京都府木津川市の文廻(ぶんまわし)池遺跡(現在、馬場南遺跡)から、板状の三彩陶器数十点が見つかった。鮮やかに彩色されており、正倉院宝物にもひけをとらない国宝級。
今回見つかった陶板の中には縦約15cm、横20cmの大きなものもあり、波や流れる水、雲など、須弥山特有の文様が描かれていた。大きな陶板は今のところ数点、小片は数十点。
組み立てると高さ数mの須弥山の工芸品になるとみられるが、仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。
三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。
現場は平城宮跡の北東約5km。約5千㎡の住宅予定地を京都府教委などが調査している。土器や瓦から、奈良時代・8世紀中頃~後半の仏教施設や儀礼場の跡とみられる。近くでは、高句麗系とみられる飛鳥時代・7世紀初めの最古級の高麗寺跡(国史跡)があり、聖武天皇が都を置いた恭仁京(740~44年)の宮殿跡もある。
同じ場所から、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡や「神尾寺」と書かれた墨書土器も出土している。
現地を訪れた考古学者は「三彩は、代表的な寺院跡からでも数点見つかるかどうかだ。驚いている。平城宮と同じ瓦も見つかり、かかわりが考えられる」と話している。
〈須弥山〉インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。
[参考:朝日新聞]
備考
①三彩陶器/須弥山模様
須弥山模様の三彩陶器は、松阪市伊勢寺町の伊勢寺廃寺でも出土されている。
三彩陶器は小さい壺などが一般的であるが、須弥山を具現化したものか、あるいは仏像の台座ではないかと考えられている。時期も8世紀中頃から後半。奈良三彩らしい。
②神尾寺
墨書土器に書かれた神尾寺を近辺で見つけるのは難しい。長岡京跡をさらに越えて150km先の亀岡市にある、金輪寺(きんりんじ)の裏山にあった神尾山城は別名神尾寺城とも本目城ともいう。天正年間(1573-1592)明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったというが、この本目城とは神尾山城を指すと推定されている。当時神尾山は本目庄の中にあったからである。金輪寺は山号を神尾山といい、天台宗として延暦2年(783)に西願上人により創建され、一時衰退するが、寛治年間(1087~1093)に明恵上人により再興され、堂宇が建ち並び隆盛を極めたという。今は本山修験宗に属する。
創建時期の783年頃、あるいは正式名がまだ決まっていなかったそれ以前の段階では神尾寺と称したのではないだろうか、それとも別の近い場所に神尾寺と呼んだ寺院があったのであろうか。
今回見つかった陶板の中には縦約15cm、横20cmの大きなものもあり、波や流れる水、雲など、須弥山特有の文様が描かれていた。大きな陶板は今のところ数点、小片は数十点。
組み立てると高さ数mの須弥山の工芸品になるとみられるが、仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。
三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。
現場は平城宮跡の北東約5km。約5千㎡の住宅予定地を京都府教委などが調査している。土器や瓦から、奈良時代・8世紀中頃~後半の仏教施設や儀礼場の跡とみられる。近くでは、高句麗系とみられる飛鳥時代・7世紀初めの最古級の高麗寺跡(国史跡)があり、聖武天皇が都を置いた恭仁京(740~44年)の宮殿跡もある。
同じ場所から、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡や「神尾寺」と書かれた墨書土器も出土している。
現地を訪れた考古学者は「三彩は、代表的な寺院跡からでも数点見つかるかどうかだ。驚いている。平城宮と同じ瓦も見つかり、かかわりが考えられる」と話している。
〈須弥山〉インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。
[参考:朝日新聞]
備考
①三彩陶器/須弥山模様
須弥山模様の三彩陶器は、松阪市伊勢寺町の伊勢寺廃寺でも出土されている。
三彩陶器は小さい壺などが一般的であるが、須弥山を具現化したものか、あるいは仏像の台座ではないかと考えられている。時期も8世紀中頃から後半。奈良三彩らしい。
②神尾寺
墨書土器に書かれた神尾寺を近辺で見つけるのは難しい。長岡京跡をさらに越えて150km先の亀岡市にある、金輪寺(きんりんじ)の裏山にあった神尾山城は別名神尾寺城とも本目城ともいう。天正年間(1573-1592)明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったというが、この本目城とは神尾山城を指すと推定されている。当時神尾山は本目庄の中にあったからである。金輪寺は山号を神尾山といい、天台宗として延暦2年(783)に西願上人により創建され、一時衰退するが、寛治年間(1087~1093)に明恵上人により再興され、堂宇が建ち並び隆盛を極めたという。今は本山修験宗に属する。
創建時期の783年頃、あるいは正式名がまだ決まっていなかったそれ以前の段階では神尾寺と称したのではないだろうか、それとも別の近い場所に神尾寺と呼んだ寺院があったのであろうか。