化」するためには新型コロナウイルス特有の変異率の高さが解消される必要がある
さもないと また厄介な変異を引き起こしかねないからだ
一体どのように「厄介」なのかは 相手がランダム(カオス)である以上 誰にも予測は出来ない
もしオミクロン株が充分な弱毒性を持っているとしたら 既存の季節性鼻風邪コロナウイルスが持つ変異修復能力をゲノム編集で持たせて意図的に感染拡大をさせるという乱暴な方法論もあるかも知れない
ただ どうやって安全性を確保しながら臨床試験を行えば良いのかはわからないが
地球上で異常繁殖してしまったヒトというのは ウイルスにとっては格好の「環境資源」であり これからもウイルスの脅威は何度でも起きうる可能性が高いので あらゆる対抗手段を考えておく必要はあるだろう
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一部の科学者は、オミクロン株が南アで、エイズウイルス(HIV)患者など免疫不全のある個人の中で数カ月かけて進化してきた、との仮説を立てている。そうだとすれば「ウイルスはこの宿主を殺さないように順応してきたことになる」と、フェリー氏は言う。
出典:https://jp.reuters.com/article/explainer-omicron-idJPKBN2IL08D
⇨免疫不全症候群の患者に感染しても 宿主を殺さない程度の毒性しか持っていなかった変異株種が 長期間一人の体内に居座った結果として感染力の高い変異への収斂を促したのではないかとの見解があるらしい
「宿主を殺さないように」といった意図目的戦略があったわけではなく あくまで偶発的に宿主を殺す程の毒性を持たなかった変異株種が長期間一人の宿主の体内で何らかの淘汰圧力による収斂進化した結果 オミクロン株になった可能性は言える
免疫能力が充分なヒトなら 新型コロナウイルスが体内に入り込んだ場合には徹底的に排除されてしまうのだが
HIVなどで免疫が充分に働かない患者に感染した場合には 完全には駆逐できない状態でコロナウイルスの一部が体内で生き残り その体内環境に適応した変異株種への淘汰収斂によって特殊な「進化」が促された可能性がある
抗生物質を患者が勝手に途中でやめてしまったりすると耐性菌が生じてしまうような状態と同じで 免疫が不十分であったために感染力の強い株種への収斂進化を促してしまったのかも知れない
軽症や無症状が多いのは ワクチン接種済みであったり 2度目の感染だったりするケースが多く 症例も少ないので まだ毒性が低いのかどうかは判断がつかない
HIV患者を殺さない程度に免疫をすり抜けられていたとすれば 毒性はそんなに高くはない可能性はあるが 下手するとヒトの免疫をすり抜ける能力が洗練されてしまっている可能性もある
既に一部の治療薬に対する耐性を獲得している可能性もあり あんまり楽観はできない
後遺症がどう出るのかもこれからの臨床研究を待つ必要があり「数週間は必要」だという
◇
客観的根拠が示されていない「決めつけ」に対しては 即座には反論のしようがないので これを「論破」だと形容するのは論理思考の出来ないバカの勝手な判定である
そもそもフリードリヒ:ニーチェなんぞを哲学だと勘違いし 遺伝的進化に意図目的戦略が介在していると勘違いしているようなバカであれば 何が論理客観的根拠に基づいた「論破」なのかすらマトモには判別はできないものである
テレビ朝日の玉川徹の意見が「個人の見解」だと言うのであれば 国立感染症研究所も厚労省も「現段階では弱毒化の兆候は見られない」と言っているのに日医大特任教授の北村義浩や一部の医師が「弱毒化する」と断言していることもまた「個人の見解」であることに違いはない
