歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

沖縄県糸満市・摩文仁ハンタ原遺跡 縄文後期の人骨27体、貝製品など232点が出土

2009年06月25日 | Weblog
 糸満市教育委員会と土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県下関市)の共同調査により24日までに、糸満市摩文仁の埋葬遺構「摩文仁ハンタ原遺跡」の石灰岩の岩陰(調査面積約5㎡)から、縄文時代後期(約4000~3000年前)の縄文人骨27体分や貝製などの人工遺物が多数このほど見つかったことがわかった。人骨は最終的に50体分近くになるとみられる。人工遺物も232点出土し、その8割の186点は貝製品。
 装飾品の一種とみられる「線刻有孔製品」は類例がなく、縄文人の精神活動の一端を知る貴重な手掛かりという。
 この時期の人骨と貝製品がまとまって出土したのは本島南部では初めて。
 調査はヒトの形質と埋葬形態の変遷を調査する目的で2007年から3年計画で実施されている。調査報告書によると、県内では山下洞人(約3万2000年前)や港川人(約1万8000)などの旧石器時代人骨が出土しているが、それに続く縄文人骨や弥生人骨の出土例は具志川島(伊是名村)など数カ所あるだけで、多くないという。そのため琉球列島で旧石器時代人がどのように変化したか不明な点も多い。
 今回発見された人骨は2種類の方法で埋葬されていた。地表面近い場所で見つかった人骨は頭骨を石灰岩で取り囲む「石囲墓」と呼ばれる方法で、さらにその下層から発見された人骨は1カ所に集める「集骨」と呼ばれる方法でそれぞれ埋葬されていた。時期的な差が考えられ、変遷を知る上でも県内有数の埋葬跡としている。
 7月11日午前に現場説明会を開き、発掘した人骨や人工遺物を公開する予定。
[参考:琉球新報、沖縄タイムス]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島市・弘部野遺跡 古代北陸道の駅家跡か、建物群跡など出土

2009年06月25日 | Weblog
 市教育委員会は24日、都と北陸地方をつなぐ古代「北陸道」の要所である弘部野(ひろべの)遺跡で、7世紀前半~9世紀後半(飛鳥-平安時代前期)の掘っ立て柱建物群の跡などが見つかったと発表した。
 市教委は、駅家(うまや)の可能性があり、確認されれば北陸道では初めてである。
 出土したのは、母屋と離れとみられる2棟の掘っ立て柱建物や柵の跡。母屋は柱の間隔が3mあり、古代の役所と同規模という。約250年間に2回建て替えた跡があった。倉庫もあった。
 掘っ立て柱建物は、柱の穴が直径40cmを超えるものもあり、柵で区画され、整然と並んでいた。長期にわたり、集落として機能していたらしく、駅家のほか、有力者の屋敷とも考えられる。
 古代の北陸道は、琵琶湖西岸沿いを北上するルートが知られているが、近年の研究では、8世紀後半までは同遺跡を西進して福井県内の若狭湾沿いを北上するルートの存在も解明されつつある。
 現地説明会は7月4日午後1時半から。
[参考:産経新聞、共同通信]

2009.6.25コメント
 25日朝、読売新聞のニュース記事を見て、ちょっと内容違っているのであげてみた。
 集落跡のうち、奈良時代の6棟は柱の間隔が最大3m、柱穴の1辺が1mを超える大型で、計3回の建て替えが行われていることが判明。
 柱の間隔などが平城京などの役所とほぼ同じことから、国、郡の下部にあたる「郷(ごう)」に関係する施設だったとみている。また遺跡周辺には、古代の官道・北陸道が通っていたと推定。駅家など公的施設の可能性があるともしている。[参考:読売新聞]

 「延喜式」では、今回の遺跡を通る北陸道の近江西ルートとしての駅家は、「穴多五疋。和爾。三尾各七疋。鞆結九疋。」4箇所があげられている。その4箇所は穴太(大津市穴太)、和邇(大津市和邇中)、三尾(高島市安曇川町三尾里)、鞆結(マキノ町)に比定されている。したがって、遺跡はルート近くにあるが、駅家としては「延喜式」には該当していない。

 また、高島から越前に直行するルートの前に、若狭を経る周行ルートがあったという学説があり、同遺跡は「北陸道」ルートから外れ、高島市から若狭に抜ける国道303号沿いに位置し、駅家だとすれば、周行ルートの存在を裏付ける証拠となるとする。[参考:京都新聞]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする