歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

甲賀市信楽町 鍛冶屋敷遺跡から役所と見られる建物跡

2008年08月07日 | Weblog
 市教委は7日、紫香楽宮を造営した聖武天皇に関係のある鍛冶屋敷遺跡から、8世紀中ごろの掘立柱建物跡が出土したことを発表した。天皇が奈良・東大寺に先駆けて大仏造立を計画した甲賀寺に関連する役所跡の可能性が高いとみている。
 約1m四方の柱穴が18個見つかった。建物跡は3棟で、全体像が分かったのは平行に並んだ東西に長い2棟。南北に60尺(17・8m)離れて並んで建ち、北棟は12尺(3・5m)、南棟は11尺(3・25m)間隔の柱跡があり、60尺四方の空間に建てられたとみている。瓦の出土がなく、板ぶき屋根で切り妻造りの建物構造とみられる。
 南棟の1カ所でヒノキとみられる柱材の一部(直径0.3m)が残っており、今後、年輪年代測定法で時期を確定する。
 建物跡は鍛冶工房跡から約130m西の丘陵近くで出土した。2棟が整然と配置されていることなどから、鍛冶工房とは性格が異なり、儀礼的な機能を併せ持つ役所だったのではと推定。大仏建立にかかわる何らかの儀式の場だった可能性もあるとしている。
 また、建物の向きが宮町遺跡の遺構などと一致しており、「紫香楽宮と甲賀寺を結ぶ平たん地に一連の計画で建てられた役所群が展開し、その一つだった」とみている。
 今回の発掘調査は、民間開発に伴い、今年5月から約350㎡を調べていた。

 鍛冶屋敷遺跡(滋賀県甲賀市信楽町黄瀬)は、紫香楽宮に関連した遺跡のひとつで、紫香楽宮跡と宮町遺跡の間にある。
 2002年の調査で、最大級の銅の精錬・鋳造施設が見つかり、甲賀寺の大仏建立に使う銅を供給していた工房だったとされている。
[参考:京都新聞、読売新聞、中日新聞]
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桜井市 風呂坊5号墳 金銅製馬具が出土

2008年08月07日 | Weblog
桜井市 風呂坊5号墳 金銅製馬具が出土
 桜井市教育委員会が7日、同市阿部の丘陵上に築かれた風呂坊(ふろぼう)5号墳(6世紀前半、直径15~20m)の未盗掘の横穴式石室から副葬品の金銅製馬具などが見つかったことを発表した。
 石室は全長6.3m、幅2.1m。遺体や副葬品が安置された床面は築造当時の状態で残っていた。床には、木棺に使われた長さ20~30cmのくぎが40本以上、長方形に並んだ状態で見つかり、配列から2基の木棺が東西に置かれていたことが判明。木棺は長さ2m、幅80cmと推定されている。副葬品は西棺に多く見つかっている。
 銀製のイヤリング2点や指輪3点、金銅製のかんざし2点などが出土。石室の北東隅の木棺近くでは、楕円形の飾り板のある金銅製の轡や鞍金具などの馬具がほぼ完全な形で見つかった。
 金銅は銅に金メッキしたもので、表面の金メッキがわずかに残り、本来は金色に輝いていたらしい。渡来系氏族の墓に多く見られる銀製指輪やかんざしも出土。近くにあった工房で金属加工の技術者を束ねた渡来系一族が、葬られたとみられる。
 付近一帯は、6世紀代に欽明天皇など歴代大王の宮殿があったとされる地域。
市教委は「当時の政権とかかわりがあり、特別な働きが認められて馬具を与えられたのではないか」としている。
 現地説明会はないが、遺物は9、10両日と13~15日に同市芝の市立埋蔵文化財センターで公開される。
[参考:共同通信、四国新聞、産経新聞]