物事を深く検証したこともなく衆愚迎合に徹している衆愚迎合雑誌記者風情が偉そうに他人の「勝ち負け」を判定する立場にはない
臨床というのは必ずしも科学ではないので あらゆる治療は「つなぎ」と言っても構わない
どんなに治療してもヒトは必ず最後には死ぬのであって ヒトの死亡率は100%なのである
どんな薬であってもヒトの体内における作用機序の全てが解明されているわけではなく どのような副作用があるかも実際に臨床治験を集めるまでは何も言うことはできない
ヒトの生体で何が起きているのかを全て解明出来ているわけではなく100万人に投与して重篤な副反応がなかったとしても 100万1人目で何が起きるのかは 本当は何とも断言できない
ただ 1/100万の確率で重篤な副作用が出るとしても 1/100の確率で起こる死亡重症化が抑えられるのであれば それは「有効」な薬だとみなしても構わない
それが「臨床(現場の正義)」における倫理というものである
1万人を救えるなら 1人くらいの犠牲はやむを得ない
相手はウイルス性疾患という「天災」に対する対処であり ヒトが作り出したシステムにおける「人災」を扱う「トロッコ問題」とは本質的に異なるものである
「人災」に「死んだ人数」で正当化はできない
◇
遺伝的進化の系統樹において 私達はその末端の「結果」である現存種しか見ることができない
化石など稀に過去の系統樹の断片を見ることはできるが そのほとんどは過去に絶滅(進化に失敗)した個体種である
過去に一体どれだけの「失敗」があったのかは 私達は見ることができないし これからどのような「失敗」が起きるのかもわからないのである
変異がランダムである以上 そのほとんどは「失敗」に終わっていると考える方が自然である
現存生物種は進化の過程で生存に対する高度な恒常安定性を獲得しているので ヒトの先天性疾患が出る確率は比較的低いものの 決して意図目的戦略に則って都合良く変異が促進されるわけではない
ヒトは文明社会を構築したことで過酷な自然淘汰圧力から逃れ 多少身体が虚弱でも死なずに済むが これはバリエーション拡大にはなっても収斂進化には結びつかない だからヒトはここ数万年遺伝的にはほとんど進化していないのである 先天的に虚弱体質のヒトが後天的に身体を鍛えても 遺伝要素には影響を及ぼすことはない
現存生物という「結果」だけから遺伝的進化のほとんど全てが意図目的戦略に基づいて「成功」しているかのような主張は科学的には間違いである
自然界の生物の全ては 繁殖能力と淘汰圧力とのバランスの上に成り立っているのであって 一方的にどちらかが優位になれば環境との調和を失い 生態系を破壊して結局は自滅することになる
生態系という環境なくして個体も「繁殖を継続」することは出来ないからである
現存生物というのは 特定環境下において偶発的に生態系全体との調和に「成功」した個体種への収斂進化の結果であり 個体の意図目的戦略は遺伝的進化には影響を及ぼすことはできない
地球上には多種多様な生物が現存してはいるが 実質的には無限にあるはずのゲノム配列のパターンに対しては極めて限られた生物種しか現存しないのであって 現存していないゲノム配列を持ったあらゆる生物は全て死滅しているのであり それだけでも遺伝的進化というのは膨大な絶滅(失敗)を伴うものであることの「証拠」になる
現存するウイルスの大半は宿主との共生に「成功」しているが 過去にどのような「失敗」が どれだけ起きていたかは誰も知らないのである
「一般的にウイルスは弱毒化する傾向がある」とは言われているものの それなら鳥インフルエンザも感染拡大させておいて弱毒化を待てば良いことになるが それが実際には行われないのは 弱毒化が期待できないからである
