🌸八丈島概略
☆伊豆諸島の火山島で、火山活動度ランクCの活火山
☆八丈小島と区別するため、八丈本島又は八丈大島と呼ばれる
☆東京都心から南方約300Kmの海上にある
☆人口は1万人弱で、明治初期まで流刑地であった
☆行政区分は東京都八丈町で、自動車も品川ナンバー
☆くさや、明日葉、ハイビスカス、島焼酎が特産品
⛳八丈島地形&地理
☆ひょうたん型をした島
*北西ー南東14Km、北東ー南西約8Km
*ふたつの火山が接合した島
*東山(三原山・標高701m)、西山(八丈富士・標高854m)
☆面積は山手線の内側とほぼ同じ
☆羽田空港から飛行機で片道55分で行ける
⛳富士火山帯に属する火山島
☆東山は約10万年前から約4000年前まで活動していた
*最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない
☆西山は数千年前から活動を始めた新しい火山
*15世紀~17年世紀に数回噴火している
*1606年の海底噴火によって火山島ができた
☆気候は、暖流である黒潮の影響を受ける
*年平均気温は約18℃で高温多湿
*年間を通して風が強く、雨が多いの
☆常夏のイメージを持たれているが
*八丈島の緯度は大分県大分市と殆ど同じ
*常夏とは言い難い環境
⛳八丈島の歴史(古代~明治維新)
☆縄文時代に人が住んでいた
☆律令制度においては、東海道駿河国に含まれていた
☆源為朝(平安時代に伊豆大島へ流罪で渡来)
*八丈小島で自害した伝説もあり、庶子二郎丸は生き延びた
*二郎丸は、源頼朝から戦での功績で、八丈島を領地として賜る
*源為朝の子孫が、約千年暮らし続けている
☆宇喜多秀家(八丈島の公式な流人第一号)
*関ヶ原の戦いで、西軍に属した宇喜多秀家
*秀家の子孫、加賀藩の援助を受け数家に分かれて存続
*明治維新後赦免された
☆近藤富蔵(最後の流人)
*北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男
*殺人を犯して八丈島に遠島、50年島で流人として過ごす
*明治政府により赦免、彼が流人生活の間に記した『八丈実記』
☆江戸時代の飢饉
*明和年間の大飢饉で、島全体で多くの餓死者が出た
*中之郷村内では、733人の餓死者が発生、生き残ったのは400人
*悲劇を伝える「明和飢饉餓死者冥福之碑」が中之郷地区にある
⛳八丈島の歴史(明治維新後)
☆吉村昭の『漂流』、野村長平らの漂着者を題材にした小説
*彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島
*五か村四千戸が地役人を中心に統治されていた
☆安井誠一郎都知事が戦後島内を視察
*山羊の導入や開墾を伴う入植計画
*サメ漁などの産業振興を提案
*島は今に東京の宝島になるとして持ち上げた
☆集落間で水争いや集落の境界の揉め事を争う事件も起きた
☆戦後の八丈島は観光産業が発達
*首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かった
*八丈島は庶民の間で「日本のハワイ」と呼ばれていた
*ハワイ旅行が安価になった為、観光客が減少した
*島には廃墟化した当時の巨大ホテルが取り壊されずに残っている
☆現在でも、観光が八丈島にとり重要産業
*かつては映画館やゲームセンターなどの娯楽施設も存在した
*現在、パチンコ店、カラオケ店、ゴルフ場等が細々と営業している
☆現代に至るまで、大手資本による店舗やサービスが一切無い
*コンビニもファストフードもない
*夜間営業を行わない個人営業の店で買い物をするしかない
*深夜には買い物自体が出来ない状況
(敬称略)
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⛳出典、『WIKIPEDIA』
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八丈島バーチャル旅行1(地形&歴史)
(『WIKIPEDIA』より画像引用)