備考
 風呂坊古墳群は、桜井市街地の南側に位置する安倍山丘陵の南端部に立地している。(安倍山丘陵の西には文殊院西古墳があり、中央に文殊院東古墳、東側に風呂坊古墳群がある。)
 昭和33年の宅地造成の際にその存在が明らかとなり、横穴式石室を有する3基の古 墳から、土器類のほか、金銅製釵子(かんざし)や銀製釧、山梔(くちなし)玉、耳環、鉄釘などが出土した(第1次調査)。
 このうち釵子は同じ安倍山丘陵上に位置する稲荷西2号墳(桜井公園2号墳)でも出土しており、渡来系の遺物として注目されている。残念ながらこれらの古墳は調査後の造成工事により失われ、現状では最上部に位置する古墳1基が残存するのみとなっている。
 第2次調査は、かって古墳が存在したと推定される造成地において実施した。調査の結果、上記のような遺物を出土した古墳の残存は確認できなかったが、丘陵斜面を覆う流出土中より多くの弥生土器片が出土した。いずれも小片であり完形に復元できるものはないが、弥生時代後期後半の時期と考えられる。
 安倍山丘陵上では、丘陵北側斜面で実施された桜井公園遺跡群第5次調査においても同時期の遺物が出土しており、丘陵上に当該期の集落が存在したことが推定されている。
 安倍山丘陵上の弥生時代集落が丘陵北側のみならず、南側にも広がっていた可能性を示唆するものと言える。
[参考:桜井市立埋蔵文化財センター夏季企画展「平成18年度発掘調査速報展」解説書より]
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エジプト ツタンカーメン王に娘? 胎児ミイラをDNA鑑定へ

2008年08月07日 | Weblog
 ルクソールの「王家の谷」の黄金のマスクで有名な古代エジプトのツタンカーメン王(紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)の墓で見つかった死産とみられる女の胎児のミイラ2体について、カイロ大医学部と共同でDNA鑑定を実施すると発表した。鑑定には数カ月かかる見通し。
 胎児のミイラは、1922年に南部ルクソールの「王家の谷」で発見され、カイロ大に保存されていた。このミイラが同王の子供ではないかとの見方は以前からあったが未確認だった。
 ツタンカーメンは12歳で結婚したとされるが、現在まで子供が生まれていたとの記録は見つかっていない。
 ツタンカーメンは約3300年前の古代エジプト第18王朝の王。10歳前後で即位し、在位9年ほどの19歳前後で死亡したとされる。
[参考:共同通信、時事通信社、産経新聞]

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京都市下京区 室町時代の町屋遺構 甕が推定66基

2008年08月07日 | Weblog
 市埋蔵文化財研究所は6日、室町時代(14世紀後半~15世紀初め)の酒屋とみられる遺構が下京区童侍者町(烏丸通綾小路西入ル)の平安京左京五条三坊九町跡で見つかったと発表した。
 酒を醸造したとみられる甕やその据え付け穴のほか、柱穴、地下倉庫、井戸など酒造業の施設がそろっていたことを確認した。甕跡は直径70cm、深さ25cmの円形で38個確認された。
 礎石など町家跡も良好に残り、幅(間口)10m、奥行き30mの「うなぎの寝床」だったとみられる。通り沿いに店舗、奥に作業場と井戸、通りから奥まで突き抜ける「通り庭」があり、現在とよく似た京町家の構造という。
 甕は南北15列、東西7列に66基並んでいたと推定される。地下倉庫は東西約5m、南北約2・5m、深さ約1mで、地中の湿気を遮る「すのこ」を支えたとみられる礎石が残っており、麹室(こうじむろ)の可能性が高いという。
 室町時代の京都は地下水を生かした酒造りが盛んで、300軒以上の酒屋が並び、資金を蓄積し高利貸も営んだ酒屋が経済の中心を担っていたという。
 甕の破片は人為的に壊されており、1419年、幕府が出した麹づくりの禁令に従わなかった制裁の可能性があるという。
 現地説明会は9日午前10時から。問い合わせは現場事務所TEL075(344)2602へ。
[参考:京都新聞、毎日新聞]

備考
 当時の京都は酒造りが盛んで、付近に酒屋があったことは、北野天神(北野天満宮)に伝えられている。当時の酒は、甕の中に米と麹、さらに水を加え自然発酵させた。室町時代の酒造りは神社で働く人たちの特権だったとも言う。麹の密造が横行するたびに幕府は禁止令を出し、それに対応するように町の酒屋が誓約書を提出、それらが保管されて、「北野文書」として残っている。楊梅(やまもも)室町の一例を見ると、酒屋跡から見つかった甕は鎌倉時代末期から室町時代初めのもので常滑製のものであった。(今回の遺構では人為的に壊された甕の部分が分からないが、)甕の底に直径1~2cmの穴が開けられていた。応仁の乱(1467~77)の時期に酒屋の遺構は少なくなるが、桃山時代以降に再び活況となる。
[参考:京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発掘ニュース2006.6]
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近江八幡市 出町遺跡 古墳時代のヒョウタンが出土

