広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

大橋小橋

2015-11-11 19:36:54 | 
2003年まで国道7号線だった秋田県道56号線を、秋田市中央部から南西部方向に進むと、茨島(ばらじま)と新屋(あらや)の間で長さ583.6メートルの「秋田大橋」を渡る。
※現地訪問・写真撮影は今年9月。逆光で見づらい写真があります。
茨島側の橋の手前「秋田大橋前」バス停付近
両岸側とも、秋田大橋の手前で道路が緩くカーブし、道路端には歩道のような植え込みのようなスペースが広く取られている。これは、秋田大橋が架け替えられた名残。
2009年に記事にしたように、秋田大橋は2001年に架け替えられた。先代の橋の下流側のすぐ隣に今の橋が架けられた。
そのため、先代の橋では両岸の道路と橋がほぼ一直線だったのが、架け替え後は、橋の部分だけ数十メートル下流側にはみ出てズレた配置になった。それで取り付け道路が動いたことに伴い、余ってしまったかつての道路跡が、広めの歩道や植え込みとして残っている。

上の写真では、左(上流側)に植え込みがあり、その左にさらに歩道のようなあまり意味のないスペースがある。かつてはこの辺りが道路ど真ん中であった。(植え込みは道路付け替え後にできたはず)
上の写真の反対側、橋のたもとから橋を背にして撮影

さて、その茨島側の植え込みの外の、意味を成さなくなった元道路部分。
左側のスペース
歩行者は進入できるが、先は土だし、右に並行した歩道があるし、あえて通る必要はない。
左の柵付近が元歩道。その右が元車道
かつては車道も歩道も狭かった。
【12日訂正・初回アップ時に別の画像を重複掲載していたので、正しい画像に差し替えます】
この部分は、道路沿いに建物がなく、柵が設置されていて、道路下に空間がある。つまり「橋」。
その下は、
道がくぐっている(見にくいけど柵の向こう)
現在は、歩行者・自転車道が下を通っている。脇道を介して県道の両側を結ぶ形だが、単に県道を横断する目的では、けっこう遠回りになるし近くに信号もあるし、使う必要はない。堤防伝いに船場町~茨島七丁目方面を行き来する時は、使っても悪くはない。夜は暗く、積雪時はどうなるか知らないけれど。

県道の下の道は元々、貨物列車用の線路だった。
羽越本線・羽後牛島駅から分岐し、県道(当時は国道)と秋田運河の間にある各工場へ至る、引き込み線。(場所的には、現在、世を騒がせている偽装肥料会社の工場の1つもそこにある。ルーツをさかのぼれば、この鉄道とも多少の関係はありそう)
僕は線路があった記憶はあるが、列車が走っているのを見たことはない。
1994年3月に鉄道が廃止され、おそらく何年かはそのままで、後にこの付近の一部分が舗装されて供用されている。

ということで、この「橋」は、かつては「跨線橋」、現在は「跨道橋」もしくは「オーバーパス」(歩道から見れば「アンダーパス」?)ということになる。
奥の信号の向こうが今の秋田大橋
上の写真のように、この橋の(雄物川の)上流側には、石でできた「親柱」があり、銘板が付いている。それを見ると、
 
「秋田小橋」「昭和十三年十月竣功」

そう、これは「秋田小橋」という名前で、1938年にできていた。
旧秋田大橋当時は、道路に向かって「秋田小橋」という大きめの案内標識が出ていたはず【末尾リンクの2001年の記事に写真あり】だから、名前はご記憶の方がいらっしゃると思うし、僕は知っていた。
だけど、できた年は初めて知った。
1934年に開通した秋田大橋の4年後にできたことになるが、これは線路が通ったのがその時ということではないだろうか。

一般的には、反対車線側の親柱に、ひらがなで橋の名前が書いてあるものだが、ここの場合、下流側に道路が広げられたため、親柱がなくなってしまった。(そちら側は柵があるだけ)
だから、正しい読み方は不明。「あきたこはし」「あきたしょうはし」?
【2023年7月29日補足・京都の渡月橋は、片側の岸は中洲(中ノ島公園)に架かっていて、その中州と反対側の岸との間には「渡月小橋」が架かっている。それは「とげつこばし」と読むとのこと。】


下の道を初めて通ってみた。
雄物川上流・かつての線路の羽後牛島駅方向から入る
昔は蒸気機関車やディーゼル機関車が走っていたであろう道を歩く。
親柱の下。右の石垣風の部分が歴史を感じさせる(大橋のほうもこんなのがあったっけ?)
中へ入ると、
途中で天井が低くなる
道路拡張で付け足された部分は極端に天井が低くなる。人が通れれればいいのだから、一般的な地下道の高さ。
下流側へ出て振り返る
秋田小橋の上では、県道のほか、並行して下へ下りる車が通れる細い道も通っていた。(ガードレール部分。県道はその上の柵)

600メートル近い「大橋」(先代は587.4メートル)の直前にあり、ひとまたぎで渡れてしまう「小橋」。かわいらしくて上手いネーミングだと思う。全国的にも「○○小橋」なんてそうそうないだろう。
今の状態では、「橋」であることを意識しながらここを通行するのは不可能に近く、「秋田小橋」の名は忘れ去られつつある。だけどいちおう、今も片方だけながら銘板は残る「橋」なのだから、以前のような道路から見える表示板を設置してもおもしろいのではないだろうか。
※架け替え工事当時はまだ国道だったので建設省~国交省が行った。現在は秋田県管理だけど、県にそんな気の利いたことはできないでしょうね。
【11日22時25分追記】秋田小橋は国道の下に穴を開けて線路を通したような構造(線路は切り通し状)。だから一般的な「橋」ではなく「アンダーパス」に近いのかもしれない。そのため、橋が落ちるなどの危険性は低く、老朽化もあまり問題ではなさそう。

※秋田小橋たもとの2023年の変化(リンク先後半)。
付近の2001年の写真
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天ノ袋橋

2015-06-23 22:51:48 | 
先日の秋田市北部の新城川の流路付け替え工事の現地(飯島字天ノ袋地内)で、旧流路に架かる橋のことをちょっとだけ触れて終わっていた。
今回は久々に「橋」カテゴリーにして、その続き。

天ノ袋集落内の大きな木や家が並ぶ農村の道の1つが、新城川に突き当たると、前回の記事最後のような風景になる。
そこには橋が架かっている。

その先は無舗装の砂利道で建物はまったくない。畑があって、さらに先に田んぼや横山金足線の築堤が横たわる。

この橋こそが、小字名を名乗る「天ノ袋橋」である。
にしては、簡素というか貧相というか何というか…
路面は錆びた鉄板が敷き詰められ、その隙間からは草が生えている。高欄(欄干)は鉄パイプ。

集落側の橋のたもとに「2.0t」の重量制限の道路標識とともに、大きな「通行注意」の看板が設置されていた。
標識・看板とも線状の反射材が使われているから、比較的最近のものだろう。橋本体よりもずーっと立派。

秋田市建設部 道路維持課による看板の文面は衝撃的。

「橋が老朽化しているため大きな地震や台風・大雨などの直後は通行をひかえるようお願いします。」
なんともスリリングな看板。これを読んでしまったら、たいていの人は渡る意欲(?)が失せるだろう。
一休さんは「このはし渡るべからず」とある橋を「はし(端)じゃなく真ん中を渡れば大丈夫」と言って渡ったけれど、これを見せられたら、どうするだろう…
Googleのストリートビューもこの橋のたもとで終わっており、撮影車は引き返したようだ。
「“直後”は通行をひかえるよう」というのは、市が見回りして安全確認を済ませるまではという意味なんでしょう。

こんな橋だし、向こうは砂利道で、私有地かのようだが、看板からすれば市が管理する公道なんだ。
訪問時は「大きな地震や台風・大雨などの直後」ではないし、歩くなら大丈夫だろうと、恐る恐る(極力静かにかつ大股で)渡ってみた。別段グラグラするとか床が抜けそうとか、具体的な危険は感じなかった。
天ノ袋橋から下流側。右岸が集落、見えないが左岸すぐ奥が横金線

川面。この時点では、まだかろうじて川として機能していた

上流側
橋の上流側はすぐカーブしているが、そこは新旧流路の分岐点。新しく架けられた上飯島橋がちょっとだけ見えるが、上飯島橋側から天ノ袋橋は見えないでしょう。簡素すぎて。

左岸側から集落を振り返る
左岸側には標識や看板はない。
道路はこのままあぜ道と一体化してしまうか、横金線もしくは新流路に突き当たって終わるようで、こちら側から新規に渡る人はいないのだろう。(横金線ができる前は、その先の下新城笠岡方向の田んぼへ続いていたはず)

