街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年12月01日 16回目
本陣跡(御嵩宿)
天下分け目の戦い「関が原の戦い」に勝利した徳川家康は、早速街道整備に取りかかり、慶長6年(1601)に東海道を整備後、慶長7年(1602)中山道の整備に着手した。御嶽宿本陣であった野呂家には、慶長7年2月24日付けの「御嶽宿伝馬掟朱印状」が届けられている。後に江戸から49番目の宿場となる御嶽宿はいち早く宿場として指定された。 御嵩観光協会
本文 cosmophantom
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2012年12月01日 16回目
和泉式部廟所
岐阜県可児郡御嵩町井尻
石碑には「ひとりさえ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまる」の歌が刻まれている。平安女流歌人の一人。 じゃらんnetより
和泉式部は、平安時代を代表する女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。波乱の人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中、御嵩の辺りで病に侵されてしまい、鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)とうとうこの地で没したといわれています。
碑には「 ひとりさへ 渡ればしずむむ うきはしに あとなる人は しばしとどまれ」という歌が刻まれています。
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2012年12月01日 16回目
牛の鼻欠け坂
「牛坊(うしんぼ)牛坊 どこで鼻かかいた 西洞(さいと)の坂で かかいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂(さいとざか)は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。 御嵩町
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