街道ウォーク<甲州街道<甲府駅~日野春駅
2011年12月30日 6回目
赤い石碑
▲南無阿弥陀仏と刻まれている
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街道ウォーク<甲州街道<甲府駅~日野春駅
2011年12月30日 6回目
赤い石碑
▲南無阿弥陀仏と刻まれている
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街道ウォーク<甲州街道<甲府駅~日野春駅
2011年12月30日 6回目
茅葺きの門 (韮崎市下祖母石)
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2011年12月30日 6回目
20号から旧道へ
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2011年12月30日 6回目
東京から151km地点(国道20号)
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2011年12月30日 6回目
十六石
武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文12、3年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ツ谷に治水工事を行った。その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったと言われている。
表示板の近くにあった大石
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2011年12月30日 6回目
韮崎の町並み
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2011年12月30日 6回目
韮崎本陣の跡
本陣とは江戸時代幕府役人に備えた宿舎をいう。甲州街道は伝馬制(当時は人足25人、馬25頭を常備して、幕府役人や諸荷物を次の宿駅まで順送りする)により、問屋場をもうけ運営にあたらせた。韮崎宿は諸大名の通過はあったが、日程の関係で宿泊はごくわずかで本陣は問屋が兼務した跡である
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2011年12月30日 6回目
マンホール(武田の里)
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2011年12月30日 6回目
鰍沢横丁
▲この石碑の横の路地が鰍沢横丁か?
ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を、馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで通行の道筋である。ために沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治三十六年(1903)国鉄中央線開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。
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2011年12月30日 6回目
塩川橋から見た富士山
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