ということで、この橋を利用する人は、集落から田畑へ行き来する人だけだと考えられる。
飯島字天ノ袋は、集落がある旧流路の右岸(河口に向かって右)、川の西側だけ。
川の対岸は、田んぼを中心とした農地が広がり(今は横山金足線が貫く)、はるか先に下新城笠岡の集落があるわけだが、横金線の向こう側も飯島がしばらく続き、「彼岸田(ひがんでん)」という小字。大部分が農地と道路で、住人はゼロのはず。
田んぼの所在地が飯島であるからには、田んぼの所有者も飯島の人たちだろう。
彼岸田の由来は不明だが、おそらく、天ノ袋集落から見て「川の対岸にある田んぼ」→「彼の岸の田」→彼岸田となったのかもしれない(思いつきの推測です)。
天ノ袋集落南側の「蓬田橋」は、駅や学校や飯島地区中心部などの行き来に便利だが田んぼへは遠回り。そのために北側に天ノ袋橋があるのだろう。

横山金足線の道路からも、一瞬だけ天ノ袋橋が見える。
土崎方面から北進してきて、消防飯島出張所を右に見て彼岸田に入ると、横金線と旧流路がちょっとだけ並走する。
左が新城川旧流路(奥が上流)。道路は奥が金足方面
すぐに道路と川が離れた所で、
この通り


ところで、天ノ袋橋には、竣工年はおろかその名前を記した銘板すらない。
参考になった資料が、秋田市の2010年度の包括外部監査。その中で、橋の維持管理が取り上げられており、判明した。
※話がそれるけれど2010年7月10日の豪雨で、新城川の「中二号橋(1968年竣工。17メートル)」が崩落したという。知らなかった。(2008年の秋田市南部の本田橋の腐食による通行止めもあったな。現在は架け替え済み)

秋田市では、2009年度に「橋りょう点検」を行い、1970年以前にできた35の橋の所見をまとめていた。(秋田市管理の橋は730橋。うち180橋が長さ15メートル以上)
その中で、ダントツに古いのが太平八田にある「八田三号橋」で、なんと昭和10年の架橋。ただし、これは今は川でなくなった陸地に架かっている(川の跡は埋められており、道路の一部と化している)らしく、定期的な点検と補修で対応できるとしている。

その次に古いのが、この天ノ袋橋。
昭和30(1955)年にできたそうで、今年で還暦。1955年は南秋田郡飯島村が秋田市に編入された翌年に当たる。
「主桁にH型鋼、床版に覆工板が使用された仮橋である。下部工(橋脚)もH型鋼を組み合わせたラーメン構造体である。」
えっ? 「仮橋」!! たしかに見た目は仮橋同然。
「全体的に腐食の状態が著しく(略)腐食の進行状態によっては落橋する恐れもあり」

点検結果では8つの橋が「緊急対策が必要」と指摘されている。柵の取り換えとか部分的補修も含まれているが、天ノ袋橋ともう1つの橋で必要とされる対策は「橋りょう架け替え」。
天ノ袋橋はそんなに危険な橋なのか。


もう1つの架け替えが必要と指摘されている橋は、以前紹介した「下面影橋」。外部監査の資料では「しもおもかげ橋」とひらがな表記の箇所も混在している。(現地は漢字表記だったよ)
下面影橋には竣工年の銘板はなかったが、1970(昭和45)年の木橋であることが分かった。ちなみに重量制限は4.0トン。【2020年3月31日追記・台帳上はひらがな名になっているのだそう。その他詳細は、以前の記事の追記参照】

外部監査では「対策が必要なことが分かっているのに何もされていない。特に下面影橋は緊急な対策が求められる」といった意見が述べられているが、同じように緊急に対策が必要と思われる天ノ袋橋のことは、あんまり触れていない。それだけ利用者が限定されているということか。

ちなみに、下面影橋は架け替えではないものの、補修工事が今年度行われるそうだ。
事実上、「秋田市でいちばん古く、いちばん危険な橋」である天ノ袋橋。下の旧流路が埋められるのだとすれば、架け替えても無駄になる。このまままだ使うつもりなんだろうか。
冬に大雪が積もっても除雪はしないだろうし、雪の重さで崩落なんてことにならないといいけど。
国土地理院「地理院地図」に加筆。地図上では天ノ袋橋も立派な橋
【27日追記】天ノ袋橋周辺を含む旧流路の岸には「土がけ」を示す地図記号が引かれている。太平川の桜並木のところも同じ記号だが、旭川(川反~太平川合流点)では見られず、「擁壁」の記号。雄物川では堤防の通路に土がけと似た「土堤」の記号。

【24日追記】以前記事にした尾張大橋伊勢大橋のように、昭和1ケタに架橋した幹線道路の長大な橋が、今なお現役のケースもある。土地の気候(雪がない)と適切な管理の結果であろう。
秋田市でも、日頃の管理体制を改善して長持ちさせる方針に変わりつつあるようだが、このように既にボロくなってしまった橋が多数存在するのが事情である。

新城川付け替え工事の続き(下新城笠岡側)はこちら。【24日訂正・本記事中、「下新城笠岡」を「“上”新城笠岡」としていた箇所が複数あったので訂正しました】
※2017年5月時点で、天ノ袋橋には特に変化なし2019年春でも変わらず
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由利橋工事進む

2012-10-20 19:06:33 | 
架け替えが行われている、秋田県由利本荘市中心部(旧本荘市)の子吉川の「由利橋(正式には“ゆりはし”、通称“ゆりきょう”)」を先週末に見たので、久しぶり(2年ぶりですね)に。
今年3月頃の秋田魁新報に、ケーブルを支える「主塔(高さ50メートル)」が姿を現したという記事が出て、その後も工事が進んでいるらしかった。最近、橋桁が両岸でつながったという話も聞いていた。
※過去の記事は概要2009年5月の渡り納め2009年10月の解体中2010年10月の状況


羽後本荘駅が近づく羽越本線の車窓から見ると、
田んぼと家並みの向こうに主塔が見えた(川口地区付近か)
さらに進んで、
もちろん子吉川を渡っていても見える(手前は国道105号線の飛鳥大橋)

羽後本荘駅を出て、新しくできた「カダーレ(後日紹介します)」を眺めて裏尾崎町へ直進(県道165号線)。建物が多く、この辺りからは主塔は見えない。
大門街(って言うんだっけ?)で右折して由利橋の通りへ。すると、
真正面に塔がそびえる!
日曜の朝なのに、車がたくさん駐まって賑わっている有名なそば屋を過ぎて、由利橋へ進む。
すると、
「この先通行止め。飛鳥大橋・石脇へは右折」という看板が
由利橋南詰の交差点が、こちら側からは完全に通行止め(封鎖)されているらしい。川の対岸の石脇地区や川沿い上流の飛鳥大橋へ行くには、中横町と桶屋町の境、かつて文化会館があった所を過ぎ、グランドホテルの脇へ抜けるように誘導される。飛鳥大橋方面へは堤防に突き当たって右折、石脇方面へは左折して由利橋の仮橋を渡ることになる。
通行止めは8月から新橋の供用開始までとのこと。

右折看板の地点からさらに直進。
全面通行止め
通行止めにより、南詰の交差点は、仮橋の東のグランドホテル側への一本道になっているので、信号機はカバーが掛けられて使用停止。
歩行者も仮橋側・グランドホテル側へ行くことはできなくなっている。
真正面から見ると、なんだかよく分からない

橋直下の堤防の歩行者道も通行止めになっているが、鍛冶町の脇道からギリギリまで接近。
下流側から見る(いくつか見える茶色い橋脚は仮橋のもの)
左右非対称の斜張橋(厳密には“吊り橋”ではない)。
主塔は白い色になるが、まだ足場やシートがかかっているので、青く見える。ケーブルは黒いが、これはこのままのようだ。

上流側に隣接して架かる仮橋から

迫力がある

ケーブルが短い石脇地区側から

逆光ですが石脇側から
よく見ると、
いちばん石脇側のケーブルはまだつながっていないようだ

由利本荘市民の皆さんにしてみれば、いろいろ意見があるでしょうけれど、よそ者の勝手な意見としては、なかなか美しい橋になりそうで、足場が取れ白い塔が姿を現し、やがて完成するのが楽しみ。

