向日市埋蔵文化財センターが21日、長岡京跡(784-794年)の北側の野田遺跡(森本町野田)で、碁盤目状に区画する条坊道路跡が新たに見つかったことを発表した。
都がさらに北に広がっていたことがほぼ確実となり、長岡京の成立や構造を解明する貴重な遺構といえそうだ。
今回の調査では、これまで長岡京の北端とされてきた北京極大路からさらに約120m北の地点で、約9m幅の南北に走る2本の溝が見つかった。この溝は条坊道路跡(東二坊坊間西小路)とみられ、溝の外側からは掘っ立て柱の建物跡や井戸跡なども見つかった。
平成17年の調査でも、北京極大路から約800m北の修理式遺跡(寺戸町修理式)から側溝を持つ幅24mの道路跡を確認。前年にその東側でも道路跡が見つかっていた。今回の調査で、長岡京全体がさらに北に広がっていたことが裏付けられた。
これまでは都の一番北側に政治の中枢機関が集中する「宮城」があったとされていたが、同センターは「平城京をモデルとして最初に宮の中心部を決めたが、南は桂川が流れ、都を広げることができなかったため、北側に拡大させたのではないか」と話している。平城京や平安京とは異なった構造をとっていた可能性があるという。
現地説明会は野田遺跡で23日午前10時から。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]
都がさらに北に広がっていたことがほぼ確実となり、長岡京の成立や構造を解明する貴重な遺構といえそうだ。
今回の調査では、これまで長岡京の北端とされてきた北京極大路からさらに約120m北の地点で、約9m幅の南北に走る2本の溝が見つかった。この溝は条坊道路跡(東二坊坊間西小路)とみられ、溝の外側からは掘っ立て柱の建物跡や井戸跡なども見つかった。
平成17年の調査でも、北京極大路から約800m北の修理式遺跡(寺戸町修理式)から側溝を持つ幅24mの道路跡を確認。前年にその東側でも道路跡が見つかっていた。今回の調査で、長岡京全体がさらに北に広がっていたことが裏付けられた。
これまでは都の一番北側に政治の中枢機関が集中する「宮城」があったとされていたが、同センターは「平城京をモデルとして最初に宮の中心部を決めたが、南は桂川が流れ、都を広げることができなかったため、北側に拡大させたのではないか」と話している。平城京や平安京とは異なった構造をとっていた可能性があるという。
現地説明会は野田遺跡で23日午前10時から。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]