今日は春を通り越して初夏のような陽気で、こんな日に山へ行かないなんてウソだが、半面花粉の中に飛び込んでいくようなものだ。案の定、帰るとクシャミの連続、鼻水ダラダラとなってしまった。
陽気に誘われて定例活動日のように多くの方々が入れ替わりやってこられ、畑仕事やキノコの世話、巣箱作りなどに励んでおられた。
私は、メンバーのYさんからデカイ杉の切り株をいただいていたので昨日に続きカービングの練習。前から彫ってみたかったネコに挑戦。そんなこんなで「景観」のことをすっかり忘れてしまっていた。
後姿はまあまあネコだけど、前は...。
ネコに見えるかどうかはさておき、昨日のコナラと違ってスギは柔らかくて彫りやすい。うっかりするとすぐ切りすぎてしまう。
Mさん製作の巣箱。たくさん製作されたので、うちの庭にも置いてみようと一ついただいて帰った。
Aさんから収穫された水菜をたくさんいただき、お揚げと炊いて晩御飯にいただきました。ありがとうございました。
「田舎暮らし応援団」の活動拠点、大江町毛原地区が、京都府教育委員会から「文化的景観」指定されたそうだ。毛原地区は他にも農水省から「棚田百選」にも指定されている。
先日あった「里地里山シンポジウム」でも、「景観」の“価値”についての話があった。では「景観」の“価値”とは何なのか?実はその肝心なところがあいまいだ。シンポジウムでもそのことについて「質問状」を出したが残念ながら議論はしていただけなかった。
最近、「ナントカ百選」だの指定の大安売りである。「指定」するだけなら金もかからない。行政にとっては、いかにも環境や自然保護を重要視しているかのようなポーズをとるには最も手っ取り早い安直な手法だ。そこに補助金でも付けば、そこにぶら下がって行政の下請けに群がるハイエナのような流行の「ランドスケープ」屋学者サン・企業が儲かる仕組みができつつある。
「景観」とは文字通り解釈すれば見た感じであり、形態的には「自然景観」と「人工景観」に分けることができるだろう。しかし、その価値となると定義が難しい。「価値」というのは文化的思考能力を獲得した人間との相対において存在しうるものであって、そうした能力のない動植物には「価値“感”」といえるものはないと考えられる。
「文化的景観」とは形態的にはイコール「人工景観」のことであって、その「景観」が価値を持つということは、複数の「景観」を示された場合により多数の人々がより良い「景観」として選択するということである。つまり、「景観」の「価値」とは絶対的なものではなく相対的な価値観だと考えられる。
と、ここまで書いてきたが、m~m難しくて..。今日は山に行って「景観」の意味と「価値」についてゆっくり考えることにします。