ところで、3月の魁新聞では新しい由利橋は「12月にも完成」となっていた。
現地には、「◯◯を××しています(由利橋を架け替えています)」の類の看板などはなく、よく分からない。
帰ってから由利本荘市の公式サイトを見ると、ちょうど今週月曜付けで「由利橋「主塔(タワー)およびケーブル」愛称募集について」というページがアップされていた。
「新しい橋が市民はもとより県内外の方々に親しまれ、新たな観光スポットとしての魅力を高めるため、本市のランドマークにふさわしい愛称を募集します。」橋の名は引き続き「由利橋(ゆりはし)」だけど「由利橋の特徴である「斜張橋」について、主塔(タワー)およびケーブルを対象」にして募集するとのこと。橋じゃなく、塔とケーブルの名前を募集ってこと?
なお、夜間にはライトアップされるようだ。

それによれば、「いよいよ来年1月末に供用開始を予定しています。」だそうです。(その後、仮橋の撤去が行われると考えられるので、上流側から橋をきれいに眺められるのは春頃だろうか)
真冬(寒中)の渡り初めになるようで、寒そう…

【12月5日追記】12月5日付 秋田魁新報県央地域面より。
愛称は「由利タワー」に決定。(上記の通り、橋ではなくタワーの愛称を募集していたはずだが、新聞記事では橋の愛称かのように取れる言い回し)
応募129件の中から選ばれた、市内の小学校4年生の女の子の作品。市内から92件、東京、大阪、長崎など県外から37件の応募があり、「子吉川ウイング」「鳥海ツインタワー」「ボートタワー」「アクアツリー」などもあった。
長さ190.5メートル、全幅19メートル、橋面から主塔頂点までの高さ約50メートル。接続道路や旧橋解体等を含む総事業費44億円。
1月20日に完成し、29日(火)に渡り初め式を行なって供用開始
新聞の写真では、主塔にはまだ足場がかかっている。

【2013年9月29日追記】2013年9月に秋田県内のGoogleストリートビューが公開された。ちょうどこの記事と同じ頃に撮影されたため、仮橋を渡ったり、通行止め区間は未撮影だったりするが、由利橋工事中の姿を見ることができる。

続き・完成後はこちら
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由利橋解体中

2009-10-26 21:25:45 | 
久しぶりに由利本荘市へ。
由利橋の様子を見てきた(渡り納めの様子はこちら)。仮橋は上流側にしか歩道がない。旧橋より広く安全だとはいえ、自転車も多く通るからやはりまだ狭い。冬、積雪や凍結したらどうなるんだろう。
鍛冶町側から(鍛“冶”町」が正しい表記のようです)
トラスは3つとも健在だったが、路面部分は撤去されたようで、鍛冶町側の一部トラスは端から解体され始めていた。
石脇側の下流側
火花が飛んだり、カンカンたたく音がするほか、秋田市の会社のクレーン車が細い鉄骨を何本も壊しかけのトラスのすき間から下に入れていたが、やりにくそうだった。
石脇側
こちらもいちばん外側の横方向のトラスを壊し、台に載ったクレーンが入っていた
僕は先代秋田大橋の撤去作業はまったく見る機会がなかったが、もっと派手に壊すものだと思っていた。今回見てみると、意外に少しずつ壊していくようだ。
※約1年後のようすはこちら
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伊勢大橋

2009-06-16 18:51:33 | 
尾張大橋長良川河口堰に続いて伊勢大橋へ。
今まで触れたように、尾張大橋と伊勢大橋は島状の桑名市長島地区の東西の国道1号線に架かり、伊勢大橋は西側の桑名市街地とを結ぶ。
両橋は、旧国名「尾張」と「伊勢」を名乗り、共に増田淳氏設計のランガートラス橋で非常によく似ている。伊勢大橋は1934(昭和9)年にできたので、尾張大橋より1年新しく、旧秋田大橋と同い年。
伊勢大橋は尾張大橋よりもダイナミック。長良川と揖斐川という2本の大河を一気に渡り、長さは1105.7(.8という資料もある)メートル。アーチは15個も連なっている(アーチ1つ1つ自体も尾張大橋よりやや長い)。
さらに、橋の途中に丁字路交差点があり、2本の川の境の堤防からも橋に入れるというのが珍しい。
長島側長良川上流から

尾張大橋によく似ているが、微妙に違うような
ズームしたり、見る角度を変える度に、鋼材の重なりやラインが違って見え、“表情が豊か”なのがおもしろい。
トラス橋にはない魅力、美しさがある。

長さ約580メートルの旧秋田大橋も昭和初期に作られたことを考えればすごいが、その倍、1キロ超の橋を、しかも近くの尾張大橋と同時に設計し架けたのは並大抵の事業ではなかったのではないだろうか。(当時の昭和恐慌対策の公共事業としての目的もあったらしい)

長良川河口堰見学後だったので、長良川・揖斐川境の千本松原という堤防から橋に入る。
河口堰近くの堤防から揖斐川。長良川より草が多く雰囲気が違う
堤防の道路は三重県と岐阜県の県道で歩道のない片側1車線だが、抜け道のようで交通量は多め。
アーチに穴が開いて信号機が付いている
15連のうち、1つのアーチの片側だけをこういう凝った構造にしている。昭和初期の建築技術をあなどれない。
アーチの鋼材に取り付けられた国道側の信号機。「中堤入口」という交差点名
この橋も片側1車線で渋滞気味なので、長島側から来た場合、昼間は堤防への右折は禁止。橋ができた当初は信号機も歩道もなかっただろうけど、それで足りる交通量だったのだろう。

今は車は信号に従えばいいが、外付け歩道(上流側)を通る歩行者・自転車はどうか?
このように特に横断歩道や歩行者用信号はない
鋼材で見通しが悪いから、注意が必要。交差点と関係ない下流側歩道を通った方がいいかもしれない。
トラックも多く、皆キュッとタイヤをきしませて曲がっていく
看板にぶつかった跡があったが、もし鋼材本体に衝突したら橋は大丈夫だろうか。

長島側へ戻り、今度は改めて下流側歩道を桑名市街まで通して歩いてみる。たもとから少し離れた所に交差点があり、名前は「伊勢大橋東詰 Iseohashi E.」。
国交省が立てた看板があった
やはり渋滞解消などを名目に架け替えが計画されているようだ。今の橋は美しく、建築・土木学的な意義も大きいのだが、この大きさでは残すもの難しいだろうし…
看板を拡大
ところでこの看板の絵。トラックの運転手は近くに歩行者がいるのに脇見運転をしているらしい。国交省は脇見運転を推奨しているのか!
そんな危険な車がいるのを知ってか知らずか、歩道の通行人は皆さん陽気。うち男性は2人ともスーツにネクタイ。左の女性はハイヒール? 桑名市街側からその格好で歩いてきたとはご苦労なことです。
渡り始めます!
尾張大橋と同年1963年に外付けの歩道が造られている。まっすぐに1本道が1キロ以上伸びているわけで、自分の意志で歩くとはいえ、気が遠くなる。
アーチの塗装がとてもきれい
実は昨年度末(今年3月)に鋼材の再塗装工事が終わったばかり。ということは今の橋をまだ当分使い続けるつもりなのだろう。じゃあ、看板の新橋は何?
長良川河口堰があるので、下流側の見通しは良くない

歩道は尾張大橋と同じおっかないタイプ、しかも鉄板敷きでおまけにサビサビ
尾張大橋は路面の材質が違ってまだ良かったが、こちらは旧由利橋と同じく鉄板そのままで怖い。写真のように所々凹凸もあるし、両岸が低地のせいか水面との距離も近くて余計に怖い。
昨年度の上部に続き、今年度末に残りの下部の塗装工事が行われるようなので、多少改善はされるだろうが、雨の日などは足元にご注意を。

半分を少し過ぎて長良川が終わって、中堤入口交差点。
トラックの出入りは迫力あり

まっすぐに続く堤防

右折禁止ですよ!

揖斐川にかかると河口堰がなくて視界が開けるが、歩道に網が出現
風よけだろうか? 秋田の雄物川ではこの程度のモノじゃ冬の風雪には役に立ちません! でも恐怖感はだいぶ軽減された。
揖斐川も大きいが、雄物川よりは少し狭い
まだ左端に河口堰が見えている。
渡り終えた!! ゆっくり歩いて15分
2つの大河が並ぶというのは不思議で雄大な光景だ。そして振り返っても気が遠くなる長い歩道。楽しかったけど、今はもう戻りたくはない。
尾張大橋同様、自転車で渡る地元の人が何人かいた。
西側は橋のたもとすぐが交差点。古い鋼材に新しいLED信号機
交差点名は「伊勢大橋西詰 Iseohashi W.」と東側と同じ管轄だから表記が揃っている。

対岸は「ながら・いび川」だったがこちらは「いび・ながらがわ」と渡る順番に合わせて逆になってる。
車道の上にあった看板(長島側にもあった)。昔の秋田大橋もこの書体の看板があったな。

ちょっと離れて
アーチ橋独特の柔らかい線、いくつも連なるアーチの重なりが美しい!

