行ってきました、里山シンポ。
参加者はざっとみて130人くらい、その95%は団塊世代以上の熟年世代と、まあこの日時設定ではさもありなんというか。まつたけ十字軍からは、代表はじめ実に10名近くが参加し盛り上げに貢献した。
司会は環境省自然環境計画課長 渡邊氏。冒頭、司会者からの問いかけで挙手した、実際に里山保全活動に関わっている人は参加者の約1/4。
司会者より環境省の里地里山政策の紹介とシンポジウム開催に至った経緯の説明があり、続いて「芸術の視点」から北川フラム氏、「循環型社会の視点」から内藤正明氏、「美しさ・景観の視点」から森本幸裕氏の講演、休憩を挟んでアイトワ主宰の森孝之氏、アミタ(株)の熊野英介氏、サントリー次世代研の佐藤友美子氏、環境省里地里山専門官の青木氏を加えた7名でのパネルディスカッション。
パネラーの発言には、実質引退名誉職と現役の、あるいは学者、官僚、事業家、民間のと、現在のお立場がよく出ていて興味深かった。「存在が意識を規定する」唯物論の原理は確かに存在していた。
里地里山の保全については、問題の捉え方や解決に向けての視点・方法論が百家騒乱(あえて百花繚乱とは言わない)状態であることは昨日書いた。前半の3つの視点からの講演と後半のパネルディスカッションでそのあたりをどう整理していくか、何らかの方向性の提示を期待したが、それぞれの立場からの報告がなされただけで残念ながらそうした問題意識はなかったようだ。
北川氏の報告は、新潟県の田舎町でのフィールドアートによる住民意識改革の実践例が中心であった。例えば、畑に洗剤のコマーシャルのようにシャツを並べ吊るしたり、林の中にビーズで作った造花をちりばめる、といったもの。その地にないものや石油製品を持ち込んでそのときは確かに「アート」かもしれないが、その後どうするのか、ゴミにならなかったのかと老婆心ながら心配させられるものであった。実際、丹後のリゾート公園破綻地で、環境テーマに芸大の方々が作ったらしい鉄骨とビニールテントの造形物が、時を経て汚らしいゴミとなった醜い姿をさらけ出していたのを見てしまったことがあった。なにも都会的「アート」を持ち込まなくても、地域にある芸術、芸能を広く発信する方がよいのでは、と感じた。その発想は、「ひこにゃん」の向こうを張って童子(大仏?)に角付けて奈良のシンボルキャラクターとしたゲイジュツ家と同レベルだ。
内藤氏は、国立環境研究所を経て京大地球環境学堂の初代学堂長を務められ、現在は琵琶湖環境科学研究センター長、NPO理事長、佛大教授とながく環境関連・循環共生型社会研究に関わってこられた経験から、「国や大企業が変わらない現状ではすでに手遅れ、各家庭で努力すれば変わるというものではない」と、ちょっと過激?な発言(ショック療法のおつもりか)も挟んで嘆いておられたが同感であった。
ゴミ分別・減量・リサイクルだの、CO2を出すな、無駄な電気を消せの、省エネ製品を買えのと、一般庶民にばかり環境「教育(洗脳?)」し行動を強要する環境政策では根本的解決からは程遠い。環境学者というのは、破綻に向かって驀進する資本主義社会を担う現政府の目くらまし環境洗脳政策への国民動員のお先棒を担いでいるものと思っていたが、中にはそうでもない人もいるようだ。まあ、国と資本家に遠慮がないのは実質引退組の強みか。
森本氏のお話は、まあ独法になったとはいえ国などから金をもらう立場は変わらない現役研究者の弱みが現れた、当たり障りのない教科書的「生物多様性論」で特に印象に残るものはなかった。終了間際に客席からお騒がせオバサンのようなお方が、「これがお抱え学者と官僚の実態だ」と八つ当たりしていたが、気持ちは分からないでもない。
パネルディスカッションも、パネラーの方々の旧論を披露する取りとめのないものでコメントするのもめんどくさい。
やはりミニシンポのやり方のほうが、地域限定的で話としては小さいかもしれないが、「手遅れ的現状でも何かしなければ、しないよりはまし」と頑張る一線の実践者には役に立つだろう。次回に期待。ん~、環境省に期待するよりは市民レベルでそういう場を作った方がよいのかもしれない。
個人的には、小難しい理屈をこね回さなくても、要は必要以上に資産を所有し金を持つことこそが諸悪の根源と考えている。1億円は1億円分の環境負荷なくしては得られないと知るべきだ。土地の個人所有は300坪以下(森氏は300坪で循環・自給自足できるとの持論)、年収は1千万円以下に限定、それだけあれば十分、それ以上は没収し社会や地域の共同財産とする。あまり肩肘張らずソフトを充実させてビンボー生活を楽しんでいきたい。