2008年08月07日 | Weblog
 近江八幡市出町の出町遺跡で古墳時代前期(1700-1800年前)の川跡からヒョウタンなどが見つかったと、市地域文化課が発表した。瓶や器台、高坏などの土師器、機織りの部材や火おこし具の木器も出土した。
 ヒョウタンは計10点出土し、最も保存状態のよい遺物は全長20cm、幅8cm。用途は不明だが、容器の未加工品か水辺の祭祀に用いられた可能性がある。東近江市・斗西遺跡や長浜市・川崎遺跡などでも見つかっている。
 9日午前10時から現地説明会を開く。 問い合わせは、同課=電0748(36)5529=へ。
[参考:中日新聞]

備考:
 出町遺跡は、弥生時代中期(約2000年前)から平安時代まで断続的に続く集落遺跡で、弥生時代中期後葉、古墳時代前期(約1700年前)が中心時期となる。
 掘立柱建物のみの集落跡として知られる。特徴的な遺物としては、祭祀に関わると考えられる遺物が確認されており、黒漆塗蓋型(きぬがさがた)木製品、直弧紋が施された高杯脚部が出土した。
[参考:滋賀県教育委員会事務局文化財保護課HPより]
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姫路市の市之郷廃寺 飛鳥時代の金堂跡か

2008年08月07日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町大中)はが6日、「市之郷廃寺」で飛鳥時代(七世紀後半)の大量の瓦破片や柱の土台となった礎石などが見つかったことを発表した。
 寺院の屋根の上端を飾る鴟尾の破片や塔の先端を飾る「水煙」と呼ばれる青銅製装飾品の破片も発見され、敷地内には塔や仏像を安置した金堂などの建物があったとみている。鴟尾には大阪市・四天王寺と同様のレンゲ模様があり、飛鳥時代の創建を裏付けている。
 瓦の破片は飛鳥時代のほか、奈良、平安時代のものもあり計数万点に上る。また基壇状の高まり(東西約21m以上、南北約16m、高さ約0・6m)の中に礎石が1つ、礎石を抜き取った穴四カ所残っていた。
 市之郷廃寺はJR姫路駅の東約1kmにあり、これまでの出土品から7世紀後半-9世紀中ごろまで存続した地域の有力寺院と考えられている。飾磨郡(現姫路市の一部)最古、県内でも最古級という。近くに播磨国府があったとする説がある。
 9日午後1時半から現地説明会がある。 発掘調査現場事務所TEL079・285・1513
[参考:共同通信、神戸新聞]
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初期のシェークスピア劇初演の劇場跡を発見

2008年08月07日 | Weblog
初期のシェークスピア劇初演の劇場跡を発見=ロンドン(時事通信) - goo ニュース

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)1564年4月26日~1616年4月23日
 イングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォンで生れる。
 1585年前後にロンドンに進出したといわれる。
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大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘

2008年08月07日 | Weblog
立明寺地区遺跡/古代官道
 大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘
筑紫野市教委は6日、奈良時代800年頃の大宰府政庁から放射状に延びる道路  「官道」の一部が、立明寺(りょうみょうじ)地区遺跡(筑紫野市立明寺)で新たに発掘されたことを発表した。南北に延びる幅12mの広い道路で、筑後方面に向けた道路が発掘されたのは初めて。両側に側溝(幅約40cm、深さ約50cm)があり、長さ170mを発掘した。奈良時代の官道の幅はおおむね約9mで規模的にも重要な広域交通路と考えられるとする。
 今回の遺構は大宰府条坊の南端とされる位置(太宰府市塔原東1丁目)から南に約1kmの地点で、これまで官道があると推定されていなかった場所。
 奈良時代の九州の官道は総称して西海道と呼ばれる。西海道は、碁盤目状に街路が整備された大宰府条坊を起点に6方向に伸びた。官道はこれまで、水城(みずき)と鴻臚館を結ぶ西門ルートや博多を結ぶ東門ルート、筑紫野市岡田で見つかった豊後道の一部が明らかになっていた。
 本遺跡から東へ約2.5mの岡田地区で見つかった8世紀中頃の道路状遺構は道路幅9mで、太宰府から豊後方面へ通じるルートと考えられている。
 大宰府条坊から南下する官道は基肄(きい)城跡(佐賀県基山町)の東側(小郡市)を抜けて築後(久留米市)と肥前(佐賀県)に分かれる。その分岐点までに「城(き)の山道」があったとされる。「城の山道」は万葉集の一首に登場するだけで位置などは、ほとんど不明という。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]

 太宰帥大伴卿の京に上りし後に、筑後守葛井連大成(ふぢいのむらじおおなり)の悲しびて作る歌一首
  今よりは 城(き)の山道は さぶしけむ 吾が通はむと 思いしものを (万葉集 巻4-576)


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