街道ウォーク>甲州街道>国領駅~八王子駅
2011年11月29日 甲州街道 2回目
西光寺と近藤勇の像
東京都調布市上石原
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/40/bf98b45b07d962abcca7ed4778c7cade.jpg?random=5808859436e568d2881ad7085015edf4)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/2d/1442cd5c064ecdab82584a78265f1f74.jpg?random=844b3f1cdc545af4169293bb21f6b9eb)
この門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。 寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(一七〇四~一〇)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。平成十二年十二月一日建之 調布市教育委員会
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/d8/f7f83909bef23910f9c0433acca6351c.jpg?random=eaf88216882a4f6d394e70f6af484d29)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/44/93e287f6d5abf094a74fc5778999da75.jpg?random=ad1e99a19ac1e4b83d7acedacaea204b)
近藤勇は天保五年(一八三四年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水一-六)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新選組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。 然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに破れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。 その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけた後、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦ぃに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波瀾万丈の生涯をとじた。会津藩主、松平宮保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を
贈りその功績を称えている。
調布市『近藤勇と新選組の会』は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。
平成十三年十月八日
近藤勇座像建立委員会代表 土方貢 発起人一同
cosmophantom