近代の遺産として、末永く残すことはできないだろうかと思いながら、少々道に迷いながら桑名駅へ到着(橋から駅まで約2キロ)。
トータル約7キロ歩いて、弥富駅で名鉄に乗り換えるのも面倒になり、JR関西本線の快速電車があったので一気に名古屋まで行ってしまった。大都市名古屋へ乗り入れる電車はワンマン対応の2両編成、単線で行き違い停車もあり、秋田の電車とあまり違わない(並行する近鉄もあるので、総運転本数では秋田よりずっと多いけど)。こういう東海地方の一種のユルさが好き。
20分ちょっとで330円、昔の旅人は渡し船で、僕は苦労して2本の橋や河口堰を歩いた木曽三川もあっという間に通過して、ツインタワーがそびえる名古屋に到着。
疲れたけど、いいものを見ることができた。
※長良川河口堰や伊勢大橋東側に行く場合、桑名駅と河口堰近くのリゾート施設「なばなの里」との直行路線バスを利用するといいようです。
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長良川河口堰

2009-06-10 21:02:31 | 
尾張大橋の翌日は「伊勢大橋」へ。その前に近くの「長良川河口堰」を訪れたので、この記事で紹介します(橋ではないですが便宜上橋カテゴリにします)。

昨日と同じく名鉄で弥富駅へ。近鉄に乗り換えて1駅の近鉄長島駅から歩き始める。
駅前の観光看板(文字を追加しました)
川に囲まれて島状態なのが分かる。温泉やレジャー施設、輪中関係の展示施設が点在するが、車でないと行きづらい

国道へ出ずに、線路沿いに500メートル進むと長良川の堤防。周りは田んぼが広がる。伊勢大橋や河口堰が見えるけど遠い。堤防を下流へ歩く。
これは河口からの距離のようだが、分かりづらい。
その点、雄物川の「日本海から/まで○キロ」のカッパ看板は分かりやすいし楽しい。東北地方整備局もしくは秋田河川国道事務所のオリジナルキャラなのだろうか?

線路から1.3キロで伊勢大橋。橋は後回しにして、さらに下流へ300メートルほどで長良川河口堰。
右に伊勢大橋が見える
1995年の河口堰運用開始当時は、その是非を巡る報道がよくされていたが、最近は見かけない。
汽水だった水域が淡水化されて漁業に影響があったり、生態系への影響が問題視されてきたが、地域住民を長年悩ませた水害対策や水の利用など人間の命や生活に関わる部分が改善されたという側面もある。遠い地に住む僕が、少ない情報で、河口堰がいいか悪いか、いるかいらないかは判断できない。

ところで、秋田県民の皆さん。
秋田駅東西を結ぶ地下トンネル「秋田中央道路」の建設費は700億円。では、この長良川河口堰の建設費はトンネル何本分に相当するでしょうか?

正解は約2本分(1500億円)。個人的には、ずいぶん安いと思った。中央道路のことを考えてしまうと。
中央道路は当初、1500億円で上下線別に2本のトンネルを掘る計画だったから、かつての秋田県はこの河口堰を秋田市中心部に埋めようと考えていたようなものだ。
でも国にとっての1500億円と秋田県にとっての700億円では重みが違いすぎる。それに中央道路がなくても洪水になるわけでも人が死ぬわけでもない。
河口堰のことは置いておいて、秋田から遠く離れた地で長良川を眺めながら、あの地下道路は必要だったのかと、また思ってしまった。

さて、長良川といえば…
鵜!
日本に生息するウミウとカワウは区別が難しい。これは光沢がないのでカワウかな。鵜飼いに使われるのはウミウの方。ほかにも鵜や白い鷺がいた。

河口堰周辺には駐車場・公園・芝生があり、自由に立ち入りできる。
急な階段下に「左岸魚道観察室/ご自由にお入り下さい」
入り口は暗幕が張られ、川に沿って長い小部屋になっている。
長良川の生き物の資料が展示されていた
河口堰の両端は魚が行き来できる魚道になっており(数種類の違う方式がある)、ここでその1つの「呼び水式魚道」を側面から観察できる。
(水族館みたいに見えるけど、写真奥から手前に向かって流れている長良川の側面)
底の方で小魚が群れていた
アユの遡上シーズンだが、潮の満ち干に影響されるそうで、この時は見られなかった。
草むらをかき分けて下流側から
以前から写真で見て気になっていたのが、上部の丸っこい物体。「操作台上屋」という堰のゲートの制御装置が入った部屋で水滴をイメージしたとのこと。昆虫の複眼のような、ロボットの頭のような、好きになれないデザイン。
敷地内の看板「セアカゴケグモにご注意」
そうそう。こんなニュースもあったな。ほとぼりが冷めるとすぐ忘れてしまうが、当事者にとっては今でも問題。
資料館「アクアプラザながら」
入館無料で河口堰や長良川の治水の歴史に関する展示がある。
展示によれば、河口堰の主目的は、
洪水を防ぐには川底を掘り下げる“しゅんせつ”が有効→しゅんせつすると海水が長良川に逆流しやすくなり生活に影響する(塩害)→そのため河口堰で海水逆流を防止する
ということだと理解した。

河口堰自体を維持管理する管理所とは別棟だが職員が常駐し、清掃も行き届いていた。予約すれば1人でも案内してくれるそう。トイレもきれいだったし、展望室(屋内外両方)もある。
屋内展望室
生茶のボタンが8つもあって午後の紅茶は1種類しか入っていないキリンビバレッジとコカコーラ自販機があった。
上屋と伊勢大橋と桑名市街

反対側、長島地区
麦畑や住宅の向こうに昨日渡った尾張大橋が見えた。
下流方向
左の道路や駐車場が川の水面より低く見える。1959年の伊勢湾台風では高潮による大きな被害があったそうだ。

河口堰本体の上は、ダムと同様橋状になっていて昼間は開放されており徒歩か自転車で対岸へ渡れる。長さ661メートルもあり、行って戻ってくるのも大変なので、見学者用レンタル自転車まであった。僕はもうここへは戻ってこないので歩き。

作業用車両が通るのだろうが、車がすれ違えるほど広い。手すりもしっかりしていて、歩いても恐怖感は感じない。
10個以上の丸い上屋が並ぶが、長島側の2個は写真のように上流・下流両側に上屋があり、残りは下流側だけ。役目が違い、この2個は「ロック式魚道」、残りがメインの「調節ゲート」。
上から見た調節ゲート下流側
運用開始時にこのゲートが落ちる(閉まる)映像が象徴的に使われていた。
丈夫な手すりがあるとはいえ、こうしてのぞき込むと怖いのはダムを見下ろした時と同じ。水は滝状にザーと流れているようにしか見えないが、ゲートで上流側水位を高くして海水が流れ込まないようにしたり、洪水時に調整したりしているとのこと。
伊勢大橋を真横から見られる。美しい

工事関係業者の車が駐まっていた
自転車を借りていた人がいたが、ミニチュアダックスフントも一緒だった。広々とした橋の上が楽しいようで、飛び回っていた。
対岸に近づいてきた。
ゲートとは違う構造の物がある
自転車は通れない狭い通路があり、上流方向へ入れた。
「閘門(こうもん)」という水位を調整して船を通す場所。魚道も兼ねる。

対岸に到着。対岸と言っても幅200メートルほどの千本松原と言われる堤防で、すぐ隣を揖斐川が流れる。
伊勢大橋方向。右が長良川、左が揖斐川

下流方向
川の境の堤防は徐々に細くなってなくなっている。そこが合流点で、長良川は終わりで揖斐川になるようだ。
アップ
赤いのは3キロ下流の国道23号揖斐長良大橋。上下線同じ構造の赤いトラス橋が2本並んで重なって見える。尾張大橋からも見えた河口のナガシマスパーランドのジェットコースターも見えて、おもしろい光景。
親水広場という水辺の公園があった
さて、これから伊勢大橋を渡るけど、この堤防は橋の途中。普通の橋なら、一本道で両岸からしか渡れない。
でも伊勢大橋は大丈夫。橋の下を潜り上流側に行くと、
アーチにぽっかり穴が開いていて、中に入れるのです!
車道があり、橋の中に信号機まで付いている(右の坂道は河口堰への=今歩いてきた 歩行者道)。
伊勢大橋の記事は後日アップします。
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尾張大橋

