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関ヶ原の戦い史跡巡り~岐阜県不破郡関ケ原町

2016-07-27 05:45:18 | 遺産・遺跡など

2016年5月27日 岐阜県

関ヶ原の戦い史跡巡り

岐阜県不破郡関ケ原町

関ヶ原の戦い:1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦い

前回、関ヶ原を訪れたのは2013年6月。街道ウォークでのこと

当方は関ヶ原の戦いの知識に乏しい。同行した先輩はどうやら石田三成派のようだ!何も言わずに先輩の後をついてまわりました。

まずは、最大の決戦地といわれる「関ヶ原古戦場」へ 

関ヶ原古戦場

右に関ヶ原古戦場 左の小山が笹尾山(石田三成)

笹尾山へ

▲島左近陣地

石田三成の家臣。黒田軍等との激戦により討ち死にす。

ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開した。小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は3万5千前後に激減し、西軍の負色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。(掲示板)

▲笹尾山からは関ヶ原古戦場(中央)がよく見渡せる

▼島津義久陣地

関ケ原合戦において島津義弘は西軍のほぼ中央部に布陣しました。合戦において島津隊は石田三成の依頼にも応じず、自らの前の敵のみを討ち取る姿勢で合戦に臨んだと言われています。合戦の行方が明らかになった頃、徳川家康陣地の前を敵中突破します。薩摩にたどり着いたのはわずか80名でした。
 

▼関ヶ原古戦場開戦地

慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。一方井伊隊福島隊に遅れまいと、島津隊に陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(説明板)

 

▼小西行長陣跡
 

小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて、石田三成に組し、西軍として参戦した。午前八時頃、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図をすると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。しかし、小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗退し始めたのは午後一時過ぎのことでした。(掲示板)

▼大谷吉隆(吉継)墓

吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。これは敵方藤堂家が建てたものです。(掲示板)

 ▼徳川家康最後の陣地

戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1キロのこの地点に進出させました。ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終ると、部下の取ってきた首を実験しています。周囲の土塁や中央の高台は、天保12年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。(掲示板)

 

 

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以下前回訪問時撮影(2013年6月)

▼浅野幸長陣跡

幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

▼山内一豊陣跡 

慶長5年(1600年)、徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の従軍した一豊は、関ケ原の戦いで西上に際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、ここ野上に入ると、一豊他八将は一里塚より桃配山までの間の中山道左右に並列し、南宮山の敵に備えました。その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、使番による家康の命令を受け、山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に芝井の地まで前進して戦いました。戦後、妻の内助の功もあって、土佐の国主となっています。

▼東首塚

この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。

合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くと言うのがならわしだったのです。

▼松平忠吉 井伊直政 陣跡

慶長5年9月15日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島、藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の4男松平忠吉後の彦根城主井伊直政が約6千の兵で陣を構えた。午前8時頃、軍監、本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。

田中吉政陣跡

田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。本隊が二、三百メートルほど引き下がる。そこに他の東軍の諸隊の兵が食らいつく。というように、両軍間で激しい白兵戦が展開されたという。三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後六日目のことだったと伝わる。

 ▼西首塚

関ヶ原合戦での戦死者 数千の首級 を葬ったと云われている 西首塚 です。この上に江戸時代から、十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、付近の住民の手によって供養がされている。

▼福島正則陣跡

東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。 首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。

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