コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

加納駅(岐阜県岐阜市竜田町)~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 06:06:40 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納駅


加納駅(かのうえき)は、岐阜県岐阜市竜田町九丁目にある、名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線の駅。名鉄岐阜駅まで1.1km

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加納の様子~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 05:58:50 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納の様子

▲新荒田川▼



 

鮎鮓街道(あゆすしかいどう)とは徳川家康への鮎鮨の献上ルートのことである。 岐阜から熱田を結ぶ尾張街道の別名のことで「鮎鮨街道」、「御鮨街道」と呼ばれていた。

▲右 岐阜:明治時代の道標とのこと

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加納宿案内図と説明~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-25 05:53:59 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納宿案内図と説明

 

あなたが立っている道は江戸時代の五街道の一つ中山道です。加納城下町の建設は、慶長6年(1,601)領主、奥平信昌によって始まります。寛永11年(1,634)には宿場町として定められました。城下町であり、宿場町でもある加納宿は21の町からなり、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田に続く御鮨街道と交わっており、交通の要になっていました。

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細畑の一里塚(岐阜県岐阜市長森細畑)~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-24 15:38:34 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

細畑の一里塚

岐阜県岐阜市長森細畑

▲左塚

▲右塚

中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約三、九キロメートル)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。街道の両側に五間(約九、一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。
細畑の一里塚は慶長九年(一六〇四)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里一四町(約一三、三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三、三キロメートル)の位置二あり、中山道の風情を今に伝えている。

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切通の由来~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-24 14:14:14 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

切通の由来

 切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落していたことによると言う。 文治年間(一一八五)渋谷金王丸が長森庄の
地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(一三三七)美濃国守護二代土岐頼遠が土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(一八〇二)磐城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑いを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。

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