もし弱毒化が期待できるのであれば 閉鎖した密閉空間で大量の鳥類にインフルエンザを感染させておけば自動的自然に弱毒株ができることになるが 実際にはそれが「成功」する確証がないから実行されないのであり ウイルス弱毒化説には論理的には確証がないのである
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確か千葉の方で台風か何かの被害で数日間停電になったことがあって
太陽電池パネルを設置していたのに 冷蔵庫とエアコンを同時に使うだけの容量が足りなくて 猛暑日なのにエアコンが使えなくて困ったっていう話があった
冷蔵庫のワット数ってそんなに多くなく 一時的にコンセント抜いてエアコンを動かしても 冷蔵庫なら保冷能力があるはずなので短時間ならエアコンつけても良いんじゃないかと思ったことがある
要は 太陽電池パネルの容量と 実際に使う家電の容量とのミスマッチがあると 太陽電池の発電能力が無駄になることがあるわけだ
余った電力をバッテリーに蓄えるとなると結構設備投資も高くなるので現実的ではないが 最近重力蓄電という原始的な原理の蓄電方式が見直されているらしいので
家庭用重力蓄電システムってのはどうなんでしょう
重力式なら人力で巻き上げることもできるし
太陽電池と人力のハイブリッド蓄電ができるんじゃなかろうかと
思ってみたりする今日この頃である
集合住宅など階数の多い建物なら重力蓄電ってしやすいような気もする
Ende;
オミクロン株っていうのは アルファ株とかデルタ株とは別の系統(アルファ株以前の初期株)からの変異によるものだそうで 出所が不明なんだそうだ
新型コロナウイルスって稀に陽性判定された後でも体内に潜んで再感染的なことがあるそうなので もしかすると一人の感染者の体内で免疫を免れ続けて「進化」しちまった可能性があるんじゃないだろうか
オミクロン株の毒性は高くはないらしいのだが 感染力は非常に強く
ロナプリーブっていう点滴で使う治療薬への耐性を獲得した可能性があるという
ソトロビマブっていう点滴治療薬の方は変異箇所と違う部分に効くらしいので効果は変わらないのではないか的な話が出ている
飲み薬のモルヌピラビルは知らん
あんまり長い期間感染が続くと多剤耐性を獲得して厄介なことになるかも知れない
未だに「ウイルスは全部弱毒化する」とか言っているバカがおるが 弱毒進化の過程で何か起きたのかは誰も知らんからな
既存のウイルスの弱毒化プロセス以外で宿主ごと大絶滅(失敗)した可能性は否定できないからだ
長期的に見れば弱毒共生できなければ宿主ごと絶滅することになるから 絶滅しなければ弱毒共生進化に「成功」することもあり得るのだが そんな無責任な「予言」は科学でも何でもない
弱毒化が先に起きるか それとも感染力や多剤耐性が先かは誰にも「予言」することはできない 相手はカオスなランダムだからだ
遺伝的進化に対する「典型的な間違い」を放置しておくと 間違った「解釈」によって不用意な楽観的対応に陥ることもあるので 「はぐらかし」ておいて良いわけではない
ちゃんと周知せえ 特にNHK 受信料徴収して嘘を垂れ流していたんだから 社会的責務として生物学界における遺伝的進化の「典型的な間違い」は訂正周知すべきである
長谷川眞理子は学生から「人気」があるというが 「人気」があることが科学者として正しい見解しか言わないことの論証にはならない
むしろ遺伝的進化に対する都合の良い(気分が良くなる)「説明」によって 論理検証の出来ないバカ学生共から人気を集めているだけの可能性もある
そもそも日本人の大半は養老孟司だのイマヌエル:カントなんぞを鵜呑みにしていたバカしかおらんだろ
頭の悪さを自覚せぇ!