2009-06-09 21:14:00 | 
「木曽三川(きそさんせん)」と呼ばれる川がある。岐阜県や愛知県西部の濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐(いび)川の3つをまとめた呼び方。鵜飼いで有名な長良川以外は、僕も含めて東北人にはなじみが薄いが、どれも“大河”と呼ぶにふさわしい河川だ。

「輪中(わじゅう)」はご存じだろうか。僕は教育テレビの小学校4年生のクラさんか5年生の「リポートにっぽん」で見たような記憶があるが、この木曽三川流域は低い土地が多く水害に悩まされ、その対策として集落全体を堤防で囲ったのが輪中。

洪水の頻発は、かつて3つの河川が下流域で渾然一体となって流れていたことも理由で、江戸と明治時代に大規模な治水工事が行われ、現在はそれぞれが明確に区分され流れている。

地理好き・大河好きとしては大いに興味をそそられる場所で、以前はこの3本が最接近して流れる場所(木曽三川公園センター)を見た。秋田市の雄物川河口付近(雄物川だって有数の大河川だ)みたいなのが3本隣り合って流れていて、とても感動した。今回は、そこから6~7キロほど下流、愛知県の海沿い最西端、弥富(やとみ)市を訪れた。
「弥富」駅
名古屋からのJR関西本線、ローカル線の名鉄尾西線が同じ駅を使い、別に徒歩数分の場所に近畿日本鉄道の「近鉄弥富」駅がある。名古屋周辺でこの3社が集結する駅は、名古屋駅と弥富駅しかない。名古屋から弥富へは運転本数や時間的に近鉄かJRを使うのが普通だが、今回はフリーきっぷ使用なので、ローカルムード満点の名鉄で。
弥富駅は地下駅以外では最も低い場所にある駅
一説には近鉄弥富の方が低いとされるが、近鉄では駅の標高を調査しておらず、不明らしい。
弥富駅は豊橋駅と同じく、JRのホームを名鉄が間借りする形。ここは名鉄の職員すらおらず、窓口業務もJRに委託している。しかもJR東海も自社の子会社に業務を委託していて自動改札もない。秋田市の羽後牛島とか新屋みたいな感じの駅だった。
駅から約200メートルで国道1号線に出るので右折
住宅地と店が混ざって、ここも秋田市新屋の旧国道7号線(秋田大橋の通り、今は県道56号)みたいな雰囲気。
駅から1キロほどで「尾張大橋東」交差点
100メートルほど先に名前が似た「尾張大橋」交差点、その先が尾張大橋。手前の交差点名「尾張大橋東」は「尾張大橋の東側(東詰)」と「『尾張大橋』交差点の東隣」の2通りの意味に取れるけど、どっちなんだろう?
橋のたもとで2つの交差点が接近しているのも、新屋の秋田大橋に似ている。
木曽川

橋を背にして振り返って
木曽川が三重県との境目なので、「愛知県」「弥富市」の看板がある。橋を渡り終えてから「尾張大橋」の看板があるようにも見えるが、これは本来信号機に付ける「交差点名」の表示。県名市名の看板と干渉しないよう、信号機から離れた下に付けたのだろう。

堤防を降りてみる。雄物川と比べて川幅はやや広いが堤防は低く、楽に降りられる。標高が低いからだろう。
約100メートル上流側に近鉄とJRのトラス橋が並ぶ
ちょうど近鉄の普通電車が来た。延々とトラスが続いている。
河原は砂地でさっきまで水があったかのようにぐちゃぐちゃ
満ち干があるのか、海みたいな匂いもするし、潮干狩り? をする人もいる。上流側の橋は東名阪高速と水道橋らしい。

さて、ここに来た目的は、国道1号線の「尾張大橋」を見て渡ること。
秋田大橋由利橋も立派な名前の立派な橋だが、これは旧国名の「尾張」を冠した橋。そして秋田大橋や由利橋と同時期の1933(昭和8)年に架けられ、秋田大橋よりも長い橋が現役ということで興味があった。
長い!
878.8メートル(先代の秋田大橋は578.4メートルなのでちょうど300メートル長い。幅は7.5メートルで同じ)

そして(2002年に塗装工事が行われたので錆が目立たないのもあるが)、美しい。
由利橋・秋田大橋など昭和初期のトラス橋はゴツゴツしていかめしかったが、この橋は、トラス橋でなく、ラインが柔らかく優しい。
この橋は、構造で分類すると「ランガートラス橋」という形式。上部の構造物は、上の方は本田橋のような「ランガー」、下3分の1ほどが三角に組んだ「トラス」構造で、2つの折衷構造。盛岡駅前の開運橋もランガートラス。
鋼材自体は時代を感じさせる太いものだが、トラスよりランガー(アーチ)部分が目立つので、優美な印象を受けるのだろう。

秋田大橋はトラスが6連だったが、こちらのランガートラスはなんと13連!(1つ1つが短いけれど)
果てしなく続いていて気が遠くなりそうだし、スケール感がおかしくなってピョンピョンを跳んで渡れそうな気がしたり、河原でしばし見とれてしまった。

川は下流らしい堂々とした流れだが、河口から9.3キロとの表示があった。雄物川では四ツ小屋の岩見川合流点が8キロ。
端っこの鋼材に銘板が。「横浜船渠株式会社製作/昭和八年三月」
横浜船渠(せんきょ)は現在は三菱重工と合併している。
「工事概要」を発見
それによれば、昭和5年3月着工・8年10月竣工、工事費156万5千円。
工事関係者として愛知県知事以下、県の土木技術職員が名を連ねる。国道なのに大臣とか国関係者の名前が一切ないのは何でだろう? 今みたいに地方分権・権限委譲の時代ではないのに。
最後に「設計者嘱託 工学士 増田 淳」とあるのは、戦前に各地に多数の橋を設計した有名な技術者(1883-1947)。コンピュータもない時代にこんな実用的なのに美しく、耐久性のあるものを作ってしまうなんて。
旧秋田大橋は資料が散逸して設計者などは不明だそうだが、こうして橋自体に当時の記録が残るのは貴重だと思う。ちなみに秋田大橋は着工から竣工まで2年、工費62万円。どちらの橋も昭和初期に2・3年でこんなに大きな橋を架けてしまうのはたいへんな大工事だったに違いない。

古い橋お約束の後付け(1963年)の自転車・歩行者道が両側にある。
上の旧建設省のままの看板は「気をつけて通行して下さい」
心配してくれるのはうれしいが、「何に」気をつければいいのでしょうか? 対岸にも同じ2枚の看板があった(警察署名だけ違った)。
左側通行だが見晴らしが良さそうな下流側を渡る
県境でも両岸に町並みが迫るためか、たまに自転車で通る人がいる。上流側歩道には県境を示す小さな黄色い看板が立っていたが、下流側にはなかったと思う。車道は通行量が多く、やや滞り気味で旧秋田大橋レベルか。

歩道の幅はやや狭めで、手すりの下の隙間から水面が見える、おっかないタイプ。もちろん車道の振動が伝わって揺れる。でも滑りにくいザラザラの加工がしてあるので、それほど恐怖感がなかった。(旧由利橋の方が怖かった)

近くで見ると由利橋や秋田大橋と同じ、リベット(鋲)で止めたゴツゴツした鋼材。

橋からの下流の眺めは壮観。風も気持ちいい。
海じゃないです。川です
写真では分からないが、河口の「ナガシマスパーランド」のジェットコースターが見えた。
三重県側
13連のアーチに続く西側1スパンはランガー(アーチ)部がなく、低いトラスだけの構造。こちらもたもとに交差点。
10分ほどで渡り終えた。秋田大橋を渡るのと気分的には変わりなかったが、歩いて三重県に入ったことになる。
交差点名は「尾張大橋西詰(にしづめ)」。
東日本ではあまり使わないが、京都など西日本では、橋のたもとを「東西南北+詰」と表現し、交差点やバス停名に使われる。
愛知と三重では信号機を管轄する警察はもちろん、国道を管理する国交省の出先機関(国道事務所)も異なるので、表現が異なったのだろう。三重県は近畿地方に含める考え方もあるから、ここが「○詰」の境界かもしれない。
ちなみに英語表記は「Owari Bridge E.」と「Owariohashi W.」と異なっていた。西詰はbridgeと書いてないから知らない外国人は「オワリオーアシ」と読みそう。
ずいぶん先(橋から100メートル位?)に「三重県」「桑名市」の看板
今は桑名市だが、2004年までは長島町だった。長島の名の通り、木曽川と長良・揖斐川に挟まれた長い島状の地域で、かつては輪中のまっただ中だったのだろう。言葉なども三重よりも尾張の文化が混ざっているなど、独特な模様。

