歴歩

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和歌山市・岩橋千塚古墳 胡ろくかたどった埴輪 全国初出土

2008年08月26日 | Weblog
 和歌山市岩橋の県立紀伊風土記の丘(県教委)は26日、岩橋千塚古墳群内の大日山35号墳(6世紀前半、県内最大級全長約86mの前方後円墳)から、腰に装着して矢を入れる道具「胡籙(ころく)」をかたどった形象埴輪が見つかったことを発表した。
 これまで胡ろくの実物自体の出土例もなく、同古墳と近くの古墳から、胡ろくを身に着けた人物埴輪は出土していたが、胡ろく自体を写実的に表現した形象埴輪の出土は全国初。
 同古墳でこれまでに見つかっている、飛ぶ鳥や両面に顔が付いた人物に続く類例のない埴輪で、ここに葬られた人か地域かは分からないが、独創性から、支配者一族がヤマト政権に屈しない強い権力を持ち、独自の埴輪を作る人々がいたことを示唆しているという。
 05年度調査で、前方後円墳の西側造り出し部分から出土した逆台形の胡ろくは、円筒形の基部を取り付け、高さ約96cm、幅約39cm。中央の矢筒は立体的で、筒に収納されている5本の矢と矢羽根が線で刻まれている。金具など細部も表現。県教委はほぼ原寸で写実的な埴輪の出土は「古代の武具の研究に貴重な資料」としている。
 古墳時代の胡ろくは、木やつる、動物の皮に飾り金具が付けられていたと考えられているが、有機質部分はなくなって出土する。
 胡ろく形埴輪については今年3月までに復元作業をし、その後、他に出土例がないかなど専門家に評価を依頼していた。胡ろく形埴輪近くから出土した両面人物埴輪のほおにも矢羽根と矢尻が線刻されており、弓矢を重要視していたことがうかがえると言う。
 古墳群は4~7世紀ごろ一帯を支配していた紀氏一族の墓とされる。
杉山晋作・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「実物の胡ろくの約4倍の大きさ。配下に置いた技術者集団が胡ろくなどの革製品作りにかかわっていたことを象徴的に示したのでは」とみている。
 8月30日~9月15日、風土記の丘資料館で速報展を開く。
 胡籙(ころく、「ろく」は竹かんむりに録の右側が碌の右部分)は、5世紀に朝鮮半島から伝わった矢筒で、馬上から矢を射る際に用いる。春日大社や正倉院(ともに奈良市)に実物が残っているが、古墳時代のものは金具など一部しか見つかっていない。
[参考:毎日新聞、紀伊日報、時事通信、産経新聞]

写真は、2009.7.7 江戸博物館にて撮影

キーワード: 胡籙形埴輪、胡ろく形埴輪、胡録形埴輪
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高知市・朝倉古墳 県内最後(7世紀前半)の大型古墳

2008年08月26日 | Weblog
 高知大人文学部考古学研究室は25日、高知市朝倉丙の朝倉古墳築造年代を出土した須恵器の形状から古墳時代終末期(620~630年ごろ)と特定し、県内の大型古墳としては最後に造られたものであることが確認されたと発表した。
 朝倉古墳(1950年県指定史跡)は、南国市の小蓮古墳や明見彦山1号墳とともに「土佐三大古墳」に数えられ、現存する横穴式の石室の中では県内で2番目に大きい。石室の形状などからこれまでも7世紀前半に造られたと推測されていたが、他の2つの古墳より築造年代が20~30年新しいことが判明した。
 石室内の玄室から須恵器などのかけら約100点以上が出土。「坏(つき)」と呼ばれる須恵器皿のふた部分の破片が出土し、付いていたつまみ(直径1.5cm、高さ9mm)の形状から年代を確定した。
 古墳全体の大きさや形は宅地開発で墳丘が削られていて分からなかった。石室内 玄室は奥行き5.2m、幅2.5m、高さ2.5m。石室床面に1辺約30cmの石が敷き詰められていた。

 国全体が律令国家へ移行する中で土佐の豪族がどのように対応していったのかを知る上で重要で、今回の調査では、小蓮古墳のある南国市周辺から朝倉古墳のある高知市へと豪族の勢力図が変遷した様子も想像することができるという。
 一般向け現地説明会は行われないが、11月16日午後1時半~4時に同大総合研究棟で開催される研究会で報告される。
[参考:毎日新聞、読売新聞、高知新聞]

現地の案内板より抜粋
 (略)封土は取り除かれ石室の石組は露出しているが、構造は両袖の横穴式石室である。遺骸を安置する玄室の奥壁は一枚岩で、長さ5.4m、高さ2.4m、側壁は二枚の石で2段積みである。玄室と外部との通路である羨道は、現存部で長さ2.6m、幅2.13mを測る。明治の初期に発掘され、須恵器・馬具などが発見されたといわれるが、遺物は現存しない。(略)
 平成元年三月 高知市教育委員会
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発掘された日本列島2008 城久遺跡群出土 徳之島産壺

2008年08月26日 | Weblog
 「奄美に大宰府「出先」か/喜界島・城久(ぐすく)遺跡群」の新聞記事(ニュース)が出たのは2006年9月10日(日)沖縄タイムスであった。
 下記のように記されている。 
 中国製青磁片や土師器片など国の役所跡でしか出土しない貴重な品々。役所とみられる大型建物跡(直径30cm前後の十本柱で囲まれた部分は14.5m×11m)もあり、来島した研究者から大宰府との関連を指摘する見解が相次いでいる。
 10世紀の文献に、大宰府の出先機関とみられる『キカイガシマ』の記述があり、それがこの遺跡である蓋然性は高い。
 平安時代に日本の貴族が珍重したヤコウガイなどの南島産物の需要が高まり、その調達のために現地で交易を取り仕切ったのが『出先機関』の一番の役割だった可能性がある。

 それ以前にも、9世紀ごろ大宰府近辺で使われた食膳用の器と同じ形式の土器片(高坏の底部か)が出土している。

 写真は、山田中西遺跡から出土されたカムィヤキと呼ばれる徳之島産の壺か。
 
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発掘された日本列島2008 大坂城三の丸跡 「豊臣家最後の晩餐」出土品

2008年08月26日 | Weblog
 昨年11月1日の新聞(ニュース)で、大坂城三の丸跡の北辺から陶器・魚の骨が大量出土したとの報道がされた。
 17世紀初め慶長年間後半のものとみられ、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅びる直前、大規模な宴会が開かれたことがうかがえるという。
 白木の箸は432膳分と推測され、当時の宴席では本膳、二の膳など各膳毎に箸を4、5回変えたとされ、出席者は100人近くと推測。
 出土した器は国産陶器が主で、志野焼、唐津焼の向付、備前焼の茶入れなど。マダイ、シイラなど魚の骨、シカなど動物の骨、サザエ、ハマグリ、アワビなど貝類も発見された。
 「鼠志野」の向付は、専門家の研究で1605年以降に生産されたとされる。
 会席料理のような宴会の食事の痕跡で、一度に捨てられたとみられる。
 当時の大名らの宴席については、豊臣秀吉が侘び茶の影響で「二汁三菜」と定め、簡素化されていたが、秀吉死後は、大名茶人の古田織部が「侘びと言っても、あまり粗末なものを出すものではない」として料理や器に工夫を凝らした。出土した器や多様な食材は織部が工夫したという慶長年間の会席料理の特徴に合致するとしている。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
 写真は出土品のうち器の一部。中ほどの薄手の絵唐津も品がよい。
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