◇
あと ノロウイルスなどの消化器系ウイルス疾患が増えているそうで アルコールやベンザルコニウムクロリドなどはコロナウイルスには効果があるのだが ノロウイルスなどアルコールが効かないウイルスもあるので 消毒だけではなく石鹸による手洗いも励行した方が良いという
ノロウイルスはアルコールでは消毒できず 塩素系漂白剤を使わないと消毒にはならないんだそうで 塩素系漂白剤は皮膚に激しい炎症を引き起こすので使用の際にはゴム手袋が必要で 手に付着した場合には石鹸で洗うことが必要だそうだ
買ってきた食品パッケージは洗剤で洗ってるんだが シュリンクパッケージの場合は丸洗いできないので 除菌シート的なもので拭くしかない
一応しっかり「拭いて」おけばリスクは下がるんだとは思うが 消毒にはなってないことは知っておいた方が良いだろう
拭いた除菌シートには何らかのウイルスが残っている前提で 速やかに棄てることと 手を洗うことは別にやらないといけない
Ende;
乃木坂46の与田祐希ちゃんって水着の写真なんかあるんだと思って
「与田祐希 水着」でググったら
エロ画像が出てきて引いた
どうも乃木坂46に入る前に撮られたものらしい
黒歴史
SNS上で未成年者にエロ画像を送らせたりする「グルーミング」と同じ手法で 脱法的にエロ写真を撮っているのではないだろうか
「仕事」だからといって未成年者を大人達が「グルーミング」してエロい写真を拡散して「喰い物」にしてしまうのはいかがなものかと
長澤茉里奈ちゃんみたいに自分からおパンツ丸見え写真を個人アカウントから投げてくる娘もいるんだけど
高嶋香帆ちゃんってググるとおパンツ丸見え写真が出てくるけど 自分からはおパンツ写真は上げてこない
本当は嫌だったんじゃないかな
清水富美加ちゃんなんかあからさまに嫌だったと言ってたし
千眼美子って覚え難いな
本人の主体的意思をちゃんと汲んであげないと 見てて痛々しいわ
Ende;
暖房器具にガスファンヒーターを使っているんだが
室温が20℃になっても何だか暖かさを感じない
顔の高さはむしろ暑いくらいなんだが
足許が冷たくて気持ち悪い
で 考えたんだが 以前にインダストリアルクレイの加温のために発泡スチロール製の保冷箱に 電子レンジで温めたお湯入りPETボトルを並べて加温していたことがあったので 同じように足を入れといたら温かいだろうと
足を入れる穴を包丁で切って空けたんだけど
発泡スチロールって切るとマイクロプラスチックが大量に出るので粘着テープで回収するのが面倒臭い
ニクロム線で切る専用カッターを使った方が良いとは思う
隙間をバスタオルで塞いだら
温かい…
上着の中にも一本温めたPETボトル入れたらファンヒーター要らないわ
もう1ミリも動きたくない
コタツと一緒だな
◇追記:ファンヒーター消したけど 暑くて背中に汗かいちまって上着脱いだわ
真夏の猛暑日でも 断熱材でエアコンの周囲を囲って小部屋を作ってしまえば省エネになるんじゃないかと思っている
やっぱり「出たくなくなる」とは思うが 昼間の極端に気温が高い時間帯だけでも「避暑室」みたいに逃げ込んでおくというのはアリなんじゃないかと思っている
Ende;
「安易な自死が多すぎる」
「頑張れないのか」
といった意見があるのだが 本当は自死を選んでしまう人は頑張り過ぎてしまっているのである
本当は頑張らなくても良いことに無駄に頑張ってしまうことで視野狭窄に陥って逃げられなくなって非合理な自死に取り憑かれてしまうのである
ヒトというのは先天的な社会性を持っているため どうしても多数他人の価値観を鵜呑みにしてしまい 主体性を喪失してしまう傾向が強い
「社会から生かされている」などと称して主体性を蔑ろにすることの方が「謙虚」などと形容して尊びたがるが 社会を優先して個人の主体的意志を不具にしてしまう「呪い」である
カール:ライムンド:ポパーが「プラトンの呪文」を激しく批判したのも 権威に対する盲目性こそが真理を見極める上において最も害をもたらすからである
ナチス政権下の社会において 「社会から生かされている」からといって社会の方を尊重して良いことにはならない
命を賭けてでもナチスによるユダヤ人迫害には反対しなければ人間としての尊厳にはならない
「生きるためには」などと称して生存を優先しても人間性や倫理の論証にはならないのである
マルティン:ハイデガーはナチスに迎合忖度して生き延びたが 人間としてはクズである
人間として 本質的尊厳のために命をかけるべきであって 世間的評価だの比較だのを基準に安易な「絶望」に溺れることは「身勝手」で「幼稚」である
◇
「(生物が)生きるために生きてきた」というのは間違いである
「生き延びられた個体だけが生き延びた」 ただそれだけである
生物やその遺伝的進化は膨大な「生き延びることができなかった個体」の死滅・絶滅の果てに偶発的に生き残った結果だけである
「生きるため」という目的はない
個人的に「死にたくない」という主観は「生きる」ことが目的であることの論理客観的根拠にはならない
Ende;