この先国道を2キロほど進めば長島を抜けて、長良・揖斐側を一挙に渡る尾張大橋の兄弟橋「伊勢大橋」や長良川河口堰がある。翌日に訪れることにして、この日は長島駅(弥富のようにJR・近鉄が近接、JRは無人駅)から電車で戻った。

長良川河口堰の記事はこちら。伊勢大橋の記事はこちら
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由利橋渡り納め

2009-05-24 20:41:42 | 
由利本荘市の子吉川に架かる由利橋の架け替えに伴う、「渡り納め」イベントが今日(24日)に行われたので見てきた。
市の広報紙やサイトで告知され、前日にはローカルニュースの「明日の動き」でも伝えられた。近く(大町角の空き地)には駐車場が設けられた。

現在は仮橋が共用され、旧橋は解体を待つだけで通行止めになっている。
今日は「由利橋に感謝する集い」として、10時から左岸(市中心部鍛冶町側)で市長あいさつ・橋名板取り外し・保育園児の踊りなどの後、10時半頃から14時まで自由に渡り納めができる。
子吉川にもカッパ発見!
雄物川では数少ない建設省バージョンのカッパ。色あせたのではなく、着色なしの線だけの絵か?
鍛冶町側。カーブして右の仮橋につながる。仮橋の歩道は上流側のみ
10時半過ぎだったので、イベントが行われたと思われるたもとのテントはたたまれていた。
鍛冶町側
「ありがとう由利橋 長い間お疲れ様でした」という横断幕と「ありがとう由利橋」のくす玉が。
橋名板は4つとも撤去済み
歩道は通行止めで、車道部分を開放していた。

橋の上では地元のお店の「本荘うどん」、お菓子、農産物などテントの出店も(当初の発表より3店減ったようだが)。
あとは、夏の秋田でイベントがあれば必ず出没するババヘラアイスも来ており、両岸に出店。石脇側では、鳥海地区の「花立牧場」のソフトクリームと競合していた。


 (左)橋の下流石脇側にクレーン船「第十四長田丸」が停泊
 (右)橋の下にも足場が組まれている
明日以降、さっそく橋の解体が始まるのだろう。

石脇側にも同じ横断幕
大にぎわいではないが、ひっきりなしに人が来る。
高校生からお年寄りまで写真を撮っていたし、「私が小学校さ入った年にこの橋ができたんだども、なくなるのを今朝まで知らねくて。なんとなんと…」と感慨深げなおばあさんもいた。
このイベントがあることを「(10時の式典で)のろしが鳴って、何だべと家族に聞いて知った」とか「(一緒に来た友達に)教えてもらっていがった」と話す人もいたので、事前の告知は足りなかったかもしれない。
僕が不満だったのは、売店テントの後ろのラッパ型スピーカーから、他地域の民謡が延々と流れていたこと。何で由利橋とのお別れに「土佐の高知のはりまや橋で~(橋つながり?)」とか「津軽良いとこ~」を聞かなければいけないのか。音楽なんていらないと思うし、せめて「本荘追分」とか谷川俊太郎 作詞/息子の谷川賢作 作曲で子吉川も歌い込まれた「由利本荘市民歌」程度にしてほしかった。
こうして見ると狭い
考えてみれば、トラス橋の内部を歩いて渡るのは初めてだった。こういう古い橋では、歩道がトラス外側に後付けされることが多いので、車で通らなければ内側は見られなかった。小学生の男の子も「橋の中ってこうなってるんだ!」と上を見上げて感心していた。


くす玉はアヤメをモチーフにした市章が描かれていた
僕は秋田大橋撤去の時はほとんど見に行っていないが、由利橋も同じように市民に惜しまれながら役目を終えられたようだ。
雨が降りそうだったが、イベント終了後まで持ってくれた。
※由利橋の次の記事はこちら
コメント (4)
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本田橋

2009-05-19 20:20:39 | 
1月に撮った古い写真で恐縮ですが、秋田市内の橋の話題です。

雄物川の支流、岩見川は秋田市四ツ小屋地区と雄和地区(旧雄和町)の境。下流から芝野橋(昨年秋の記事)、空港道路(県道9号線)の秋雄大橋、本田橋の順に3つの橋が四ツ小屋と雄和を結んでいる。
空港道路は別にして、古くからある生活道路の芝野橋・本田橋はいずれも雄和側の集落名(雄和芝野新田、雄和田草川字本田)から名付けられているのがおもしろい。
そのうちの本田橋が、点検の結果、横桁の鋼材に激しい腐食が見つかり、2008年1月25日から通行止めになっている。「市道本田妙法線」という秋田市道で、架け替えすることが決まったようだが、完成は5年後とか。本年度は調査などが行われるようだ。

僕はまったく土地勘がなく、「ほんだ橋」だと思っていたが、「ゆうわたくさがわ あざほんでん」という地名で「ほんでん橋」と読むことすら知らなかった。
芝野橋など近くの橋は単純な「桁橋」なのに、写真で見ると本田橋は、水色に塗られた金属製の構造物が上に付いている。橋好きとして、見に行ってみた。
略地図です。無関係の道は省略
JR奥羽本線四ツ小屋駅前の線路と並行する道路には、
通行止めの看板
岩見川の堤防(サイクリングロード)に上ると、遠くに水色の構造物が見えてきた。
対岸は本田の集落
(以下、橋の構造に関することは自信がないので、そのつもりでお読みください)
金属の構造物がある橋といえば、旧秋田大橋、旧由利橋、雄物新橋、秋田運河の新川橋などが思い浮かぶ。それらの橋は「トラス橋」といって、三角形に組んだ金属構造物からなり、三角のそれぞれで重さを支えている(のだと思っている)。
ところがこの本田橋は、三角の部分がなく、側面の金属がまっすぐ下につながっている。全体として丸っこい。これは「アーチ橋」といって、太いアーチ(弧)全体で橋を支えているらしく、ぱっと見はトラス橋に似ているが仕組みはまったく違うようだ。新川橋隣りの水道管の橋はアーチ橋かな。
なめらかなカーブ
調べてみるとアーチ橋にはいくつか方式があり、本田橋は「ランガー橋」というタイプ。路面と平行な補剛桁という、横方向の部材が主に重さを支え、アーチは補助的なものらしい。
路面の外にある太い部材が補剛桁?
本田橋で腐食が見つかった「横桁」とは、この補剛桁のことだろうか? だとすれば、メインの構造物だから危ないのは当然だ。
長さ150.8m、幅6m。アーチは中央に1つだけ

トラス橋よりも柔らかく繊細な印象を受ける
秋田大橋や由利橋よりも部材が細いが、これは構造の違いでなく、時代のせいだろう。同じトラス橋でも戦後に作られた雄物新橋などは本田橋と同じくらいの太さだから。
リベット(鋲)も最小限で雄物新橋と似ている
橋を渡る道路は、
厳重に封鎖されている


「昭和39年12月竣功」とあり、43年使われたことになる。風雪や海からの強風がある秋田県沿岸部とはいえ、秋田大橋や由利橋のように70年前後活躍した橋もあるし、本田橋と1年違いの昭和38年に架けられ、河口近くの雄物新橋は今も現役。
本田橋は秋田市と雄和町の合併前はどちらの管轄だったか知らないが、道路管理者の管理やメンテナンスが充分とは言えなかったのかも知れない。橋のたもとの銘板の石もボロボロだし。
橋を背に線路の方を見る
左前は田んぼで、右側は「四ツ小屋末戸松本」地区の集落。道路はカーブして、その先に信号機のある(最初の看板があった道との)交差点と奥羽本線をくぐる地下道があり、向こうに御所野ニュータウンのイオンが見える。
ここからだと、四ツ小屋駅もイオンも2キロ以内。意外に近く、例えば、本田など雄和地区の高校生や奥様・お年寄りが徒歩や自転車で本田橋を利用していたのではないだろうか。
迂回路とされている下流側の空港道路の秋雄大橋までは1キロ(四ツ小屋駅へはあまり遠回りではない)、上流側河辺地区の豊成橋までは2キロもある。車ならともかく、徒歩や自転車では大変だ。

僕はこの地区の生活事情を全く知らないし、秋田市の財政状況も厳しいのだろうが、早く架け替えを進めるべきではないだろうか。
これがもし県道だったら、「700億円もかけて地下トンネルなんか掘るより…」って言えるけど。

新しい橋は、近隣の橋の構造、財政状況、建築技術から判断すると、「桁橋」になってしまうのだろう。農村の風景の中に青いアーチがアクセントを添えるのもあとわずかだろう。
でも、冬の寒空に寒色の青に塗られた、か細いアーチ。もう誰も渡ることなく、何年か放置されて解体されるのを待つ本田橋の姿は切ない。


交差点(地図の「×」印)にもバリケードが設置され、橋までの道路は全面通行止め(と書いてあったけど人は通れる)で除雪されていなかった。秋田駅と牛島または日赤病院・御所野経由で雄和市民センターとを結ぶ路線バスが本田橋を渡っていたが、空港道路を迂回している。
「末戸口」バス停

右矢印に従うと四ツ小屋駅付近を経由し空港道路へ
線路の地下道から振り返ると、小さくアーチが見えた。
つまり「こまち」の車窓からも一瞬見えるはず
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由利橋

2009-02-05 12:50:44 | 
前も少し触れたが、秋田県由利本荘市の中心部(本記事では“本荘”とします)に「由利橋」という橋があり、間もなく架け替えられるらしい。

雄物川、米代川と並ぶ秋田県の大河川、子吉(こよし)川は本荘で日本海に注ぐ。本荘には3本の橋があり、両端が国道の本荘大橋と飛鳥大橋で真ん中がいちばん古い由利橋。市街地と秋田市寄りの石脇地区を結ぶ。
正式には「ゆりはし」と読むらしいが、一般に「ゆりきょう」と呼ばれる。
由利橋に関するネット上の資料は少ないが、旧酒田街道(今の国道7号線)の渡し舟のあった場所に、1877(明治10)年に有料の船橋(舟に板を渡して橋状にしたもの、桟橋みたいな感じか?)が作られ「有利橋」と名づけられたが洪水で度々流失、1890(明治23)年に木の橋ができて「由利橋」となったそうだ。その後1931(昭和6)年に現在の橋ができている。
現在は市道のようだが、本荘大橋が1969年にできるまでは国道であり、本荘から秋田市方面への唯一の橋・道だった。

前に紹介した秋田市の先代の秋田大橋に似たデザインのトラス橋。長さ500メートル超の秋田大橋よりは短く(200メートル程度)、トラスも半分の3連とはいえ、由利橋は秋田大橋より3年早く竣工している。その時にはまだ、秋田大橋は着工すらしていなかった(昭和7年着工)。当時の本荘町(市になったのは戦後)いや秋田県では画期的な構造物だったのだろう。
本荘市街側から
僕は本荘に多少ゆかりがあるため、由利橋にもなじみがある。子供の頃、秋田大橋と同じような大きな橋が歩いていける街中にあるのが、印象的だった。現在は撤去を控えているので、再塗装されず錆びているが、その頃に塗り替え工事が行われた記憶があり、白い秋田大橋とは異なる、水色がきれいだった。
今にして思えば、秋田大橋が「新屋の門」なら、こちらは「本荘の門」だった。

上流側に仮橋ができている(信号機右側の雪が積もっている部分)。仮橋使用中に、現在の橋を撤去し同じ位置に新橋を架けるようだ。

ゆりはし 昭和6年6月竣“功”
車道は旧秋田大橋以上に狭く、同様に歩道が外付けされているが狭い。しかも仮橋に接する上流側の歩道が通行止めになっていて、下流側しか通れない。路面は雪が積もって硬くなっている。

左が河口側。青いのは防風ネット。秋田市の雄物川ほど海に近くはなく、川がカーブしていて海から直接吹き付けないとはいえ、やはり風は強いようだ。

歩いて渡ってみる。買い物や通院だろうか、渡る人は秋田大橋よりも多い。歩道は自転車でも降りれば通れる決まりだが、すれ違いが大変そう。車が途切れる瞬間があるし距離も短いから、自転車の高校生などは車道を通っている。
雪があるので、人同士がすれ違うのもままならない。防風ネットで川面が見えないのは恐怖感を低減してくれるが、それ以上に怖いのが足元。旧秋田大橋はコンクリートだったが、由利橋は鉄板敷き。融けかけの雪で滑りそうだし、すれ違う人の歩く振動が鉄板を直に伝わって揺れる。仮に鉄板に穴が開いたら、下の構造はどうなっているのだろう? 下に何もなくて川に落ちるんじゃないかという恐怖を感じながらも、渡り切った。
そういえば、子供の頃、親戚の子が由利橋の歩道を楽しそうに走って渡っていたのに、僕は怖くて途中で引き返したのを思い出した。あの時は夏だったが、今回と同じ気持ちだったのだろう。
石脇側「子吉川」。左は「由利橋」の漢字表示。
川沿いの遊歩道へ行ってみようと思ったが、積雪で大変そうでやめた。再び由利橋を渡って戻る。
歴史を示すリベット留めの太い部材

旧秋田大橋に似ている

離れて見ると、旧秋田大橋よりはスマート?

再び市街側
外向きの縦方向の鉄骨が「××××××」だが、先代の秋田大橋はこの部分がフラットだったのが大きく違う。今回じっくりと見て、旧秋田大橋と比べてトラスは由利橋の方が少し丸くて柔らかく、ややほっそりとした印象を受けた。でも、道幅とのバランスなのだろうか、こちらのほうが威圧感は大きくも感じる。いずれにせよ、どちらも存在感のある橋だ。

さて、架け替えはどうなるのか。由利本荘市のサイトや現場にも予定表などはなく、たもとの交差点に市が設置したこんな看板が立っていただけ。

書かれていたのは「人と自然が共生する躍動と創造の都市(まち) 由利橋架替事業」「市の新たなランドマーク」「広くゆっくりとした歩道W=3.5m(両側)」「二径間連続鋼斜張橋 L=190.5m」の文言とリアルな完成予想CG。橋脚は1本だけ、歩道には秋田大橋のような防風板が付くようだ。
完成予定などは書かれておらず、専門用語があり、イマイチ伝わらない看板。WとかLとか二径間連続鋼斜張橋とか一般人向けの表現ではない。

注目は橋の構造。秋田大橋でさえ単純な「桁橋」になったので、現在の土木技術では由利橋も桁橋にできるだろう。しかし、由利橋は「斜張橋」という種類。

横浜ベイブリッジの塔が1本になったものと考えればよさそうだが、塔が川の石脇寄りに立っていて左右対称でない。
「斜張橋」は広い意味では「つり橋」だが、本来のつり橋は塔の間を結ぶ太いケーブルから、桁(道路部分)を支える細いケーブルが何本もぶら下がるもの。一方、斜張橋は塔から斜めに張った数本のケーブルで直接桁を支えている。だから塔が1本のものも存在する。
構造計算が難しく昔は現実的でない橋だったが、コンピュータの発達で設計しやすくなり、姿の美しさもあって、近年は採用が増えているそうだ。中~長距離の橋に向いており、由利橋程度の長さの橋も多いようだ。
建設費用はつり橋ほど高くないらしく、しまなみ海道の多々羅大橋は当初つり橋となる計画だったが、費用や景観を考慮して斜張橋に設計変更された経緯があるそうだ。

桁橋と比べたコストは高いかもしれないが、看板にあるようにランドマークとしては充分な存在で、今の由利橋にひけをとらないだろう。本荘はボート競技(レガッタと言うのかな)が盛んな「ボートの街」で、由利橋周辺の子吉川で競技や練習が行われるから、その邪魔にならないように、橋を非対称にして広くスペースをとったのかもしれない。
秋田大橋が単純な桁橋に架け替えられてしまい、存在感がなくなってしまったの(秋田大橋は国の事業で、海が近いなど条件が違うけれど)を知る者としてはうらやましい。

歩道は幅3.5メートルで、秋田大橋や秋田南大橋と同じだから充分だが融雪(ロードヒーティング)は設置されるのだろうか。今回の路面状況、秋田大橋の状況を考えると、設置するべきだと思うのだけど。

由利橋の架け替えについては、老朽化・交通円滑化の対策として、事業自体の必要性は認めても、仮橋の設置や斜張橋にすることが無駄な支出だと疑問視する声もあると聞いている。由利本荘市の財政状況、世界的な経済情勢を考えれば、そうなのかもしれない。
僕は本荘や由利橋に多少の縁と思い入れはあるが、由利本荘市に納税しているわけでもないよそ者であり、判断する公式な情報も少ないので、自分勝手な考えを言わせてもらえば、由利橋が現秋田大橋のような存在感のない橋になってしまうのは惜しく、本荘の町のためにはちょっと目立つ橋であってほしいから、斜張橋には賛成。
少なくとも700億もの県税で必要性の低い地下道路を造った秋田中央道路、各地の山奥の立派な道路などよりはるかに有意義な事業だと思う。

市民には広報などで周知しているのかもしれないが、由利本荘市はもっと架け替えに関する情報を提供をしてほしい。工期、交通規制、デザインの意図、費用など。今の情報量では、市民の合意を得られるものも得られないと思う。

そして、古い橋は何もなく解体されてしまうのだろうか。秋田大橋と同じように親しまれ、それ以上に長く活躍した橋。夏に行われる花火大会は、今の由利橋竣工を記念して始まったそうだ。2007年にずっと若い本荘大橋のトラスが破断し通行止めとなった際も、じっと耐えて迂回路として活躍したのは記憶に新しい。それこそ予算がないのだろうが、こんなけなげな由利橋の活躍を何かの形でねぎらってやってもいいのではないだろうか。

ともかく、秋田県内(少なくとも山奥などでない場所)にこのような形の橋ができるのは初めてだと思う。どうやって塔を建ててケーブルを張るのかなど工法が気になる。できれば時々見に行って、レポートしたい。
【5月5日追記】今日の魁新報によれば、5月11日午前6時から仮橋に切り替え、旧橋は24日の渡り納めイベントの後解体とのこと。
改めて由利本荘市役所のサイトを見ると、3月1日付けの「 広報『ゆりほんじょう』」に特集記事が組まれていた。それによれば、平成24年度完工を目指した工事計画、長さは現橋175.6メートル、仮橋196.1メートル、新橋190.5メートルであること、新橋は「主塔から橋げたを吊る」斜張橋であること、河川スポーツが盛んなので橋脚を1本にし河川空間有効活用に配慮したこと、総事業費39億4600万円であることなど、本記事作成段階で僕が知りたかったこと、市民に知らせるべきだと思うことの多くが記載されていた。
【5月24日追記】渡り納め当日の様子はこちら
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新屋の「門」

2009-01-30 19:57:53 | 
最近、橋 ―特に大きな川に架かる古めの橋― に興味が出てきたので、「橋」カテゴリーを作りました。

秋田市の南部を流れ日本海に注ぐのが、県内最大の河川、雄物(おもの)川。その河口から3番目の橋が、茨島地区と新屋地区を結ぶ「秋田大橋」(以前除雪状況を記事にしました)。1934(昭和9)年に国道7号線として開通し、2001年に架け替え、2003年に県道に移管された。今回は主に初代の橋を取り上げる。

今でこそ、秋田市内(旧雄和町地区を除く)の雄物川に架かる橋は4本あるが、昭和50年代までは2本、20年代まではこの秋田大橋だけだった。
新屋には僕自身や家族が勤めていた時期があるし、さらに先の動物園のある大森山、海水浴などへ出かける時によく渡っていた橋だった。そんなこともあってか、この橋を渡ると、独特の気分がした。
旧秋田大橋を渡る車内から
先代の秋田大橋は、「トラス橋」という、鉄骨を三角形に組み合わせた構造体で橋の重さを支える構造の橋で、同じデザインのトラスが6つ連なっていた。昭和初期の最先端の技術だったのだろうが、リベット(鋲)での接合、太い鉄骨、どっしとしたデザインが存在感があった。“秋田”大橋という名に恥じない立派な橋だったと思う。
今も現役の1つ下流の「雄物新橋」も構造上は同じトラス橋だが、秋田大橋の20年後、戦後の設計で、溶接の多用、細い鉄骨で全体として秋田大橋よりも繊細な感じで秋田大橋ほどの存在感はない。
僕にとって、秋田大橋は新屋地区への「門」のような存在感だったのかもしれない。
新屋側から(下の写真も)

6連のトラスがいかめしくも美しかった

今の橋は1997年に着工し2001年開通と工事に4年もかかったのに、先代は昭和7年に着工し、2年で開通している。現在の方が用地買収や交通規制で制約が多かったのかもしれないが、昭和初期にあんな長くて大きなものを2年で作り上げ、それが21世紀まで67年も現役であったことはすごい。設計・施工の技術水準や苦労が偲ばれる。

なお、東海地方の国道1号線などに、秋田大橋の“同期”といえる、同時期に架けられて似た構造の橋がいくつかある。これらの橋は、昭和初期の不況(昭和恐慌)対策の公共事業として架けられた経緯があるらしいので、秋田大橋ももしかしたら、そういう側面もあったのかもしれない。同時期に雄物川放水路の工事も行われていたし。

昔の白黒写真を見ると、トラスが白でなく黒っぽい色をしており、車道と歩道の区別がない。トラスの塗り替え時期は不明だが、歩道は1969年に後付けされたようだ【2017年5月15日追記・追記時のWikipediaには「角川日本地名大辞典」を出典として、歩道橋設置は「1976年6月」とある】。設計当時にこれほど車が増えるとは思わなかったのだろう、歩道を増設して対処した橋が全国的に多い。
橋本体の外側にくっ付けるようにして設置されたため、「揺れて怖い」と言う人もいたが、鈍感な僕は気にならなかった。雄物新橋よりは広い歩道で、トラスを隔てて車道から隔離されたようで、5分ほどかけて歩くのも嫌いではなかった。
その後、1981年に床板などの交換や補修工事、1990年に20トン車両の交通規制が行われるなど、老朽化が現れ始めるとともに、幅が狭く橋のたもとでの右折渋滞が発生したのも問題になり、架け替えが行われたようだ。

ちなみに上記の秋田大橋と同期の国道1号線の橋は、渋滞の原因として架け替えの要望が出ている所もあるが、具体的な架け替え計画がなく、塗装工事がされるなど当分現役として活躍できそうな橋が多い。
なぜ秋田大橋が早く更新されたのか。先代の秋田大橋もこれらの橋も国交省管轄だから、管理体制に違いはなさそうだ。おそらく、日本海側の河口近くだったのが大きな要因ではないだろうか。冬に風除けのネットが設置されるほどの強烈な季節風に70年近くもさらされ、さびやすい鉄が入り組んでゴツゴツした構造、傷みが早かったのだろう。(山形の最上川ではもっと短命の橋があったようだ)

かつて秋田市民の間では単に「大橋」で通じ(今は「雄物大橋」や「秋田南大橋」もできた)、架け替えを惜しまれながら役目を終えた先代の秋田大橋。国交省も写真や作文のコンテスト、ライトアップやたもとの小公園の整備などで古い橋を惜しんだ。


最後に秋田大橋の架け替え工事に触れておく。
仮橋は作らず、先代のすぐ下流に新しい橋を架けて取り付け道路を変更する工事方法だった。そのためか先代の578.4メートルに対し583.6メートルとわずかに長くなった。
幅は倍程度になり、交差点の右折車線と広い歩道が確保された。冬の海風を防ぐ透明板も常設された。初代の総工費62万円に対し、今回の架け替えは総事業費104億円(広報あきた2001年11月9日号より)とのこと。橋の形式はトラス橋でなく、小さな川の橋や高速道路の高架と同じ「桁橋」になった。
どれをとっても67年の時代の差を感じずにはいられない変化だ。

2000年10月から11月に工事の状況を何枚か撮影していた。
作業車が入れる「島」を作り橋脚を設置


新旧の橋はこんなに接近している。新しい橋の方が路面の位置がやや高い。

桁を伸ばして行く
工場で箱状の「桁」を作って、現場でつなぎ合わせる工法のようだ。
先代の橋の工事に比べれば、格段に楽だろう。プラモデルみたいな感じもしたけど。

雄物大橋や秋田南大橋もそうだが、トラス橋でなく単純な「桁橋」になってしまうことが分かった時は、ちょっとショックだった。土木技術の進歩と費用やメンテナンスの問題があるのだろうが、新屋の「門」にはなりそうもなく、ただの道路の延長のような味気ない橋になりそうで残念だった。

工事中は年度末になると一挙に進む気がして、役所の予算消化かと思ったが、そうではなく、日本の橋の工事は、雪解け水や洪水が起こりにくく、水量変化が小さい秋から冬に行うのが一般的なのだそうだ。

完成後、2年度かけて古い橋が撤去された。
ここから眺める太平山は美しい
歩道や欄干のデザインに一部配慮があったようだが、全体としては「秋田大橋」に名前負けしそうな、フツーの橋。
橋桁のエメラルドグリーンが工場から持ってきた部品のままの色なのが分かる。それにしても何でエメラルドグリーンにしたんだろう。完成予想図の1つに赤茶色のものがあったのだが、変更する事情があったのだろうか。

今生きている我々は、“3代目”秋田大橋を見る日は来ないだろうが、次の架け替えは、国でなく秋田県が設計・施工することになるのだろうか。どんな世の中になっていて、どんな橋になるのだろう。

※秋田大橋茨島側の手前には「小橋」もあるのです
先代秋田大橋が役目を終えたばかりの2001年の写真
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